全ての変化には、淘汰がはたらく。
宇宙開闢以来、安定した物質を蓄積していく物質進化、海
中での化合物の反応において安定な化学反応が持続して
いく化学進化、その中で増殖性を生じて生存競争を始める
生物進化、人類の組織化における社会内淘汰による社会
進化に至るまで、一連の進化を遂げている。
原理的単位の相互作用の中から、より安定な反応が残り、
それが新たな上位現象の単位となる、階層現象化なのだ。
人類も、最初は個体が生存単位であったのが、血族のファ
ミリーが集団生活し、集落単位で争うようになり、都市国家
から国単位へと生存単位(同等な機能を有するもの同士は
競合する)が拡張し、社会性(分業化・組織化)を発達させて
きた。
その過程で、個人の意識に社会性を持たせる方法として、
分業化=助け合いにおける自己の生命性の社会的延長の
自覚化による自律的社会行動ではなく、お金や地位といった
アメ(馬車馬の目の前のニンジン)や、モラル(宗教)や法規
(政治体制)といったムチによって、他律的に社会行動を導く
方法をとったために、社会進化は社会構造的な変質を伴う
ものとなった。
血族の延長としての集落が生存単位だったのが、その競合に
おいて他集落を統合して大きな武力を有したものが生き残る
封建社会へと変質した。
封建社会は、武力による土地の確保=農業を主産業とする
社会だったところ、手工業の発達による分業化とそれに付随
した貨幣制の浸透において工業と商業が力を得、権力者は
武力から市民へと移行した。
その工業が、手工業から産業革命による大量生産によって、
市場の拡大と物流の発達、地域格差、生産手段の高度化に
よる資本家の台頭により、資本主義的な自由競争社会へと
移行した。
さらに、その市場の拡大と資本主義社会における投機や
株式市場が力を得る事で、そうした流通や経済を中間で
コントロールする金融や政治家が、新たな権力者となった。
そうした社会性の発展とそこにおける社会行動の複雑化は、
個人の意識において、当初の血族的共同の本能的・情緒的
な社会行動と、それと遊離した死や自然の驚異に対しての
アニミズムの二本立てから、個人の自己中心的な衝動が
社会的要請と乖離してゆくのに対応して、強力な教義を有す
る一神教による社会性の維持が必要になり、ほぼ同時期に
(国家体制の発展と平行して)キリスト教やイスラム教、仏教
といった世界宗教が勃興した。
しかし産業革命に付随した科学の発達と貨幣制の浸透は、
宗教の持っていた論拠=世界観や価値観を萎縮させ、人の
生きる指針を、「お金や出世といったアメと、モラルや法規と
いったムチ」へと移行させた。
上記のような進化=階層現象化をそのまま延長するならば、
人は他律的に生かされる(お金をもらうためにイヤイヤ働く)
歯車として、社会的な二次情報に操られて実体としての環境
認識の希薄化を招き、かつて単細胞生物として個々の細胞が
環境に対して多様に対応していたのが、多細胞生物の中では
神経やホルモンに条件反射的に反応するだけになっている
ように、生命としてしての“生きる意志”を教育や法規、社会
制度といった社会システムの上に転嫁して、個々人は無意識
の歯車に堕す。
人類は本来、脳の発達により、進化における適応を、遺伝子
の変異とその自然淘汰という遅々としたものではなく、認識
の発達=環境認識(自意識の目覚め)による行動パターンの
フレキシビリティによって、迅速に行うところにああった。
そうした“ヒト型進化(自律的生存)”の極にある人類をして、
先天的多様性による他律的な社会行動という“アリ型進化”
へと舵をきっているのが現代社会なのだ。
ヒト型進化とアリ型進化のどちらかが優れているという訳で
はない。
自然界においては、蟻や蜂などの「アリ型進化」だけでなく、
脳の発達に基づく「ヒト型進化」も、イルカやカラス、タコ
なども繁栄しており、双方とも併存している。
人も、意識による選択としては、精神的充足感の最大化が
生きる目的であり、アリ型進化ではなくヒト型進化を採る
べきであるが、もはや進化の分岐を過ぎてだいぶ経っており、
分岐へと引き返して転針するだけの自律的な生きる意志が
残されているかどうか、怪しいものである。
お礼
こんなに詳しい回答ありがとうございます。 大学関係の方ですか? 細胞と人間の在り方の重ねが面白いですね。 多細胞生物の次はなんですかね。