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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:言語論の前提 part2)

言語論の前提はなぜ理解できないのか

このQ&Aのポイント
  • 「言葉では物事を示せない理由」についての疑問と、本に書かれた理由の諦めについて納得できない。
  • 総称的な表現を細かく説明すればいいのではないか、数字が示せることに限定的な性質があるのではないかと考えるが、数字も観念であることが指摘される。
  • 納得したいが、なぜ頭に入ってこないのかわからない。

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回答No.5

 No.2です。  ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを証明します。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が なぜ《伐採すべき草や木》を《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。

その他の回答 (5)

回答No.6

量子力学の不確定性原理の相補的不確定性において、 ある値を確定しようとすると、それとセットになって存在性を 表すペア(位置と運動量、時点と質量)が無限不確定に 発散する。 あなたが見ている「コップ」は、原理的に追求していくと 分子>原子>素粒子>クォーク>超弦(量子定常波)へと 還元されるが、だからといって、素粒子を見て「コップ」を 感じる事はない。 あなたがコップに見ているのは、あなた自身の過去の経験 の投影なのです。 同じ物を見ても、遺伝的要因や文化的背景、個人的経験が 違えば、そこに感じているものは異なるのだ。 そうした典型的な例が、色だ。 「色」は、連続的な電磁波の波長の変化であり、物理的には 「色」の実体である、などというものは存在しない。 いくら波長の違いについて正確に表現しても、色についての 「正確な表現」ではないのだ。 可視光線の領域は、赤外線から赤を経て黄、緑、青、紫外線 へと一方的に波長が短くなるのであり、そこに「三原色」が あったり、「色環」を成したりするのは、それぞれに対応した 3種の色覚細胞があるという、受け手の側の都合による。 「赤は青の反対」などといった色彩の特性も、普遍的な根拠 はなく、個別の特性(遺伝、感覚器官、経験)に過ぎない。 「波長の連続的変化」という一次元に、五感の相関した多次 元の経験の蓄積による特定の波長に対する条件反射的な (その波長に伴う経験の)印象が付加される事で、“多彩”さ は生じているのです。 「赤は暖かい」や「青は冷たい」といった色の根拠を分析する と、赤は火(地球の低い酸素濃度での燃焼温度の色)、血や 肉(酸素を運ぶヘモグロビン(鉄)の酸化した色)、花や果実 (緑(葉緑素)の葉っぱの中で目立つ色)といった、原因の 異なる長い波長の光に基づいた経験の総和、青は空(気体 分子は短い波長を乱反射する)や水(液体分子は長い波長 を吸収する)といった、原因の異なる経験が先入化していると 推察できる。 脳の、「五感の相関した経験の蓄積において、次の先行的 感覚の感受(光や音)に対して広くニューロネットを活性化す る(予測的な感情)」という総和機能によるのだ。 そして、こうした「経験的に大雑把に捉える」という機能は、 不確定性原理において絶対化(=無限発散)せずに表面的に (いい加減に)捉える事によって有限な性質を生じる、という 存在の起源も成すのだ。(還元主義的な“正確さ”とは別)

