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言語論の前提
言葉で言い表しても、自分の見ているものは完璧には伝わらない。なぜなら、言葉は、観念であるから。 例えば「木」と言っても、いろんな木があるわけで、言葉というものは一般的なものしか表現できない。 「木」をいくら修飾しても、相手には、自分のみている木が伝わらない。 らしいです。 思うんですが、原子から説明していって、数学などを使ったら、相手に伝わるのでは? 無理なのかな・・・
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こんにちは。 意志疎通(コミュニケーション)の議論ですね。 意志伝達は いかにしておこなわれるか? 果たして わが意志は他人に伝わるのか? そしてそのことを 言葉による表現にしぼって捉えたい。 こういうことだと思われます。 問題は 意外と かんたんです。どこまでも説明を繰り広げて行くこと これが 解決策です。 それは 伝達するものが その人の《意志》であることが 大前提となっています。単なる認識〔のみ〕を伝えるのとは別だという意味です。 この《自己表現は 意志行為である。しかるに この意志表示にあたって 文をただの認識のみによって成り立たせる認識文をもその一環として用いる》ということについては 【Q:表現する とは】 の回答No.4を参照してください。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8501148.html つまり 繰り返し回答を述べるなら: (あ) コミュニケーションは 互いの意志表示をつうじて 意志の伝達を目的としている。 (い) よって 言葉を用いるのは ただ単に認識をのべるだけの場合もありうるけれど それは 大きく意志を伝えるための一部分であって そこでも 全体としてその人の意志内容がどこにあるか? 何であるか? を捉えようとする。 (う) のだから あくまで この意志の相互理解を目指していると見なければならない。 (え) 相互の意志の理解のために 言葉を変え表現をし直して どこまでも説明を繰り広げて話をすすめる。――これが 解決法となります。 (お) 《木》についてのそれぞれの人の持つ意味は 互いに異なる部分を持っていたとしても その木についての認識も重要であるのは然ることながら 木についての認識をなぜ・何のために持ち出しているのか? そういった目で文表現を捉えて行くこと。これです。 (か) ★ 原子から説明していって、数学などを使ったら、相手に伝わるのでは? ☆ これは 一般に 定義の問題です。むろん 前もって互いに共通の語義を持つならば 話は早いと言えそうですから 定義をしておくのは よいことだと考えられます。
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- 島崎 信也(@zakky74)
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原子に対する見解や数学的な記述さえも観念だったら、やはり完璧には伝わらないことにはなりませんか?それともmikaze007さんは、それらは観念ではないとお考えだということでしょうか?
言語は意思を伝えるために発達したものです。 意思が伝わればそれで完璧、という考え方もあります。 「あ、そこに木があるよ!きをつけてww」 ということなら単に前方の障害物として認識できる「木」だけでいいのです。 「これはマツ綱ヒノキ科ヒノキ属のサワラ という種である」といえば正確にサワラという木が特定できます。 数式や化学式で完璧に特定できる現象や物質もありますが、それは言葉の中でも特殊な表現法法でしょう。 >「木」をいくら修飾しても、相手には、自分のみている木が伝わらない。 文学者は自分が経験しているときの心象風景を具体的な事象に置き換えて、様々な方法で表現し、伝えようとしています。貴方の言う完璧というのがどんなものか、それこそ完璧には伝わってこないのですが、彼らは一人の女性の容姿を延々と何ページにも渡って描写したり、たった1日の体験を何百枚もの長編小説にしたりして文章化しています。そういった努力(が成功しているかどうかは別にして)をまず認めねばならないと思いますよ。
- Mokuzo100nenn
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>完璧には伝わらない。 その通りです。 しかし、完璧である必要が、この世にはない。 言葉は、視点をもって観察し、そこで得た情報を伝達するものです。 それで十分です。 この世界では、なにごとも完璧である必要がないが、仮に完璧を求めるならば、沈黙するのがよろしいかと。
