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イエスは 犠牲にされたあと 聖なるものとされたか
《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。 自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした者〕を排除する》といううごめきについてです。 今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般経済序説』(1992)です。 この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。 人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社会集団としては まちがって追い求める傾向があると。 簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむといった傾向であり むろん間違った道筋であるというものです。 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は 社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば うれしい。そのときややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け者にしてでも。・・・ § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つまり 承認されていると思うことがたやすくなる。 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見なさない。こういう気難しい一面もあると言う。 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したのもつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。 そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持とうとする。 この誰れにとっても見やすい共通の基準となるものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と言えば早い。 除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は たしかに《除け者》として扱われる。 つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩序》を楽しむと言うのだそうです。 このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持っているのだと。 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していたように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いています。 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。 また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんなと違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいという欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるという行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取れる道はのこされると。 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》すると言います。 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。 それによって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと。 つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。 したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として みなであがめる。 このことを通して あらためて集団ないし社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。 たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。 § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まちがいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。 なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがはたらくということらしい。 前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。 反動のチカラは 出る杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項と見なしてその排除にかかる。 異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことができる。 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか? ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会 これも じつは そのまま間違いである。 その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。 だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれは――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大なる聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこまでも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のなせるわざである。世に言う《宗教》なるものの何たる自己欺瞞 ! § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどころではない。承認されたいという欲望は おそらく強いのであって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分からない。 ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか? 話し合いによるしか道はないのではないか? 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あくまで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。 ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があるときには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほど話し合う。 自由なご批判をあおぎます。
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たとえイエスが背徳行為を重ねましょうとも、 聖書の中の記述内容には悪影響が及ばない、 と言えるのでしょうか?
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- codotjtp
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イエスの清浄心が汚れずに済んだ可能性の存在は、 根拠付きで予想され得ますでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 じつは イエスにかんしては ヨセフとマリアなる両親から生まれたふつうの人間であると同時に 聖霊なる神によって生まれたキリストであるという貌(かお)もあります。そういう物語です。 キリストは 神の子であり みづからも神です。 それで《清浄心》にかんしては 1. 人間イエスの生まれつきの清浄心があり 2. 神なるキリストとしての聖霊がとうぜん含むところの清浄心があります。 ですから ぶっちゃけた話をしますが ★ イエスの清浄心が汚れずに済んだ ☆ かどうかは どうでもよいと見ます。特にけがれてしまったとは思いませんが 《汚れずには済まなかった》としても 何も問題はありません。 イエスのおしえは 倫理規範でも道徳でもないからです。 キリスト・イエスの指し示したのは 神です。万人にとっての神です。 この神は 人が受け容れると その人の中で川となって水を流れ出さしめるというものです。 こころの闇を照らしてぬくもりを感じさせてくれたり 知恵を駆使して科学のチカラで身体や社会の健康を回復させてくれたりするそのような光をあたえることは 人間のチカラでも出来ます。 泉のようにつねに水がわが心の内に湧くようにさせる神のチカラというのは わが心の燈心をともしたということです。《わたし》がひかりとなるということを実現させた。 キリスト・イエスは 清浄心の根源だという物語です。
- codotjtp
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モナドはイデアを共有しているのでしょうか?
お礼
知りません。
- codotjtp
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経験され得る環境を超越した世界へも当て嵌まってこそ、 其の概念は『普遍的だ』と形容され得るのではないでしょうか?
