※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?)
闇の中から光を見るには?
このQ&Aのポイント
闇の中から光を見るための方法や手段について、哲学的な観点から考える。
神が人間となって闇の中で光を見せることについて、その当否を問う。
人間として努力することが重要であり、神としての奇蹟を起こすことではない。
まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。
(α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。
ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。
この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。
その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。
(β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。
(γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。
キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。
(δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。
(δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。
(δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。
そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。
(ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。
という哲学を問います。よろしくどうぞ。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 いまの問題は スサノヲ人間語を ひとの出発点としての知性〔の基礎〕とするだけではなく さらにそれのほかに隠れた基層があるのではないか? という問いから来ているように捉えます。 それが アシカビ心層とでも言うべき知性のみなもとである。のではないかと。 もう少し細かく言うと スサノヲ人間語を そのあらゆる潜在的なチカラ(≒意志)の発揮による派生形態(たとえば 根っからの悪に落ち入ったすがたや あるいは杓子定規なる振る舞い)を含むかたちとしてみても なおそこにほかの要因としての深層があるのではないかということなのでしょう。 なぜなら あやまちうるスサノヲ人間語は ややもすると そこから普遍的な要素要因を抽象してそれを理念として捉え築き上げた間違わないアマテラス普遍語との対比においてだけ捉えられてしまう嫌いがある。 だから 《スサノヲ語‐アマテラス語》の連関形態の基層になお心のあるいは知性のみなもとがあるのではないか? という問い求めでしょうか。原スサノヲ語: UrS 語。 別様になぜかと言えば S 語や A 語の組み成す構造を たとえば信仰の場としての神宮・神社として捉えるなら 次のような構図が描けるからです。 UrS 語 ⇒ S 語 ・・・・・・ A 語 / SuperA 語 ------------------------- 大神神社::イヅモ大社 ‐ 伊勢神宮 / アマテラシテ(*) ______________________________ アシカビ心性::スサノヲ知性 ‐ アマテラス知性 / アマテラシテ * アマテラシテ: amaterasity; amatérasité; Amaterasität :アマテラスの抽象名詞化。 ☆ すなわち 《イヅモ大社 - 伊勢神宮》の関係は 《臣下 - 王》の関係にたとえられるからです。 そもそも 王制なる国家は 家産国家であって 領土も領民もその他その他もみな 王の家の財産であった。 ゆえに 時にはややもすると理性一辺倒になるアマテラス普遍知性のもとに・その従属物としてのように スサノヲ人間語知性があるとすれば――という意味は たとえ心にヤマシサ反応を起こしていくら王命であったとしても その務めは飲めない・請け負えないとアシカビ心性がつぶやいていても けっきょくアマテラス語なる王命に従わざるを得ないと判断するほかないようなスサノヲ知性であるのならば―― それは・その心は 狭小化している。歪曲化している。 ゆえに A・S 両知性のさらに基層には アシカビ知性がそなわっている。それが 人間である。というところでしょうか? S 語に対してさらに深層の ウァ(原)スサノヲ語。プロト・スサノヲ語。 そういうことですよね? ◇ アマテラス(知性)やスサノヲ(知性)は、互いに自然の一部を切り捨てたモノであるからです。 / その純粋度が高くなればなるほど、自然・人間から離れたモノ、非人間的なモノになってゆく。 ◇ アシカビは自然(神)をそのまま内包しているので、アシカビこそ実はもっとも神に近い存在だった ☆ ええっとですね。 次のように考えておけばよいものと思います。 1. スサノヲ語知性を アマテラス語知性に《くにゆづり》する前と後とで――同じ S 語だとしても――使い分けすれば 問題はない。つまり 《原スサノヲ語としての S 語》と 《 A 語従属する S 語》とに分けて使えばよい。 2. あるいは 原スサノヲ語を 《自然本性》として捉えればよい。自然本性の内に S 語とそして A 語との要素要因があって それらが 顕在化したのだと。 3. あるいは やはりこの自然本性――ウアスサノヲ人間語――に 神の霊はやどるという想定です。(=アートマン霊我=ブッダター仏性・自性清浄心)。 4. 葦の芽というアシカビは 萌え出づるちからを感じさせるので それとして使ってもよいと思われる。 5. たぶん《国家》という《 S‐A / Amaterasität 》連関制なる枠組みの中に生きるかぎりで スサノヲ人間語も 多少とも歪んでいると見られがちなのかも分かりません。 6. このような国家としての社会形態の形成のことを指して いまの場合は S 語の A 語化とともにその S 語じたいもがその土壌から浮き上がってしまったという意味において 《アマアガリ》した状態である。と言うのではないでしょうか。これは いわゆる《文化》ですね。《 A 語化を経て互いに意志疎通を行なう》というかたちとして。 こんなところでしょうか。