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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:合意について)

合意についての重要性と確認方法

このQ&Aのポイント
  • 科学の方法において合意が重要である理由とは?
  • 正しい合意の判断を行うための確認作業とは?
  • 合意の妥当性と有効性を高める方法は?

質問者が選んだベストアンサー

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  • old_sho
  • ベストアンサー率38% (20/52)
回答No.8

feedersさんは「科学」ということでお考えのようですが、それを自然科学と人文科学とに分けて、「客観性」・「妥当性」を両科学分野で異なるものと見るものかどうか。feedersさんは異なる方に傾いて居られますが、科学理論の妥当性ということの意味に検討する余地があるようにも見受けます。 今回のご質問では、一つ前のご質問でベストアンサーにお選びになった回答の文中にある、 >科学は、...、とりあえずこれでいきましょう、という合意のもとで機能しているのは間違いありません。 という文言に連なっているかに見えますが、如何でしょうか。この回答者の場合は「科学が機能している」ということに関して「合意」が言われているのですね。「科学理論の妥当性」ではないですね。日常用語では「妥当」という言葉は、たとえば、「まあそんな所が妥当な線だろう」という調子で「妥協」みたいに使われたりして、曖昧なものを含むかのように使われます。然し、科学においてあるいは哲学において「妥当性」というのはそういう意味ではないでしょう。今回のご質問での回答に見られる「合意など必要でない」という見解も、一つにはそれに関係すると思われます。「科学の妥当性」というのは大きな話なので横に置いて、「或る理論の妥当性」というのは当該学問の体系の中で言われるもので、それは多数決で決まるわけではない。妥当だと判断する者にとっては、他人が否定したとしても、多くの人が否定したとしても、それの妥当性は揺がない。他人に否定されて揺ぐような判断を、妥当性の判断とは言わない、というのが「科学者」ではないか。つまり多数意見が妥当性を生むのではなく、妥当であるからそれが多数意見になり得る、ということでしょう。 ---以上は単に「妥当性」という言葉の問題に過ぎませんが。 当該学問の体系の中で理論の妥当性を検証するという件でも、「検証された」ということを、さらに合意によって検証するというのは、意味が通らないのではないか。実際上では、「検証された理論」を、いやそれはまだ不十分だと言う反論のあるケースがあるでしょうが、その場合であっても、それを多数決で決めるわけではないでしょう。検証されたと見なす者にとっては他人の意見は関係はない。「妥当性を検証」という言い方をすると「妥当」と「検証」が別物と見えますが、切り離れないのではないか。検証されたと見るから、妥当と判断するわけで、検証されないなら妥当という判断は下せない筈でしょう。ですから「理論の妥当性を検証する」という言い方は単なる強調で、「理論を検証する」と同じ意だろうと思います。 ---以上は検証ということが可能な科学に関するものですが、人文系では検証し難い事柄についても科学性を主張するというケースはありますね。「歴史科学」などといえば、そもそも検証など考えていないのに「科学」を名乗っていることになります。そのような場合は、その「科学」の方で何を以て科学的と称するかを規定しているものではないでしょうか。 >正しさを主張しようとすれば無限遡行が起きる可能性が常にあるように思います。 というご疑問は、あり得るものであるとは言え、実際に科学性を主張している人文系の分野を挙げて、具体的に追求されるべき事ではないでしょうか。無限に遡行するなどということは原理的にあり得ないことなのですから、誰かが何かを科学であると主張している限り、何かを「基盤」としているわけですからね。---こういったことを一般論として論じるのは、個別科学の多数の事例を念頭にする必要があるでしょうから、私の任ではないのでこんな所で。

