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古墳について
古墳時代の前期、中期、後期にわけた古墳分布図ってありますか?ありましたら文献名やURLなど教えて下さい。 また、弥生時代に貧富の差が生まれた理由を教えて下さい。稲作の共同作業でなぜ貧富の差がうまれるのかが分かりません。 よろしくおねがいします。
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何だか掲示板みたいな使い方になっているので悪い気もするのですが・・・。 >「奴隷」という言葉を使ったのは教科書の記述で魏志倭人伝から邪馬台国の様子が書かれており、その中に「奴隷」という言葉があったからです。 なるほど、そのような覚えもあります。 調べて見ると生口=奴隷と解釈されているものも多いですね。 他にも「奴婢」もありました。失礼しました。 下記のようなことを唱えられている方もいらっしゃいました。 http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html しかしながら断定はできかねます。 発見は事実であると思いますが、それが縄文時代や弥生時代に奴隷制があったことにつながるまでには至らないと私は思います。 なぜなら魏志倭人伝は元々中国の文献であり(三国志魏書)、作者陳寿の中国(当時は晋)の時代の感覚の「奴隷」であるからです。 本題に戻りますが、邪馬台国程の国ができる時代と共同体が大きくなっていく発端期である稲作が始まった時代とは大分かけ離れているのでどこら辺が「奴隷」の発生じた時代であるかは分かりません。 上記の「奴隷制」を唱えられた方の説もまだ一説に過ぎません。 それをふまえて邪馬台国の時代(古墳時代前期と学会ではされてるようです)には存在したであろう「奴隷」は 稲作の始まりとされる弥生時代には同じような存在はまだ確認できないとするのが妥当であると思います。 私も調べ上げた上で書いているわけでないので申し訳ないのですが、 現段階での考古学・歴史学に於いて断定しきれないことはたくさんあります。 >また、金印紫綬の理由もまだ曖昧です。 もちろん教科書に載っていることも学会で(大勢に)認められているというだけで事実かどうか別の問題なのです。 邪馬台国の問題も「魏志倭人伝」をどう読むかによっても異なりますが、 事実を追求すると文献の信憑性から問うことにもなりかねません。 歴史学はもともと曖昧なところだらけです(笑 「今のところは~とされている」という教え方になって当然です。 私自身、歴史学は「ものの流れ」であって「本当のことを知る」学問ではないと考えています。 新たな発見によって歴史が覆されることも多々あります。 先生に答えられないこともあってもしょうがないと思いますよ。 専攻でない科目なのに深く勉強されていると思います。 私も考古学専攻でないので納得されるお答えがし切れないですが、参考になればと思います。 長文にお付き合い下さってありがとうございました。
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- kolo_kuro
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再びお邪魔します。 >弥生時代に貧富の差が生じたという教科書の記述は集落と集落の間でのことだったのでしょうか? 田が共同体の所有物であると考えるのでそのようだと考えるの妥当だと思います。 残念ながら立証できないので断定はできません。 >むらの統合過程では負けたむらの村人は奴隷として扱われたのでしょうか? この質問でも考えるべき問題なのですが、 有史以前の時代に於いて「奴隷」という扱いがあったことを証明できない、 つまりそのことを立証する物が出土していないことから「奴隷」という扱いではなかったと考えられるのではないでしょうか。 あと、貧富の差はあくまでも「差」であって強弱関係や主従関係をダイレクトに指すわけでないことを押さえておいて下さい。 余剰生産物や生産用具の所有量差が貧富の差から富んだ共同体と貧しい共同体ができていくのですが、 水・鉄器・米などの奪い合い起こる共同体(集落)同士の戦いは貧富の差ができてからの話だと考えるべきではないでしょうか。 また「奴隷」という扱いについて定義を考える必要がありますが、日本史に於いては見ることはないです。 もちろん「部落」や「えた・非人」の身分制度など、人間としての権利が認められなかった人達が歴史上も存在しますが、 「奴隷」という扱いで良いのかは分かりません。 私自身は近いことは行われていたと思いますが、「奴隷」ではなかったと思います。 しかし共同体に於いて「負けた共同体の人」は弱い存在であったかもしれません。 現代の人間関係でもあるように「貸し借り」で強弱関係になってしまったり、ということは有り得る話かもしれませんよ。 >実は教育実習中の大学生です。 失礼しました。中学・高校生で歴史を学ぶと、こういった疑問を持たれる方が出てきます。 (高校生までの参考書じゃ解決できない疑問ですよね) 高校生までの方ならそれなりに分かり易い言葉を使う必要が出てくるかな?と思い書きました。
お礼
適切な回答ありがとうございました。 中学校で教育実習をしていますが教科書を読めば読むほど生徒に聞かれたら答えられないような質問が出てきます。 「奴隷」という言葉を使ったのは教科書の記述で魏志倭人伝から邪馬台国の様子が書かれており、その中に「奴隷」という言葉があったからです。 >>実は教育実習中の大学生です。 >失礼しました。 いえいえ、あえて中学生のような質問の仕方をしました。 弥生時代はこれで平気だと思いますが、次回授業の邪馬台国が問題ですね。魏志倭人伝を要約しましたが本当に卑弥呼=邪馬台国の王なのか不安になりました。また、金印紫綬の理由もまだ曖昧です。
- kolo_kuro
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中学か高校生の方ですか? やや長いので難しいかも知れませんが、下記のサイトの「ピンからキリ~」の所を参考にまで。 http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/kyuuryou/kofunnjidai/frame1.htm 分布図というのは難しいですね。 数が多すぎますし、地域を限定して探されると良いと思いますよ。 古墳の形式によって時代区分をされているわけではないからです。 古墳は全国にもありますし、大和で前方後円墳が全盛期だった頃、他の地域では円墳が作られていたということもあり得る訳ですから。 大体前期は円墳または方墳、中期は前方後円墳・前方後方墳(横穴式)、後期は群集墳(形は方墳)と言われていたように覚えています。http://www9.plala.or.jp/juraku/csoki1_1.html 弥生時代の貧富の差は共同作業ですが、各々の共同体に於いて差が出てきたことが上げれます。 つまり良く米の取れる村と取れない村とに差が生じたことから始まったのではないでしょうか。 稲作によって定住や水田などの確保の必要性、食生活の安定と稲作の共同作業によって集落の規模が大きくなっていたのですが、 米の持つ備蓄性という特色から備蓄の量によって貧富の差が生じたようです。 米に価値が生じ、米の良く採れる土地にも価値が出てくることになるのでしょうね。 http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-3-2.htm 参考になれば幸いです。
お礼
親切な回答ありがとうございます。 実は教育実習中の大学生です。 専攻と教える科目が関係なくて受験でも日本史をやっていないので教科書を読んで混乱してしまいました。 古墳の分布は白石太一郎さんの『古墳とヤマト政権』(文春新書)で発見することができました。 それと、弥生時代に貧富の差が生じたという教科書の記述は集落と集落の間でのことだったのでしょうか?集落の内部で貧富の差が生じたと捉えてしまってなぜ共同作業なのに貧富の差が生まれたのかと考えてしまいました。 また、むらの統合過程では負けたむらの村人は奴隷として扱われたのでしょうか?
お礼
詳しく教えて下さってありがとうございます。 >歴史学はもともと曖昧なところだらけです(笑 そうですね。私は地理学を専攻しているのでつい 真実を求めてしまいます。 考え方自体を考え直さ なければいけませんね。 おかげさまで今日の授業は生徒が真剣に聞いてくれ て自分ではよくできたと思います。 長々と本当にありがとうございました。