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ローマ教会の欺瞞は 信者の共犯。人類の連帯責任。

 組織宗教への批難です。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。  これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この命題を問います。  《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。  自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う  人は 存在として人びととの関係において 社会​的である。  しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。  しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろんこれは 間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をワルモノや除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心だという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうな。  このような傾向をじんるいは 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる。その道はのこされている。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。  なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。  ​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 共犯を構成する。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。

みんなの回答

回答No.2

こんにちはです。 死後のゴータマさんも《除け者の第三項》ということになるのでしょうかね。生前のゴータマさんは《聖者》や《Buddha・覚者》として多くの人々に認められていた、社会から受け入れられていたようですが、実は、この時点で既に、一般社会から乖離した存在、《除け者の第三項》的な存在であったということになるのでしょうかね。そもそもゴータマさんは出家者だし、社会の《はみ出し者》、《アウトサイダー》か(ポリポリ)。 そして、死後、イエスや道真、そしてソクラテスとは違う道をたどる形で、《聖化》、《神格化》されたということになる・・・。 人間とまったく異なる、著しく乖離した《除け者》的存在になった。 でも、 私は、bragelonneさんほど純粋な性格ではないので、 「教団や教勢の拡大のために、イエスやゴータマさんは、人間を超越する存在として祭り上げられた、神格化された」のだと思いますよ。そして、時代を重ねるごとに、神格化が進んだ。タダの人間では、崇拝の対象になりませんので。教勢や組織の拡大のためには、我々とは異なる存在、《カリスマ》として祭り上げられる必要があった、のだと思いますよ。そして、その最たる例が、《生前のヒトラー》ということになる。 ───ヒトラーのカリスマ化には、カトリック(の儀式など)を真似た手法が多数使われていたとか…。カトリックはとことん罪が深い存在だな~─── 現在でも、《カリスマ○○》と名づけられ、マスコミやファン、その崇拝者(?)、信者(?)さんたちから、チヤホヤもて囃されている多数いるようです。 その選択は自由意志に基づいているとしても、世の中には、カリスマ的存在の支配を望んでいる人は、意外と多いのかもしれないですね。 ☆ たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。 ◇道真は、藤原摂家の勢力を牽制するために、宇多天皇に利用されたんでしょう。で、権力争いに破れたというのが真相ではないですかね。 そして、道真は《祟り神》の系統ですよ。道真の死後、都や宮中で不思議で不吉な出来事が頻発した。「コラ~、死んだ道真の祟りだ」ということで、その怒りや恨みを鎮めるために神さまとして祭られた・・・。 これは、イエスやソクラテスとは、一応、別の系統として考えるべきなのではないですかね。 ☆☆☆☆☆☆ ところで、この《第三項》理論ですと、 現在社会問題化している《イジメ》はうまく説明がつかないですよね。 誰でもイジメの対象になりますし、イジメを知りつつ、それを傍観し続ける子供たちの存在をうまく説明できない。 イジメを行う子供たちがもっとも悪いのですが、 自らに何らかの火の粉が降りかかることを恐れて、ひたすら《傍観者》を決め込む存在やそこにある《傍観者体質》も問題ですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ 死後のゴータマさんも《除け者の第三項》ということになるのでしょうかね。  ☆ ん? あっ なるほど《死後の》なのですね。生前に除け者となったことは あったとしても 最初のころだけだったでしょうか。  でも やっぱし少し違うように思います。  除け者にしたのではなく――わたしの場合ですが―― 理論としての欠陥を批判して 思想家としては退けた。というだけなのですが。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  そして、死後、イエスや道真、そしてソクラテスとは違う道をたどる形で、《聖化》、《神格化》されたということになる・・・。 人間とまったく異なる、著しく乖離した《除け者》的存在になった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。