feeders
質問者

お礼

--回答ありがとうございます。返事が遅れて申し訳ありませんでした。  私は「妥当」という言葉は、完璧に正しいとは言えないものの、まあ、これだったらそこそこの確信が持てるなと思えるような状態だと思います。(もちろん、多数決で決まるようなことだとは思いません。)そういう観点に立てば「客観性」・「妥当性」を両科学分野で異なるものと見ることにはなりにくいと思うのですが、基盤の設定の仕方に相当の違いがあるように思うのです。 自然科学であれば、基盤というか前提というか、そういうものを設定して論理展開してゆくわけですが、社会科学と比べると「妥当性」が得られやすいように思います。ところが、社会科学の場合、果たして、妥当性を見いだせるような基盤が得られるのかなと思うわけです。もちろん、無限背進に陥るようなものであってはならないわけですから、基盤は論理的に求まるようなものではないはずです。  でも、私自身としては、何らかの基盤がなければ社会科学はやってゆけないと思うのです。かといって基盤が実際に得られるものなのか疑問に思ったりもします。   --当該学問の体系の中で理論の妥当性を検証するという件でも、「検証された」ということを、さらに合意によって検証するというのは、意味が通らないのではないか。--ということですが、全くその通りです。ご指摘ありがとうございました。

その他の回答 (7)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

feeders様、こんばんは。 市民の責務ということですね。 (無論、司法の補償が、あるわけです)

feeders
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

回答No.6

例えば数学を用いて未知の物質の存在を予測し、実験によって実際にその未知な物質が発見され検証されたならば、合意形成は必要ではありません。 実験結果がそれを正しいことを示しているのだから、科学者が合意形成、つまり「パラダイム」というのは必要ではありません。 問題はその実験結果の判断が分かれる場合です。 どっちが正しいか、どっちがより妥当かの判断が分かれる場合、つまり正しいという確固たる基準がない場合に、正しいという根拠は無限遡行に陥ります。 例えば、中世にトマス・アクィナスは神の存在を証明してようとして「この世界に動くものがあれば、それを動かしているものがなければならず、また動かしているものがあればさらにそれを動かしているものがなければならず、世界の原因は無限にさかのぼってゆき、第一原因に突き当たる。その第一原因こそ、神といわれるものである」といいました。 そのように検証手段がないものは、その原因は無限にさかのぼらねばならなくなります。 何が真理か、と言われれば、それは感覚が底なので、感覚で検証されたものはそれ以上さかのぼることはありません。 そして科学的に検証されたものは感覚によって確かめられたものですので、科学者間の合意形成を必要としません。 しかし、同じ科学でも人文科学、例えば社会科学などでは自然科学のような確固とした検証手段がありませんから、何が妥当で、何が妥当でないかという見解が分かれることがあります。 その場合は、自己の主張の正しさを述べるときに無限遡行が起こることもあります。

feeders
質問者

お礼

--丁寧な回答ありがとうございました。 --何が真理か、と言われれば、それは感覚が底なので、感覚で検証されたものはそれ以上さかのぼることはありません。--とのことですが、検証ということはできるだけ客観性を高めようとすることだと思うのですが、感覚での検証が客観性を持つとすればそれはどのようなしてなのでしょうか。  人が持つ感覚器官がほぼ共通の身体的基盤を持つので、環境世界から感覚器官を通じて何かを感じ取る際に、あたかも法則性があるかのように感じ取るので、その法則性が客観性を帯びると考えればよいのでしょうか? --もう一つお聞きしたいことがあります。私としては、実は、自然科学ではなくて、人文科学での合意形成についてお尋ねしたかったのです。 そこでは、妥当性の拠り所として感覚を頼りにするわけにいきませんから、どうしても合意形成が必要になるのかなと思った次第です。  その場合、あっさり合意がなされれば問題ないでしょうが、合意が容易でない場合はどうすることもできないのではないかと思います。正しさを主張しようとすれば無限遡行が起きる可能性が常にあるように思います。  そこで、お聞きしたいことがあります。いっそのこと、無限遡行をくい止める基盤を置いて、そこから反転して論理展開なり実証なりを行った方がいいのではないかと思うのです。例えば、ヒュームの言うような共感を基盤として据え、そこを出発点として、各分野に分かれてゆくように展開してゆくというのがありそうに思うのですが、いかかがでしょうか? そのようにして、自分の学問的基盤を据えた研究者はいないのでしょうか?