- kannzou001
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>原子から説明していって、数学などを使ったら、相手に伝わるのでは? >無理なのかな・・・ 今のコンピューターグラフィックスがそれですよ。 ただ、その言語だけ読まされても理解できる人は、極少数なので、誰でもわかるようにビジュアル化して、映画やゲームなどで用いられています。 なので、その言語を理解できるなら「可能」と言う事でしょうね。そんな事出来る人間がどれだけいるかは分かりませんが。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
mikaze007様、こんばんは。 修飾語を駆使してみては? >「「木」をいくら修飾しても、相手には、自分のみている木が伝わらない。 らしいです。 思うんですが、原子から説明していって、数学などを使ったら、相手に伝わるのでは? 無理なのかな・・・ 」 ・・・無理は、無理でしょうね。 「Aが見たものを、100%Bも見る」って、原子から可能かどうか。 ああ、だからそれが、それこそが「言語」の限界てわけね。
- NemurinekoNya
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言葉は、概念を表わすものであり、抽象ですから、 具体である《ある木》をうまく表現できない、というところでしょうか。 その《ある木》を説明するためには、属性や容態などに羅列するる以外に手がない。 たとえば、 「ソメイヨシノで、樹齢○年。高さは△メートルで、幹の太さは◇センチ・・・。」 と言ったような表現にならざるを得ない。この羅列を増やし、情報量を多くすれば、それだけ情報としては精確さを増すでしょうが、「ソメイヨシノ」に対するイメージなどは各人によって異なるので、その話を聞いた人がその《ある木》を心の中で精確に再現できるのは望み薄ということになりますかね。 なのですが、コンピュータという便利なツールを使えば、その画像、見た目くらいは、ある程度正しく伝えることができます。 ここで役立つのが情報の《ディジタル化》、《数値化》です。 デジカメのように、画像をすべて0と1の数字と数字の列に置き換える。情報量はとんでもなく膨大で、その作業はとんでもなく長い時間が必要になりますけれども、コンピュータで出来るのですから、その点の位置情報と色などを元に、その情報の受け手は自身の頭と手作業で、その画像を再現することは原理的に可能です。 原理的には、写真レベルならば、時間と手間を惜しまなければ、まぁ、ある程度精確に伝えることは可能なのではないですかね。 数字と数字の列は、言葉の一種ですしね~。 しかし、これは《ある木》の極一部分の切り取られた情報ですから、《ある木》を正しく伝えたことになるのかといえば、クエスチョンマークですが・・・。 ☆思うんですが、原子から説明していって、数学などを使ったら、相手に伝わるのでは? ◇「原子が・・・」というのは得策ではないと思いますよ。 例えば《純水》は《H20》ですが、何度の《H20》が何リットルと言われても、私はまったくそのイメージが湧きませんから。そこから具体的な質感が湧きませんし・・・。むしろ、《水》と言ってもらった方が、具体的なイメージが喚起されます。《冷たい水》や《熱々のお湯》と言ってもらった方が、正しくイメージできると思います。
- 雪中庵(@psytex)
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実は、「木」という具体的な実体はない。 進化的・遺伝的にグループ化し得る類似点を持つ 実体の経験の蓄積において、その「類似点」として 概念的に生じているものだ。 言語とは、そうした「経験の蓄積」が共通である事を 先入化して得られる、共同幻想なのだ。 特定の作為的な刺激パターンによって、その両側で 同じイメージを想起している(はず)という。 それは、経験=階層現象表面的な定性化ゆえに、還元 主義的に原子や素粒子に確定化を求めても意味がない。 目の前の「木」という確かな存在も、詳しく見える目 があれば、電子や陽子などの素粒子の集合に他ならず、 それはや石やコップと同じであって、「木」というのは、 存在の名称ではなくなる。 その「電子や陽子の並び方」まで全て記述すれば、 「目の前の木という実体」を記述できるように思えるが、 先に述べた、「経験の蓄積」という個人的な要素を排斥 してしまうので、言語を成立させている共同幻想の部分は 失われる。
- suzumenokox