いやいや 《第三項排除の理論》は あくまでいけにえと成った場合 それがあまりにもあざやかな犠牲としての劇として成功したがゆえに 後世にそのイケニエの反動としてのタタリをおそれて 犠牲者を《聖化する》ということですからどうもたぶんゴータマの場合には あてはまらない。ように思うのですが どうでしょう。  ゴータマ・ブッダと呼ばれて聖化・絶対化されるというのは わたしの見るところですが けっきょく《ブッダ》と言い《さとり》と言い その中身が一向に明らかではない。ついに明らかにせずに死んでしまった。  これではいけない このままでにしておいてはいけないという弟子たちや後世の崇拝者たちが 当然のように挙げられるべき批判から防御しようとして 先を越して聖人とし 神としてまつりあげた。のではないかと考えます。  だとしたら 第三項排除の理論とは 接点はないように感じるのですが。  ◇ 「教団や教勢の拡大のために、イエスやゴータマさんは、人間を超越する存在として祭り上げられた、神格化された」のだと思いますよ。  ☆ ゴータマ氏をめぐっては 教勢の拡大の前に そのオシエが批判を受けて消滅しないようにという防御がはたらいた。のではないでしょうか。  イエスの場合はですね。パウロの言う《宣教という愚かな手段》をつかってする活動は 必ずしも《教団》の拡大とは同じではないと考えます。  とにもかくにも ユダイズムの中から抜け出して来た普遍信仰(つまり 普遍神)を伝えるだけであって 仲間をつのるのは 自分たちの信仰〔にもとづく生活〕が社会的にふつうに成り立ち受け継がれていくためであるに過ぎない。つまり 教団や教勢という問題は 二の次だと考えます。  宗教として承認されやがて国教となるにまで到るわけですが そしてそれから教団とその勢力あるいは権力の拡張に精力をそそぐようになるのだと見ますが それ以前は あくまで《信仰――つまりは どの名の神も神としてみなひとつであり 互いに対等だという神および信仰――》を伝えようとしただけだと見ます。  しかも したがって実際の活動は 《宗教》ですらなかった。  オシエを伝えたという側面もあるとすれば それでも・しかも 宗教のようにこの《オシエを信じる》などとは 金輪際 言っていません。《個人にとっての信仰》を伝えただけです。  むろん 宗教つまり組織宗教の時代に入って行ったことは そのままこれも事実です。  ◇ 神格化 / 《カリスマ》として祭り上げられる  ☆ というコトは 神にとって何ら意味のあることではありません。人間が神にとって意味のないことを勝手にやっているだけです。(すなわち このことは 【Q:《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。】の問い求める主題です)。  そして そのように人間の想像や思考によって神格化されることとは無縁であるナゾが神であり信仰であるということは パウロが いやというほど語りに語ったことです。《文字はころし 霊は生かす》という注意事項であったものです。歴史は けっきょく悪貨(観念の神)が良貨を駆逐した恰好になります。また それだけのことだと言っても マチガイではないはずです。  ◇ カリスマ化  ☆ は 組織宗教として 群れたがり人間が そのオシエをかかげて群れたそのときから 種が蒔かれたと見るべきでしょうね。つまりは その群れにつらなった人たちは その時点で精神の錯乱に落ち入った。オシエないし観念の神を 神とした。  あとは 支配欲に支配されてその欲望を満たしたいがために 神の言葉としてのオシエに近い人間から 権威や権限を持ち そこから少しづつ権限を委譲して階層をつくるというヒエラルキアの中で 大いに《支配欲を満たすための実践》をおこなう。おまけに金儲けすらもがついて来ると来ています。      ◇ そして、道真は《祟り神》の系統ですよ。  ☆ タタリも 排除された第三項が 後世において聖化されるという事例の一環であると思いますが。  いけにえがあまりにもうまく行ったので おそろしくなって 聖化してあがめるわけですから。  ◇ ところで、この《第三項》理論ですと、 / 現在社会問題化している《イジメ》はうまく説明がつかないですよね。  ☆ たしかに問い求めの筋がちがっているように思います。出発点が違っているのではないでしょうか。  ただし どう言いますか 典型的ないけにえとしてまつりあげるという場合のイジメは やはり同じような筋書きでコトが運ばれると言ってよいのではないかとも思われるのですが どうでしょう。現代では そのような古典的なイジメからは形態が いくつにも分かれて来ているのではないでしょうか。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

bragelonne様、こんばんは。 それもこれも、全部、「信教の自由」なんだろうと思います。 つまり、「他者の人権を侵害しない限り」という、内在的な制約があります。 しかし、教義の是非についてまでは、問題とはされません。 (世俗的には) 「人権侵害は、不可能」という一点において、審判されるものと思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 kurinal 様 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  信教・良心の自由に立って ローマ教会の成り立ちにかんして――信教は自由であるからこそ―― そこで欺瞞をふくむ行為は つつしむべきである。という物言いです。  しかも 昨今では 法王庁の銀行が黒い資金を洗浄する機関に使われているニュースが絶えません。大きなうたがいがあり それはあたかも北朝鮮の政府の取っている閉鎖的な態度と違わないほどです。  また 聖職者による児童の虐待 これもひっきりなしに報道されており 絶えないどころか余計に隠蔽されて来ているようです。  信教の自由に立って 人権を侵害する反社会的な行為が 隠れて大々的におこなわれている疑いがあります。  これは 信徒一般の人びとも ただだまっているのなら 共犯である嫌疑がかけられて当然だと考えられます。  そういう問いです。

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