お礼
概念は 経験事物。(思惟も 行動と同じく 経験行為)。 概念が 超経験の世界に当てはまるか否か 人間に分かるわけがない。 想定し そこから推理するのみ。 超経験(=非経験)という想定した場は 推理として 経験世界を けっきょく覆いつつむと考えられる。あるいは ニュートリノのごとく経験世界をつねにどこでも突き抜けていると言ってもよいのではないか。 これを 《神の遍在》と言う。主体としての我れから見て 《神の現在》と表わす場合もある。(現在するという動詞からの名詞化と捉える)。 ゆえに 非経験の場の想定とそこからの推理にもとづくかぎりで 神=超経験=非経験=無根拠=自由 この場は 人間にとって普遍性を有するという見方がみちびかれる。 (無根拠あるいは非経験ゆえに 神を《無い神》と言ってもまったく同じことである。超経験として想定した場が 経験世界の概念である《有る》ないし《無い》という言葉によって規定することは出来ない。規定し切ることは出来ない。出来るとも出来ないとも人間には分からない。 だから 仮りに《神は存在する》と言ったり いや《神は存在しない》と言ってみたりする。どちらもあり得ると見るしかない。つまり 有神論と無神論とは 仮りの呼び名なのだから どちらでもよいし 互いに同等である)。 すべては 想定による。 非経験の場を想定することによって この経験世界とそこにおける人間ないし《われ》の存在にとっての所与の条件を見究めるというかたちである。 人間は 神(または 無い神)のもとに生まれて来ているし 神(または 無い神)とともに生きている。(という表現において仮りに表わしているのみである)。 無根拠で自由なのだから こんな神は どうでもよいとも言える。くそくらえと言っても構わない。神(または 無い神)は 経験事象のすべてを超えている。何と言われようと 痛くもかゆくもない。 ぎゃくに言うと 大いに甘えてもよい。もし人は神によって生き動き存在するということが真実ならば 《聖なる甘え》が 人間の存在のあり方にとっていちばんの根源であるということになる。 けれども すべては 想定による。 普遍性も 人間が規定したに過ぎない。 神の普遍性は 想定の仕方から言って 当てはまるしかない普遍性である。 そのほかの経験事物にかんする普遍性は 人間のあやまちうる判断によって規定するものである。つねに――その普遍性なる理論の提唱者じしんも含めて――批判をおこたらないことが 重要である。 だから 異説を発表する自由も 大切である。 例外というのは それぞれの理論の中でそれをどう処理するかなのだから それほど大きな問題ではない。 普遍性には とうぜん二種ある。 非経験の場として想定した神にかんする・例外なきそしてそれ以外に考えられない普遍性。 経験世界におけるものごとについて ひとつの全体観を提供する理論が持つつねにあやまちうる・それゆえつねに批判を俟つ普遍性。
- codotjtp
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『(当て嵌まらない)例外が無い』状態だけが、 『普遍的だ』と形容され得るのですから、 『無根拠』ですと。尚更、非科学…。
お礼
★ 非科学 ☆ というのも 人間による判断であり そうでしかありません。 しかも おそらく言おうとするところは 科学に非ずではなく科学に反するという意味だと思われますが 非科学は 科学に非ずという意味が 科学の範囲を超えるという意味をも持ちます。 反経験というならば 経験世界のことです。非経験と言えば経験世界を超えています。それと同じようにです。 言いかえると 普遍性は 経験世界におけるものごとについての妥当性があまねくあてはまることを言います。 経験世界を超えている非経験つまりそこにおける《無根拠》というのは 根拠が有る無しを超えたところのことですから 経験世界を覆うとも解釈され得ます。 (非根拠と言うべきかも知れませんが 経験合理性で判定しうる根拠は無いという意味で 無根拠と表現しています。つまり 人間の認識し判断しうる根拠を超えた根拠があり得るところ それが 非経験です)。 あとは 前回のわたしの整理を無視しています。
- codotjtp
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『例外が無く当て嵌まる』という状態を形容する際に、 『普遍的だ』という形容動詞が持ち出される訳ですので、遺憾乍ら、 例外が排除されている時点で、既に『普遍性』は完全に損なわれています。
お礼
