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古代の2倍年歴で、1年とは何を意味していたのでし
古代日本では2倍年歴が使われていた、という説があります。当時、1年とは、現代の我々の1年でなく、半年、ということですね。 ここでは、この説が正しい、ということを仮定して、疑問点を質問します。(この説の正否を問いてはいません。) 我々は、簡単にいえば、春夏秋冬という気候が1巡する期間を、1年と考えています。(他の考えを採用している地域も一部あります) 当時の人々にとって、1年というのは何を意味していたのでしょうか?
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なぜ2月は28日しかないのかということを調べていた時、古代では、1年の内に、月(month)が空白だった期間があったと知りました。 なんでなかったのか、というと、なにも生産(作物)できず家に引きこもっていたので、日数などを知る必要がなかったらしいのです。 今でも、未開地では、食べる分だけ獲ってくるという関係で、1つ、2つ、3つ、いっぱい、という4種類の数概念で間に合うという話も聞きます。 質問者さんの言われていること(2倍年?)はまったく知りませんが、農業(栗とか米?)などができない季節はスルーして、農業が始まる時から終わる時までを1年としたのではなかろうかと思います。 その1年の範囲外は、森などにいって、たまたまあった木の実を取ってきたり、出くわした動物を捕ってきたりして過ごすなら、今日が何月何日かなんてどうでもいい話ですから。 余談ですが、日本の「不定時法」のやり方から考えて、2倍年暦と言っても、厳密に半年ずつではなく、作物を作る長い1年と、作物ができない短い1年の、あわせて2年だったのではないのかと思ったりするのですが?
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- chiha2525
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どうしても正否に言及したくなるw 2倍年は確か春秋をもって1年とする、という記述だったような記憶があります。つまり春に種を蒔いて秋に収穫するで1年、そこから春までを1年。三国志には倭人は暦を知らず、という一文がありますが、この暦とは春分秋分夏至冬至、およびこれらから1年を区分することを言います(単にカレンダーを持っていないとか日を数えていないという意味ではなく)。それを考えると春分~秋分といった、きちんとしたものではなく、暖かくなってきたから+1才、収穫したから+1才、みたいな感覚だったのではないでしょうか。月(の満ち欠け)は見えるので、月の概念はさすがにあったのではないかと考えると、月の初めに合わせて+1才だったのかもしれません。 1年に2度歳を数えると書いたのは中国の人だったということに留意するべきかもしれません。つまり陰陽五行の思想が入っている可能性があるということです。陰陽は、1日なら昼と夜が1年なら夏と冬に対応します。春と秋に、というのは中国の人の思い込みで、実際には夏と冬で+1才だったりするかも知れません。真相は藪の中。 日本書紀などでは、これを元に年齢を増やしているのではないかと思える節もありますね。もっとも月齢なのではないかという年齢も出てきますが。
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回答ありがとうございました。 二倍年歴については、その存在や実際に実施されていたのか、そのまま信じることは難しいですね。 ただし、その説が正しい、としたら、その一年とは、いったい何を意味していたのでしょうか? 現代の一年は、季節が一順することを、意味しています。一方、(1)春ないし夏、あるいは収穫の時期、と(2)秋ないし冬,あるいは籠もっている時期とを、個別に共に一年とカウントする(できる)のは、当時どのような意味合いがあったのでしょうか?
お礼
早速の回答ありがとうございました。 <作物を作る長い1年と、作物ができない短い1年の、あわせて2年だった> ということですね。おそらく、夏を中心にした期間が1年、冬の前後を1年、と数えたのですね。その対照な期間を、個別に・同等に1年、と認めたのですね。