回答No.5

科学的な正しさの証明は、合意する人数の正しさ によるのではない。 もしそうなら、集団的錯覚が正しい事になる。 宗教全盛の中世において、ガリレオは宗教裁判に かけられ、「それでも地球は回っている」とつぶやき ながら、地動説を捨てる事に「合意」したが、その事 によって彼の説の正しさに、何一つ傷はついては いない。 大衆は愚かであり、権威は常に古くなる。 合意が必要なのは、新たな真理を発見した人間 ではなく、権威筋やメディアが取り上げる事によっ てしか評価できない、判断力の低い俗人だ。

feeders
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

”合意がきちんと正しくなされているかどうかをどうやって確認するのでしょうか?”      ↑ 同一パラダイムの範囲内であれば、 それは正しい、ということになります。 ”合意の無限反復になります。”     ↑ パラダイムという壁によってストップがかかりますから 無限反復にはなりません。

feeders
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。

feeders
質問者

補足

私にはパラダイムという言葉がいまだに消化できていないように思います。少し勉強してみます。ただ、せっかくの機会なので、もう少し教えて頂けるとありがたいです。 -同一パラダイムの範囲内であれば、それは正しい、ということになります。-とのことですが、合意などということはそもそも見当違いのことだったのでしょうか。だとすれば、合意の無限反復というとらえ方は無意味なものだったのでしょうか? --パラダイムという壁によってストップがかかりますから 無限反復にはなりません。--ということですが、この発言からすると、一応、合意ということが無関係の話題ではなさそうに聞こえます。パラダイムという壁によってストップがかかる-ということがよく飲み込めません。やはり、クーンなどの哲学を勉強してからでないと理解できないものなのでしょうか?

  • ROKABAURA
  • ベストアンサー率35% (513/1452)
回答No.3

合意と言うからそこに人間が出てくるが 本来科学が追い求めるのは「真実か否か」だ。 正しいとする根拠をあげ 否とする可能性を一つ一つ潰して 問題が無ければ「おそらく正しい」となる。 おそらく だ。 宇宙の起源も物質の本質も重力の仕組みも エネルギー保存や万有引力や電磁誘導や 様々な法則が見つかっている が どれとして絶対正しいという真実ではない。 おそらく だ。 所詮真っ暗な闇を手探りで歩くのが人類なのだから仕方が無いのだ。 「我々の中ではこう合意した おそらく正しい」と言っているだけ。 反論する証拠がなくデータがその裏付けをきちんとしていれば 「現状での仮の真実」として人類の持つ大きな紙に書き加えられる。 絶対に正しいものとしての合意と考えるから検証に更なる論理が必要になるが 本当は単に出来るだけ真実に近づくだけの事。 まあ質や数は確かに妥当性や有効性なのだろうな。 過去にキリスト教がその教えの中核だった時代は 天使は実在していたし神はしょっちゅう降臨してた。 悪魔や魔女がいて何万人も殺された。 あの時代はそれが妥当で有効だった。 絶対の真実の証明を数や質に求めてはならない。 我々は暗中模索を繰り返しながら手探りでパーツを組み立てている生き物なんだ。

回答No.2

>テスト実施者達の間で妥当だとする合意が必要だと思われます。 ここが間違い。 「反論、反証が無ければ、合意があった物とみなす」ってだけです。 誰かが「合意します」と言う意思表示を行ったりはしません。 合意の意思表示が行われないのですから >ところが、合意がきちんと正しくなされているかどうかをどうやって確認するのでしょうか? と言う確認も行われません。 単に「他の者が何も言わなければ、それで理論が妥当なモノである事にしよう」って事になっているだけです。 そして「他の者が何も言わなければ、それで理論が妥当なモノである事にしよう」っていう「お約束」も「他の者が何も言わなければ、そのお約束が成立している事にしよう」って事になっています。

feeders
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。よくわかりました。

回答No.1

 その通りで、専門に研究している人間がよってたかって粗探ししてそれでも間違いが見つからないときに「どうやらこれは正しいようだ」となります。  数年、数十年たってやっと問題があるのに気付かれたり、理論と異なる観測結果が出たりして再度の検証が行われたりもするわけですが。本来の科学者は自分がその問題に気付く人間になろうとか新たな観測結果を見つけようとかしてる連中です。

feeders
質問者

補足

早速の回答ありがとうございました。他の回答者の方々の意見を見る限り、どうやら、科学については合意というのではなさそうですね。 では、コミュニケーション一般について言うなら、私の言ったことはあてはまるのでしょうか?合意というものが果たして正しく行われるのかという問題です。それと合意の無限後退の話ですが。

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