整理しておきましょう。 1. 普遍性とは 人間の判断によって成るものである。 2. 経験合理性に照らして 妥当であるという判断が成され それに対する反証があり得たとしてもそれは 別の視点においてあり得るというのみな場合 その初めの命題は 普遍性を持つと考えられる。 3. 言いかえると 普遍性を持つ命題も その判断がまちがっていたとあとで判明する場合がある。 4. 《例外》というのは 一般に普遍性が当てはまることがらの範囲において 同じ視点に立って捉えられていつつしかも別種の内容を持つという場合を言う。 5. 普遍性についての事例をしるします。 シンド(身毒)・ヒンドゥー・インダス・インド(印度)は ほぼ同じ語であり / s / ∽ / h / ∽ / '(ア行の子音つまりゼロ) / というような子音の交替が起こっている。これは およそじんるいの言語に広く見られ 普遍性を持つ傾向である。 そのとき あまり⇒あんまり∽あんまし あるいは やはり⇒やっぱり∽やっぱし といった音韻の変化が日本語に見られる。つまり / r / ∽ / s / という子音の交替。これは 普遍性を持つ傾向か? ほかの言語においてもいくらかの事例があるようだが たとえばそうであっても / h / ∽ / r / という交替はないと見られるので ひとつの例外なる音韻現象だと考えられる。 ところが この例外も 基本的に同じひとつの視点において現われるものである。 言いかえると 例外ではなく 特殊な事例として音韻変化の傾向に入れてもおかしくはない。 6. 言いかえると 普遍性を持つという命題に対して 例外というのは ほとんど問題とならない。問題とされるのは 視点が同じでありつつ別の判断内容を持つ命題である。これは 普遍性を持つと考えられる定説に対して 異説と言われる。 7. 異説を異端とよぶ場合がある。そこまでは 自己表現ないし自己主張としてゆるされる。それは 互いに異端視するという場合である。 8. 神についてのたとえば三位一体説 これには 聖書を解釈することにおいて神を定義するという同じひとつの視点においては例外がないと言っている。異説はありうる。そして かなりの程度において論理的な批判が 三位一体説からほかの異説に対して成し得ると考える。こう言っている。 よって 普遍性を持つ命題であると表現している。またそれについてさらに見直しをしようという心つもりにおいて 広く意見を得たい。これだけのことである。 9. ただしこの質問は 焦点が別である。《或る人物を排除したあと その人物は犠牲になったのだと解釈し さらには聖なる者として祀り上げる》 こういう事例が見られる。或る種の仕方でこれは 欺瞞である。そうではないかと問うている。
- codotjtp
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どんな例外にさえも当て嵌まり得る完全な普遍性の定義は、 本当に可能なのでしょうか?
お礼
たとえば ○ 無根拠 あるいは 自由 これなら人間の思考によっては捉えられないところをもふくみます。そういうヘンな理由で ★ どんな例外にさえも当て嵌まり得る完全な普遍性の定義は、本当に可能なのでしょうか? ☆ の問いに対して 可能ですという答えが与えられ得ます。 言いかえると そのような問いは どうでもよいことです。 すでに次のようにお応えしています。 ☆☆(No.3お礼欄) 普遍性というのは 人間が判断したそれです。あやまち得ます。 どうして このような問い合わせが出されて来るのでしょう。
- codotjtp
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遺憾乍ら、排除の対象が存在している時点で、 既に普遍性が損なわれています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 いいえ。そうではありません。 三位一体説ならそれとして ひとつの基準がしめされたかたちになります。それに照らして――それ自身の内容を吟味・検討する作業をもふくみつつ―― 諸説を仕分けすることは出来ます。 つまり 普遍性のある見解だと判断したならば そのあとその見解に対して異なる見解が出されたなら どちらがより妥当性があるかを とうぜん 判断します。普遍性に欠ける見解は たとえば異端と見なされますし あるいは ひとつの見解を成すにまで到らないものは 論外と見なされます。 そこまでは 自由です。その異端と見なされた見解を普遍的なものだと見る側は けっきょく同じようなことを為すでしょう。互いにそこまでは自由です。 排除は別です。異端視することは 異端を受け容れないという意味ではそれを排除しますが だからと言って 見直しを怠るというわけではなく ましてその異端派の人間を迫害し排除するということは別の問題です。 ★ 排除の対象が存在している時点で、既に普遍性が損なわれています。 ☆ そうはなりません。 普遍性というのは 人間が判断したそれです。あやまち得ます。それだけのことです。 互いに異端視することは あり得ます。実力行使の排除は 別の問題です。 要するに学問において 定説をきそうようなものです。 きわめて安易な議論です。ご注意なさるよう願います。 というひとつの判断は 《排除の対象》をつくったということになりましょうか?だから 普遍性ないし議論の妥当性がうしなわれましょうか? また 趣旨からそれています。 また 哲学のいろはのいの問題をあつかっています。 むろん はづかしめるために述べています。