回答No.4

言語学の初歩的な考え方から説明しますと、私たちは物があって、その名づけとして言葉があると思っていますが、それは逆です。 ソシュールは言っています、語と語の「差異」として物が切り出されてくるので、「言語は差異の体系である」と。 私たちは言語というものは、先ず物があって、それに一つ一つ名前を付けて行って、それを集めたものが言語体系だと思っているけど、言語学ではそれを「言語名称目録観」と言って、間違いだとされています。 だけど言語学を知らない人はたいていそのように考えている人が多いと思います。 まず全体としての言語システムがあって、言語というのは選択と排除によって個々の言葉が出来上がるので、それによって自然界のモノの全体が切り出されて個々のモノが存在するようになるということ。 簡単にいえば、言葉が先で、物はその後だということです。 ソシュールはたとえ話として、将棋を例に挙げていますが、将棋の「歩」だとか「桂馬」というのは、それ自体では何の意味もなく、将棋というゲームの全体の中でそれがどのような役割を果たすかによって、「歩」だとか「桂馬」の意味が出てくるので、それと同じように個々の言葉は言語システムという全体の中の役割によって、個々の言葉の意味があるということです。 個々のモノがあって、その名づけとして言葉があるのではないということ、それが言語学の初歩的な考えですから、それを押さえたうえで、あなたの質問を考えて行きましょう。 「言葉で物事を示せない」。 まず、物があって言葉があるのではなく、言葉があって物があるのですから、言葉で示せない物も物事もありません。 言葉以前に何か神秘的なモノがあるかのように考えやすいですが、そんなモノはないのです。 例えば「ネコ」という言葉があるとします。 もし、自分だけの固有の「ネコ」を示したかったら、その「ネコ」の固有である点を次々と列挙して他の「ネコ」と区別してゆけばよいわけです。 例えば「眼の色」が他の「ネコ」とは違うとか、色々な特有の性質を列挙して特定してゆけばよいのです。 「ネコ」という言葉は一般概念ですから、一般的な「ネコ」しか示せません。 もし、他とは違う自分だけの「ネコ」を示したかったら、形容詞をいっぱい使って叙述してゆけば、自分だけの「ネコ」を特定することができます。 それでも、まだ充分でなければ、さらに詳細に言葉を使って特定してゆけばよいので、いずれどこかでこれで充分だという点に到達するでしょう。 何といっても、言葉があって初めて物があるのですから。 そして言葉で示せない物は存在しないのです。 物事であっても同じです。 物事で何を意味するかによりますが、出来事を意味するならば、出来事はすべて言葉で叙述できます。 どんどん言葉を連ねて行けばよいのですから。 いずれどこかで、ぜんぶ説明したことになるでしょう。 だけど、それでも充分でないような感じが残ることもあります。 そしたら、さらに言葉を連ねて行けばよいのです。 どこまでもどこまでも切りがないかもしれませんが・・・・ 「数字を使って説明してもダメなのでしょうか?数字を使うと限定的に示せるのではないかと思ったのですが・・・・・」。 たとえば目の前に「リンゴ」があって、それを数字を使って説明するとはいったい何なのでしょうか? 数字は「リンゴ」の数を示すことはできますが、「リンゴ」の持つ性質を示すことはできません。 自分のペットである「ネコ」を特定し、限定するために数字を列挙しても、それで「ネコ」を特定できるでしょうか? 数字をいくら連ねても「リンゴ」の、「ネコ」の、特定に役立つとは思えません。 数字は観念ではなく、理念的形象です。 つまり、規則の体系。 1とか2とかいう数字は、それ単独では何の意味もありませんが、数学という規則の体系に置かれることで意味を持ちます。 言葉と同じです。 個々の言葉はなんの意味もないけど、言語体系の全体に置かれることで、その「差異」として意味があります。 観念というと実在ではなく、仮象、あるいは幻想のように勘違いしますが、数とか数学は理念的なモノで、理念としては実在します。 それでなかったら、現代の科学・物理学が数学に基づいていることの理由がなくなるでしょう。

回答No.3

これは、 物を、物の《それ自身》と《それがもつ性質》、の二つに分けて考えるとわかりやすいのではと。 仮に目の前にリンゴがあるとします。このリンゴは、「甘い」、「酸っぱい」、「赤い」、「(触ると)硬い」などの様々な性質を有しています。 しかし、これらの性質をいくら並べ立てても、これらはそのリンゴが持っている性質や特徴をあげているだけで、そのリンゴ自身ではない。 また、 私たちがそのリンゴの一部の姿・形などしかわかりません。 たとえば、人間は紫外線を見ることができません。それに対して鳥などは紫外線の領域まで見えるものがいます。おそらく、鳥のように我々が紫外線の領域まで見えるとすると、リンゴの色や表面の模様は今見ているリンゴのそれと違ってみえはずです。 というこで、私たちは、私たちが有している感覚の中でしか、リンゴを知ることができない。そして、リンゴを語るときは、私たちが知りえた一部しか語ることができない。 このように解釈することもできるのではないかと。 また、わたしがそのリンゴを食べ「甘い」と感じても、 質問者さんは「甘い」と感じないかもしれません。 すると、わたしがそのリンゴを甘いと言ったのは、正しいのか、あるいは、正しい情報を与えているのか、という問題も発生してきます。 などなど色々と考えることができます。