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こんにちは。 たとえば色を波長で定義したとするとこの赤とかこの青という風に客観的な定義はできますが、それを認識する主体によってそこから受け取る印象が変わってくるのではないでしょうか。つまり人によって同じ色が別な感じに映るものだと思います。大きさもたとえば5m四方の正方形と定義してもそれを大きいと感じるか小さいと感じるかは各人の主体の感じ方によります。 自分が見ているもののイメージを言葉という象徴に託しその託された象徴から相手がイメージを持つ。「自分のイメージ→象徴、象徴→相手のイメージ」の流れの中で微妙なずれが生じるのは避けて通れないものであるような気がします。言葉という象徴の定義とそこに託すあるいはそこから受け取るイメージが他人同士でまったく一致することはちょっと考えられません。
- OYAZ1962
- ベストアンサー率21% (15/69)
そのアイデアはイケるかな? このサイトを見ているからかもしれませんが、結論に辿り着く前の枝葉の部分で侃々諤々(その原子記号はあっているのか?その計算式はここの数値が誤り等)となって収集つかなくなる気がします。 仮に専門的に完璧な記述が出来たとしても、それを完璧に読み解く事の出来る人が何人居ますかねぇ? さほど重要で無い事柄の説明に多大な労力を投入するのも、如何なものかと思いますし…
- urigadai2013
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言葉は観念ではなく、概念です。 そして概念は実在します。 概念という意味は、例えば私の家の「たまちゃん」やお隣の「ミーちゃん」などの固有名のレベルを一段高いところに昇って、それを総称したものが「猫」という概念で、存在するのは個々の猫であって、概念としての猫ではありませんが、だけど概念としての在り方で、概念も実在します。 例えば学校という概念がありますが、実際に存在するのは生徒であり、教師であり、校舎です。 生徒と教師と校舎の集合体の一段高いところに昇って、それを総称したもの、それが学校という概念です。 学校は概念としての在り方で存在するモノで、眼には見えないけれど、実在します。 社会も国家も、実際に存在するのは工場だったり、会社だったり、銀行だったり、国会だったり、そうしたものの集合で、社会も国家も目には見えない概念に過ぎないけれど、それでも社会や国家は実在します。 同じように「木」にもいろいろあって、松もあれば杉もありますし、ケヤキもあればブナもあります。 そうしたモノの一段上から総称したものが「木」という概念です。 個々のモノは「この」とか「これ」とかいう指示代名詞でしか示されない固有のもので、言葉では表すことはできません。 言葉は規範ですから、一般的なものしか表示できません。 だから私が「木」といっても、他人のいう「木」とは別なものを意味している可能性はあります。 なにも「木」に限らず、すべての概念がそうです。 「社会」であっても、「国家」であっても、私が了解しているものと他人が了解しているものとは違っている可能性があります。 しかし、違っていたってそれで構わないのです。 大筋で合っていれば、細かいところは違っていても、それは許容範囲です。 もし、私が抱いている細かいニュアンスを他人に知らせたかったら、同じ「木」でも、他の「木」とはどのように違うのか、さらに補足して説明するしかありません。 しかし、どんなに詳細に説明しても私が「木」に抱いているニュアンスと他人が「木」に対して抱いているニュアンスの溝は埋まらないでしょう。 ニュアンスは無限にありますが、言葉は有限だからです。 しかも言葉は規範であり、他人との最大公約数だから、個々のモノや細かいニュアンスは各自で了解しているしかありません。 だいいち自分が考えたり、了解している細かいニュアンスを他人が100パーセント理解していたら、気持ちが悪いし、別人とは思えなくなってしまうでしょう。 適度に理解していて、適度に理解していない、それが私と他人が存在する意味です。
お礼
補足つけさせてもらいました。よければ回答ください。お願いします。
補足
回答ありがとうございますurigadai2013様 個々のモノは「この」とか「これ」とかいう指示代名詞でしか示されない固有のもので、言葉では表すことはできません。 例えば、一冊の本があります。これはなに?と聞かれて、これは週刊少年ジャンプですよ、と答えました。でも、これじゃ答えになっていない。なぜかというと、問題になっているのは、そこにある、ただ一つの本であるから。だから、「何年何月何日に発刊された週刊少年ジャンプだ」と答えた。これでも、総称だからダメ。じゃあもっと細かく言えば、総称じゃなくなる。 何年何月何日何時何分何秒に作られた週刊少年ジャンプです。これならば、総称と言えなくなりませんか? ということは個々のものを言葉で言えたことになるのでは?
お礼
ありがとうございました。