- codotjtp
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普遍性の定義は、 異端の排除に立脚していませんでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。率直に言えば 論点が別だと思います。 そしてそれでも ローマ教会の振る舞いにかんする問題として同じたぐいですので 質問者としてながら考えをのべてお応えとします。 つまり わたしの考えでは まづ ★ 異端の排除 ☆ の実際の行動つまり 実力行使におよぶその排除行為 これにかんしては 理論の問題ではないと思いますので――つまり法王の精神錯乱という論外の問題ですので―― 触れません。 言いかえると ★ 普遍性の定義 としてそこに含まれる異端の定義(なぜ異端と見るかの根拠) ☆ についてのみ考えます。 これは けっきょく《神についての三位一体説》を採るか否かという一点に絞られるのではないでしょうか。 言いかえると 人間イエスは 人間であると同時に神の子でありみづからも神であるキリストだという見方 この見方を採らないと おそらくイエスの登場は意義がないと考えられます。 つまり 三位一体なる神という見方に立たないならば 聖書の伝えるイエス・キリストは意味がないというものです。 せいぜいが ひとりの卓越した人間がいた。でおしまいです。 アリウス派の解釈では イエスは神に近い存在だが神ではないといった内容です。ほかの派も おおむねこの点において 三位一体説から離れます。グノーシス主義という派などが 出ました。 この限りで 三位一体説が 普遍性を有する(つまり カトリックな見方である)と言えるのではないでしょうか? つまりこれはかなりの程度まで 論証ができる論点だと考えられますので 敢えてカトリックの側に普遍性があると 質問者も見ると明言します。 ですから この普遍的な見方を採らない場合には 聖書の解釈にかんするかぎり 異端だと見てよいと論理的に思います。 むろん すでに触れましたように だから異端に立つ人間を迫害してよいとは成りません。また その異端派が 自分たちこそが正統であり普遍的な教義を持つと主張するのも自由です。 三位一体論について根拠などは何も述べていませんが 以上から言えることは こうです。 ★ 普遍性の定義は、異端の排除に立脚していませんでしょうか? ☆ そうではなく 三位一体論にかんするかぎり 普遍性はその議論として――経験合理性にもとづき――成り立ちます。その普遍的な議論に照らして それ以外は異端と見なされます。 三位一体論については 次を参照ください。 ○ 【Q:〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5008585.html わたしの回答は No.3&5&6&9&11&17&22&23&26です。
- codotjtp
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象徴の祀り上げが、 古代の西洋文化圏の共同体の統御の為に必要になっていたので、 自己犠牲の価値が強調されたのではないでしょうか?
お礼
こどつじゅつぷさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 古代の西洋文化圏 ☆ という観点を持ち出すということですと まづは むしろ政治としての問題のようです。つまり 教会としての《祀り上げ》の問題というよりはです。イエスは 異質のものだったと思われるからです。 ★ 象徴の祀り上げが、・・・共同体の統御の為に必要になっていたので ☆ そう言えばわたしは このローマ帝国がどうしてクリスチアニズムを受け容れるようになったかについて あまりよく知りません。コンスタンティヌス帝が内戦に際して必要としたなどの事例とは別にです。 ローマの神々はいたし 皇帝も神のようなものだったでしょうし それほどあたらしい《象徴の祀り上げ》が必要となったとは そう言えば よく飲み込めていません。 ネロが いわゆるクリスチャンたちを迫害しましたね。大火災の犯人に仕立て上げて。それでも クリスチャンたちは おとろえなかった。 そうして ただし次のような事情としては いわゆる宗教としての問題になるようです。つまりその場合も 政治が自分の統治のために宗教を取り込んで利用するという一面がからんでいるようですが。 ★ 自己犠牲の価値が強調されたのではないでしょうか? ところで 今村仁司の排除の理論としては 次の二点を筋道としています。 《まつりあげ》が 最初には《第三項として排除》し それが成功したならあとで《犠牲者として聖化》し崇めるという二段階にわたるというものです。 