回答No.2

 こんにちは。  ★ 「言葉では物事を示せない理由」を知りたいです。  ☆ (あ) 言葉は――すなわち 初めは音声・音韻としての言葉ですが これは―― そもそも個別のものごとではなく 類や種としての概念を示すために持つように成ったものです。  ★ 総称  ☆ として 言葉は成り立っているというのと同じです。  (い) 言いかえると たとえばの話ですが すでに日本語が話されている社会の中で わたしたちはそれぞれ生まれて来て物心がつく前のころにでしょうか 言葉を聞きこなししゃべることができるようになります。そうなのですが このとき自分をことを《わたし》と呼びます。そうしますと むしろ――ひとつのあたまの体操みたいなことですが―― このワタシが わたしの固有名詞ではないかという見方を持ってしまいます。  わたしの場合なら ぶらじゅろんぬという名前は むしろ代名詞であるという見方です。  (う) 言いかえるなら ワタシなる言葉は 誰もが自称するのに使うのであるからには 個別のひとを示すには 不便である。けれども ぶらじゅろんぬなる個別の名前が ほんとうにその個人を一対一の対応として概念なり内容なりを示しているか? 答えは 無理です。  (え) 言葉は つねに種ないし類としての名称でありつづけていて つまりは総称として役立っている。  (お) ただし 次のような見方は 同時に成り立つとも考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  総称になるなら、もっと細かく説明すればいいことではないか?と思ったんです。その、たった一つのものを示すためには、そのものだけにある特徴を示せば(形容、修飾して)、それで示せたことになるのでは?と思いました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (か) すなわち わたしもすでに次のように言っています。  ☆☆ (【Q:言語論の前提 part 1 】回答No.3) 問題は 意外と かんたんです。どこまでも説明を繰り広げて行くこと これが 解決策です。 (き) なぜそう言えるか?   ☆☆(同上) それは 伝達するものが その人の《意志》であることが 大前提となっています。単なる認識〔のみ〕を伝えるのとは別だという意味です。  ☆ 《認識のみを伝える》場合には かなり厄介だという意味にもなります。特に個別のモノ・コトを表現して示す場合にはです。(いま STAP細胞の問題で その厄介なことをやっています)。つねに 《総称》で 一般的なモノ・コトを示しつつ 個別のものを表わそうとすることでしかないからです。  (く)★ また、数字を使って説明してもだめなのでしょうか?  ☆ それは 情報処理においてそう出来るのではないでしょうか。  ふつうに相手とのあいだでコミュニケーションを取るときには 言葉を使うでしょう。  つまり 数字を 言葉に代わるシルシとして使用する場合は どういうことになるかというと 数字が示す役目に関する限りでは その数字と〔言葉が表わしていた〕概念とが 一対一に対応させ得るはずです。    (け) ところが問題が生じます。言葉は・またそれの示す概念も 歴史的に変化するからです。その変化に合わせて 数字・対・概念の一対一の対応をもそれとして処理していかなくてはなりません。――これは ふつうに《言葉》なら かんたんに互いに了解しつつ処理していることです。つまり相手のある意志疎通においては 数字は必要ないと考えられます。

noname#191575
noname#191575
回答No.1

パート1の質問を読みました。(回答は読んでいません) 言いたい事は何となくわかったのですが、では何故あなたは質問文の中で「本」と言っているのですか? 何が書いてあるか?何というタイトルの本なのか?を書いていません。 「本」では言いたい事が伝わらないのですよね? 今回の質問では「何が書いてあるか」「何というタイトルなのか」は重要ではなく、言いたい事は別の事ですよね? 言いたい事は細かく説明すれば良い訳で、それ以外の事はだいたい(総称)で良いのではないですか? 「木」でも「本」でも、何となくわかれば良いのです。 十分「言葉で物事を示している」と思います。 もし期待している内容の回答と違うのであれば、すみません。

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