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幕末時の函館

幕末の函館について知りたいです。 幕末には函館戦争があったと思うのですが、市街地で戦争をしていたということでしょうか。 銃弾飛び交う中、市民や来函した外国人は普通に生活していたということでしょうか??

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8859)
回答No.4

明治二年5月11日新政府軍の箱館総攻撃が開始された。有川を出発した陸軍は七重浜・桔梗・四稜郭に向い、海軍は甲鉄・春日が弁天岬台場沖、朝陽・丁卯が七重浜沖、陽春が大森浜沖から陸軍を援護する。さらに豊安・飛龍に乗り込んだ奇襲部隊は箱館山裏手から市街を攻撃する。  この日の戦闘で箱館市街は新政府軍制圧され、旧幕府脱走軍は五稜郭・弁天岬台場・千代ケ岡陣屋を残すのみとなる。  またこの戦闘により箱館の街は大きな被害を受けた。 とくに弁天岬台場の旧幕府脱走軍によるといわれる放火(脱走火事)により市街の3分の1(約800戸)が焼失した。  ※政府軍が旧幕府軍が函館で市街戦を行うことを恐れて放火したとの異説あり。

mariotoro
質問者

お礼

函館は無傷ではないだろうと思っていましたが、放火は初めて知りました。 市民としては、戦場にされていい迷惑だったのかもしれないですね。 その当時の函館を自分の目で見てみたい気もしますが。 関係ないですが、私は箱館という漢字よりも函館という漢字のほうが好きです。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

回答No.3

江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が函館に入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年の1868年。新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことでした。五稜郭は新政府軍に明渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた旧制度もおわりを告げました。 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 ー 明治2年(1868年 ー 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であったことに由来する。明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。

参考URL:
http://www.webkohbo.com/info3/goryokaku/goryokaku1.html
mariotoro
質問者

お礼

大体の概要を説明してくださりありがとうございました。 おさらいになりました。

  • xperiaz1
  • ベストアンサー率6% (3/45)
回答No.2

あの東郷平八郎も薩摩の海軍として幕府の艦隊とやりあったそうです。 幕府からその後ロシアまで潰すんだから超人ですね

mariotoro
質問者

お礼

私は、東郷平八郎より土方歳三のほうが好きです。 ありがとうございました。

  • onihei55
  • ベストアンサー率3% (18/482)
回答No.1

五稜郭を中心に戦いは行われていたようです。

mariotoro
質問者

お礼

五稜郭には奉行所もありましたね。 ありがとうございます。

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