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慶喜脱走
幕末時、徳川慶喜が大阪城から脱走したことにより、その後の徳川幕府の命運が大きく変わったと思っているのですが、そもそも、これから戦争(反撃?)をしようと騒然としている本陣で大将だけコッソリ抜け出すということが可能だったのでしょうか。普通に考えて側近、小姓などに見つかり止められそうに思うのですが。当方、歴史に興味を持ち日が浅く良く理解できません。背景、手引きした人物など、ご教示願います。
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皆が納得しなかったと思います。しかし、主の命令に対して従った結果が歴史のあらわすところではないでしょうか。 一概には言えませんが、当時の主従関係については現代の我々の感覚では捉え難い面があり、慶喜と幕閣・側近との主従関係についても、個々において調べる必要があります。各自の立場や思いはそれぞれであり、決して一概に言えるものではありません。残念ながらわたしはそこまではわかりません。 副艦長の言動もその人の立場において最大限のことをしたといえるでしょう。それ以上のことはできなかったとお考えいただければと思います。 そのときの状況、人間関係(主従関係含む)、立場・地位そして性格などをできる限り調べていきますと、納得はできなくても不可解な行動を理解できることはあります。 徳川慶喜について書かれている本(参考文献が明記さているもの)を一冊選んでお読みになり、次にその本の著者が参考とした文献をお読みになると、確実に一歩、核心に迫ることができると思いますよ。
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- tabibito34
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主要な老中・若年寄などの幕閣クラスには知らせています。慶喜が去った後始末をしなければならないので、慶喜に従う者だけでなく、残る者にも指示が出されています。大坂城代がこれを聞いて駆け付けたときにはすでに慶喜は脱出した後だったようです。脱出にともなった小姓は当然知っていたでしょうが、これを阻止することはできないでしょう。 開陽丸が停泊する天保山沖に達するには複数の城門を抜け、天保山沖までの船の手配する必要があります。船の手配は大坂町奉行に命じたという話があります。慶喜の回顧で城門を通過するときに小姓の交代であると言ってすり抜けたという話が有名です。ただし、検証されているかどうかはわかりません。
お礼
回答ありがとうございます。 主要な幕閣クラスに知らせたとしても、皆が納得したのでしょうか。 何かでよんだのですが、開陽丸でもこの時期に将軍が去ってしまうことを納得できない副艦長が艦長不在を理由に出航の時間稼ぎをしたとか。 言われなき責任(容保の)をとらされ、腹を切らされた神保修理が何か哀れになってきました。
- jamiru
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そもそも慶喜は将軍に就いてから江戸城で政治の指揮は一度も執ってないんじゃなかったっけ? 江戸に帰ったといっても江戸城には入らずに幕臣に後を委ねていたよーな・・・。 そもそも見つかり止めるどころか、根拠地の江戸城でヒキコモリするわけでもなく最前線で走り回る人だったので、のんびりだらだらしてたわけじゃないので誰も制止出来たとは思えません。 後年の行動力を見てもじっとしている性格ではなかったでしょうし。 当時としても将軍についてから最前線に居座る将軍に誰もが何かしら感じていたと思います。 これほど精力的に動く大将だったので、幕臣の行動力も桁が違いますし、やっと最前線から引いてくれたという感じが強かったのでは? 何よりも、主人の居ない江戸が守られていたことも興味深いですね。 敵前逃亡や賊と罵ったわりには慶喜討伐の司令官は誰も名乗りを上げなませんでしたしねw
お礼
回答ありがとうございます。 大阪→江戸との移動(逃亡?)、こんなところで行動力を発揮しなくてもw、と個人的には思ってしまいます。
- oska
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>幕末時、徳川慶喜が大阪城から脱走したことにより、 この「脱走」というのは、官軍=新政府側の主張です。 勝てば官軍ですから、勝者側の一方的な意見です。 幕府崩壊後、旧幕府側はこの事実について何ら語っていません。 また、当事者である慶喜自身も一切公言していません。 寛永寺謹慎中、静岡時代、第六天(公爵)時代とも、一切語っていません。 ただ、勝海舟によって実現した「明治天皇慶喜会談」では「慶喜が去った事により、大阪・京が戦乱に巻き込まれなくて良かった」と天皇が述べています。 疑問の通り、誰にも知られずに大坂城を去る事は不可能です。 幕末といえども、将軍です。 幕府の軍艦で、海路江戸に向かっています。 大坂脱出は、綿密な計画の上で行なわれたでしようね。 隠密裏に実行しましたから、計画を知らなかった者から見ると「脱走した」事になるようです。 明治政府としても、薩長藩の正当性を主張する為に「慶喜脱走」を上手く利用したのでしよう。 勝海舟(幕府海軍トップ)周辺とか、函館政府関係を調べると面白いかもしれませんよ。
お礼
回答ありがとございます。やはり、数人でコッソリというわけにはいかないですよね。大阪周辺での戦災もなく新政府側には都合のよい”結果”になった感じでしょうか。函館政府関係調べてみたいと思います。
お礼
そうですね、現代人の私たちとは根本的に違う関係”主従”を理解する必要があるかもしれませんね。慶喜については天狗党の処置などで個人的に好きではなく、避けていた部分もありますので、今一度、参考文献を読み勉強してみたいと思います。ありがとうございました。