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箱館戦争の市街戦の頃の天気を知りたい

戊辰戦争最後の戦となった箱館戦争で 市街戦になったときの天気を知りたいのですが。 市民に避難するようにと達し書きがきたのが 市街戦の3日前と聞きます。 それによって、市民の多くは町を離れたとか。 身のまわりの荷物をもって 場合によっては大八車などで逃げ出す市民は 積雪とか降雪などの中の移動になったのかどうか…。 この件に関して詳しい情報をお持ちの方 どうぞ正確なところを教えて下さい。 よろしくお願いします。

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  • staratras
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回答No.4

「4月6日、海陸軍参謀山田市之允、陸軍参謀黒田了介、海軍参謀増田虎之助が協議の結果、脱走軍とはまったく反対の日本海側、江差の北方3里ほどの乙部村(爾志郡乙部町)へ上陸し、攻撃を開始することに決定した。  4月6日、甲鉄、陽春、丁卯、春日の4艦と雇外国商船オーサカ号、ヤンシー号に長門、福山、弘前、徳山、大野、松前の兵1500人を乗せて青森港を出帆、風と霧のため平館で滞船後、乙部へ向かった。同時に箱館在留の外国領事へは、脱走軍に対する攻撃を開始する旨の通知を行ない、居留民の避難を勧告、このため箱館市中は騒然となったという。」 「函館市史」(デジタル版)通説編第2巻第4編 箱館から近代都市函館へ 「新政府軍攻撃開始」P251 ご質問がこの時期のことを指しているのであれば、この日付は明治5年12月3日(旧暦)を明治6年1月1日(新暦)とする改暦以前のことなので、当時使われていた暦、すなわち旧暦です。旧暦の4月6日は新暦(西暦)の5月17日になります。 回答者は転勤族で函館市にも住んでいたことがあります。5月初めの連休の時期までは雪が舞うこともないわけではありませんが(平年の雪の終日は4月13日)、さすがに5月の半ば過ぎでは現在は雪は降りません。ただし最も遅い観測(雪の終日)は1898年(明治31年)の5月22日ですので、明治2年の5月半ばに雪が降った可能性もゼロではありませんが、仮に雪が降ったとしても積もるまでは考えにくいです。(データは「理科年表」) 新政府軍は4月9日に日本海側の乙部に上陸して箱館を目指したので、この途中で戦闘が続き、箱館総攻撃は5月11日(新暦6月10日)からとなりました。この日の天候は、「函館市史」(同上)P254-257によれば晴れていたようです。 この日の戦いは、「海陸数十ヶ所の戦に、晴日なりしが、火薬の煙空に棚引、天地是が為に朦朧たり」といわれたほどで、箱館市民へ甚大な被害をもたらした。家屋損傷、死人怪我人の続出、さらに火事と続いた。この火事は3日3夜続いたという(「明治物語」)。 なお、これより前の5月3日(新暦6月2日)夜には、弁天砲台に忍び込んだ者に大砲の火門に釘を打ち込まれて一時使用不能にされる事件がありましたが、この夜は大雨だったようです。 「3日の夜は非常に豪雨で、官軍の斥候は赤川と七飯に向って東奔西走、作戦に従事しておったのであります。(中略)この晩は非常に真っ暗で雨も降っとったもんですから、竜神町、すなわちただいまの西川町の鍛冶屋の職人の連蔵という男が、雨と闇夜に乗じて大胆にも弁天砲台にしのびこんで、大砲の火門にことごとくクギを打ちこんでかえったというんです」「非魚放談」(斎藤與一郎)P181  なお余談ですが函館は実は日本で最も早く(東京よりも早く)近代的な気象観測が開始された都市です。 「開拓使函館支庁の福士成豊(ふくしなりとよ)はブラキストンの観測を引き継ぎ、船場町(現在の函館市末広町)にあった自宅に観測機器を設置してこれを「函館気候測量所」とし、明治5年(1872年)8月26日から観測を開始しました。これが我が国の気象観測所における気象観測の始まりです。」(函館地方気象台 HP)8月26日は新暦で、旧暦では7月23日です。残念ながら、明治2年の気象観測資料はありません。

