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徳川慶喜は、箱館戦争について何か語っていますか。
徳川慶喜自身は恭順していましたが、榎本武揚や大鳥圭介他旧幕臣の一部は蝦夷地で新政府軍と戦いました。 慶喜は、旧幕府軍の戦いを「よくぞやってくれた」と思ったのか、「余計なことをしてくれた」と思っていたのでしょうか。 質問です。 1.慶喜は、箱館戦争について何か語っていますか。 2.榎本武揚、松平太郎 荒井郁之助 永井玄蕃 大鳥圭介 澤太郎左衛門ら6名は、明治5年、東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄から釈放されましたが、慶喜はこれら6名に関して何か語っていますか。 また、これら6名の誰かと会ったり、連絡を取り合ったりしたことはありましたか。 よろしくお願いいたします。
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>慶喜は、箱館戦争について何か語っていますか。 亡くなるまで、幕末の事は一切話していません。 >慶喜はこれら6名に関して何か語っていますか。 こちらも同様で、一切話していません。 >これら6名の誰かと会ったり、連絡を取り合ったりしたことはありましたか。 明治天皇に謁見するまでは、賊扱いでしたよね。 謁見後に、名誉回復がなされています。 公爵になります。 明治天皇との会見内容は一切不明ですが、ここで何らかの話をした可能性はありますね。 「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一著作)にも、記載がありません。 大河ドラマになっている渋沢栄一は、幕末に慶喜に仕えていましたよね。 客観的に見聞きした事を、記録として残した様です。 が、本来の目的は「慶喜の名誉回復」 ひ孫(徳川慶朝)が書いた「徳川慶喜家」でも、「慶喜は、何も語らないで趣味に没頭していた様だ」と述べています。 ※慶朝さんは、癌で死亡。慶喜家は4代で断絶。
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- eroero4649
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1 たぶん、何も語っていないと思います。 2 おそらく連絡もなにもしていないはずですよ。 徳川慶喜その人は、明治維新後に自分自身の直臣も含めてかつての家臣に対して徹底的に無関心でした。ですので「冷たい」と少なからず恨まれもしました。 けれど、そのおかげで平和裏に天寿を全うすることができました。もしかつての家臣たちの面倒を見てやったら、それこそ明治維新後に不満を持った薩摩武士たちが西郷隆盛の元に集まり西南戦争になったように、不平武士が慶喜の元に集まって内乱となっていたでしょう。 元々慶喜という人は水戸藩に生まれた人で、本人は少なくとも一橋家を継ぐまでは自分が将軍になるとは夢にも思わなかったと思います。 ですから、旗本というか徳川家の直臣を自分の家臣であるという自覚はほぼなかったと思います。水戸藩の家臣は自分の部下の感覚はあったでしょうけどね。 大阪からの「敵前逃亡」をして江戸城で蟄居した時点で、慶喜と勝海舟のラインは「降伏」という路線で一致していたと思います。それで当座一番血気にはやっていたであろう近藤勇を「甲陽鎮撫隊」という任務を与えて江戸から放り出してしまいました。 そこから先の出来事は「まあ、勝手にやってくれ」というものであったと思いますよ。 釈放されたかつての家臣と連絡をとらないのも当然だと思います。ヘタに連絡したら「クーデターでも考えているのではないか」と痛くもない腹をさぐられることになります。 こちらからも連絡しないし、仮に連絡が来ても無視。それが一番賢明な身の振る舞いだと思いますよ。ヘタに行動すれば、それこそ何かの御輿に担ぎ上げられかねませんからね。
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ご回答ありがとうございます。 やはり、なにも語っていないのですね。 黙しておることが最善だと判断ができる、賢明な人だったのでしょう。 自身のため、宗家のため、弟・昭武のためであると。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり何も語っていませんか、言いたいことは山ほどあったでしょうに。 薩長の世になったのですから、薩長の恨み言を言うのも憚らざるをえなかったのですね。