《第三項として排除する》というのは それをそのまま表わす事例が 聖書に出て来ています。それを引きます。例の大祭司カヤパが言った言葉が それをそのまま説明しているかたちのようです。ユダヤ人たちという立ち場からのものです。 ▲(ヨハネによる福音書11:47-53) ~~~~ そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。 「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。 そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。 「あなたがたは何も分かっていない。 50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、 あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。 ~~~~~~~~~ ☆ これですね。50節の《一人・対・ほかの皆》という図式です。これが 《第三項排除》の理論で言うところの第三項であり《除け者 ないし 犠牲》のことのようです。 そして第二段階として事後における聖化は 質問者としては宗教としての・つまり教会としてのまつりあげのことを想定していました。 単純に言って 《排除し犠牲にしてしまったゆえ これを聖なる者として かえって讃えまた崇める》というかたちです。儀式をともなったものです。 菅原道真の場合は かれを犠牲にしてしまったあと その首謀者らの身辺にわざわいが起こり それは 道真のタタリだと思われたという事情からです。タタリをまぬかれるために 聖なる者として祀り上げ 天満神宮を建てて崇めるようにした。 ★ ~~~ 象徴の祀り上げが・・・共同体の統御の為に必要になっていたので、 自己犠牲の価値が強調された ~~~~~ ☆ とすれば 事前としての《第三項の排除》は あまりかかわっていないと見るのでしょうか。つまり その排除は ユダヤ人の聖職者たちおよび人びと一般がおこなったものだということでしょうか。 そうですね。たとえばイエスがそのように排除されるということにあたって 弟子たちもイエスを見捨てているので 言わばその犠牲を出したことに のちのキリスト教徒たちもかかわっていると言えば言えるようなのです。したがって ローマ教会も 排除した人たちと同じくイエスを犠牲にしたという立ち場であると言えると思います。 ので 今村の理論は 持ちこたえるというようには思います。 現代のわれわれの場合ですが。 たとえペテロら弟子たちと同じように わたしたちも――もし想像してみるなら―― 磔になるイエスを見捨ててしまう態度を取ったとしても 別にそのあとで――もちろん悔いますが―― 去って行ったイエスをわざわざ聖なる者としてまつりあげることもないと考えます。 イエスは自分が去って行ったあと めぐみとして心に泉が湧くように人びとに聖霊を送ると言っていたわけですから われわれはこの聖霊を受け容れればよいわけだと思います。 聖霊をおくる者が 聖なる者であるのは分かっているわけですから わざわざ聖化して祀り上げることはないと思われます。儀式は要らないと考えます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ たとえイエスが背徳行為を重ねましょうとも ☆ つまりふたつの条件のもとで そのとおりです。 1. 《もしも たとえ・・・》という仮定において話をしています。 2. 《背徳行為を重ねる》のは あくまでふつうの人間であるイエスとしてです。キリスト・イエスは キリストという《神の貌》と イエスとしての《人間の貌》とが 同時にあります。人間イエスの振る舞いを 問題にしているという意味です。 ★ 聖書の中の記述内容には悪影響が及ばない、 ☆ そう言ってもよいでしょうし もっと細かい表現としては やはり《神にとっては 何の影響も受けない》という意味になります。 もし悪影響を人びとが受けたというのが仮りに事実であったとしても それは 《神》に関する勘違いから来ているという意味です。 あたまの中で描いた想像の産物としての神――つい最近 これを《神もどき》と表わせばよいとおそわりました――によって考え違いが起きているというのが 実際です。 むろん 聖書がそういう誤解を生むような書き方をしていると言っても 仕方がないところもあるかと考えます。いちいち断り書きを添えていない場合が ほとんどだと思いますから。 言いかえると 聖書は 学問や認識の問題ではなく 人間にとって非思考の庭がわが心に成るという信仰の問題が先行しているということにもなります。 そのへんのことについて 聖書記者は 頓着せずに書き記していると思われます。(それは どっちみち 人間の言葉で表わすことには 限界があるという見方から来ているようです)。