prudence
質問者

お礼

staratrasさま とってもご丁寧で、筋道の立った説明痛み入ります。 色々資料を当たって下さったご様子にも申し訳なく思います。 それぞれの出典まで明記して下さるなど お人柄が忍ばれます。 お答え下さったなかにあるそれぞれの戦闘などに関して わたしなりに調べた資料が どうも新暦旧暦がゴチャゴチャしていて 正直とっても混乱しておりました。 No・3の回答者eroero4649さまのお礼コメントに書き足したのですけど 実は質問がきっちり絞れていないために アバウトな市街戦という表現になってしまい 余計なお手間を取らせた結果になった次第です。 申し訳ありません。 知りたかったのは  青森にある箱館府から箱館の町役人に当てた達書(明治2年4月6日)  「政府軍が箱館を攻撃するので、皆、避難するように」(というおおよその内容)  この日の天候だったんです。 いまstaratrasさまからのご回答を熟読してみると どうやら、わたしが調べた資料は新暦で説明されていたようです。 そうとは知らず、4/6を旧暦に置き換えたために 降雪だとか、積雪だとか言う言葉による質問になってしまいました。 とにかく新旧の暦が入り組んでいるために 当たる資料によってかなり混乱させられていたようです。 やっとこれでスッキリと腑に落ちました。 ありがとうございました。 さらに別件スタイルで 気象観測の開始についてまでおしえて頂き感謝しております。 重ねてお礼を申し上げます。

その他の回答 (3)

  • eroero4649
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回答No.3

五稜郭が落城したのが5月18日ですがこれは旧暦で、太陽暦にすると6月27日だそうです。6月下旬の函館は「いちばんいい季節」ともいわれますからね。 最後の攻防戦のときは海から艦砲射撃をしたとありますから、視界もよく、天候も晴れていたのではないかなと思います。少なくとも雨天なら総攻撃は中止されていた可能性は高かったでしょう。 まだこの当時は天気予報も行われていなかった(日本で天気予報を始めたのは日露戦争に合わせて)ので、天候に関する記録は仮にあったとしたら幕府側艦船の航海日誌だったでしょうが、日誌が残っているという記録は特に見つかりませんでした。

prudence
質問者

お礼

eroero4649さま 丁寧な説明をつけての回答をありがとうございます。 天気予報が行われるようになった時期まで教えていただき これに関しては、変な言い方ですが「拾いものをした」といったふうな うれしいコメントです。 さて、肝心の件ですが もともとのわたしの質問がとっても大雑把だったようで みなさまにかえってご迷惑をおかけしたようでスミマセンでした。 質問をしたかった内容は  青森にある箱館府から箱館の町役人に当てた達書(明治2年4月6日)で  おおよその内容は  「政府軍が箱館を攻撃するので、皆、避難するように」  というもので、す。 これが届くのが攻撃に入る3日前といいます。 この4月6日を旧暦に直すと2月25日となるわけです。 つまりわたしが知りたかったのは旧暦2月25日以降の数日間なわけでした。 こうして皆様が回答を寄せて下さるありがたさは とてもうれしく、かつ、 質問をきちんと整理できていなかった、きちんと書けなかった自身を 深く反省しています。

  • hamazo2004
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回答No.2

函館市のHPによると、「10月26日には箱館府兵が青森口へ逃げて無人の五稜郭を占拠することになりました。この後に,松前や江差方面も相次いで旧幕府脱走軍が占拠することになり,12月15日には,榎本武揚を総裁とする蝦夷地仮政権が樹立されました。」とあり、「明治2年4月,乙部へ上陸した新政府軍の反撃が開始され,前年に最大の戦力だった開陽(かいよう)を失った脱走軍は, 次第に形勢不利となります。そして,5月11日には明治新政府軍が箱館総攻撃を行うことになりました。」とあるので旧幕府軍の函館占拠は秋、新政府軍の函館攻撃は春だったのではないですか。すなわち冬はまたいでいないと思われます。

prudence
質問者

お礼

hamazo2004さま とっても早い回答をお寄せいただきありがとうございます。 函館市のHPを調べて下さったようですね。 新政府軍の箱館攻撃は四月ですから春には違いないのですが 旧暦で言うと2月のはずですので 多分積雪や降雪があったと考えられます。 で、質問をアップした次第です。 お手数をかけましたが、ご厚意には感謝しております。

回答No.1

函館の資料によると 雪がちらついてた様です

prudence
質問者

お礼

azuki-7 さま 素早い回答をありがとうございます。 函館の資料を当たって下さったんですね。 雪がちらついていたとのことですが この資料では、積雪がどのようだったかまではわからないのでしょうか? いずれにしましても、多少の様子がわかっただけでも助かりました。 感謝しております。