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真似の哲学
「マネ」と「マネでない行為」の区別は、どこにあるのでしょう。 例えば、「マネでない行為」と言う消極的な言葉に対して○○であると言う積極的な言葉がなかなか見つかりません、創造する、作るとかピンと来ませんし。 人間が、火を使ったり、言葉(要注意?)や、家を作ったりするのは自然を「マネ」することから始まったのでは?又、生命の本質も、自己複製機能らしいです。 ホイジンガは、人間の行為はすべてあそびでは…と、つぶやきましたが、 だれかが、人間の行為はすべて「マネ」なのでは…と、つぶやいたら、 どう答えられますか? だれかが、生命の行為はすべて「マネ」なのでは…との問いには, どう答えられますか?
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質問者が選んだベストアンサー
とても興味深い内容の質問ですね。何度も読ませていただきました。 マネでない行為は「ネマ」では多分ダメですね。 新しい言葉も既製の言葉からのパクリが必要ですね。でないと意味が取れないと思います。 生命の本質は自己複製機能ですか、面白いです。 わたしは生命とは物質でもなくエネルギーでもなく、情報の一種だと思っています。 複製されたり伝播したりエラーをしたり、生命は情報の持つ特性をそのまま持っているように見えます。
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- mondo04
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>「マネ」と「マネでない行為」の区別は、どこにあるのでしょう。 「マネ」は真に似せると書きますから、具体的な対象(正しい行為)があるように思えます。 そうだとすれば、「マネでない行為」は具体的な対象のない行為、即ち「誤りを前提にして真を求める行為」であるように考えられます。 それは真理探求行為であり、換言すれば「哲学すること」だと言えるのではないでしょうか。
お礼
うん~・・最後にこのような「おち」があるとは、質問者も気が付きませんでした。 自作自演のシナリオでも、このように上手くまとめる事は、至難の技、世の中不思議なことが多いですね。
- todo2
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生命について考えてみました。 ダーウィンの進化論によれば、ヒトはサルから進化したものとなっています。この間数え切れないマネ(コピー)が繰り返されましたが、それは完全なコピーではなく「進化」という名の一部修正コピーでした。突然変異と言われる大きな修正もあったでしょう。 世代間(100年程度)ではマネと言えますが、ヒトとサルの比較(100万年以上?)ではもはやマネとは言えないと思います。 我々は基本的にマネしかできない程度の存在だと思います。「発明」と言われるものでも、最初はトレース(マネ)から始めるのが常識です。しかしその積み重ねが、もはやマネとは言えないものを創り出すのでないでしょうか。
お礼
生命について考えていただき、有難うございます。 質問の、生命に関する真似を断念せざるを得ない状況の中、日和見を指摘し、奮起を促していだきました。 生命のコピーの中で、「一部修正」、真似でも同じでない事や、高等生物が雄と雌に分かれる事等、深い意味がありそうです。 丁度、「真似」の反対は、「似る」ではないかと思い始めたのですが、あたりまえのようで、意外な結論に、少々とまどっていたところです。 人間が自然の一部である以上、人間と生命に、何かしら共通項があるような気がするのですが、時間を含めて難しい問題ですね。
- welovekobe
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哲学のカテゴリーなので、いろんな考え方があって 良いと思うのですが、「真似の哲学」という言葉を 私はいつもことあるたびに用いている 「相似の哲学」と置き換えてお話してみたいと思います。 生命の行為はすべて真似である・・・とは とても当を得ていると思います。 なぜなら、人間は、神様に似せて創造されたからです! 神様はご自身のかたちに人を創造された と書かれてあるとおりです。 神様はご自身の愛と知情意と創造性とすべてを 愛する対象として創造された子女である人間に 相続させたかったのであります。 ゆえに、人間にのみ、創造性や知情意や責任心情や 相手を愛することを通して喜びを得ようとする「心情」が あるわけです。また、悪を憎み善を指向する本心が あります。 これら全ての人間の本性は、神様に似たものです。 それが「本質」という意味です。 人間が単なる偶然にこの宇宙に発生した生き物なら、 「本質」もなにも無いです。 神様に似せて創造されているので、人間の本質は 「真似」です。つまり、人間の本質は、「神性」なのです。 神様と人間の関係は親子です。故に似ているのです。 だから、この地上の人間の親子も似ているのです。 そういう関係が表れるのです。 原因がないのに結果があるはずがありません。 この世の親子がお互い似ているのは、 神様と人間の関係が親子であり、似せて創造されたから であります。それ以外に理由はありません。 偶然にたまたまそうなっているのではありませんよ。 動物も全て、人間に似せて創られています・・・ 勿論、神様によってです・・・ ではでは。
お礼
相似の哲学、気が付きませんでした、大変参考になります。 相似や相同の問題は、質問に「生命」の分野まで欲ばった表現を使用してしまったせいでしょうか。 「似る」のではなく「真似る」この主観について考えている事が、あらためて確認できました。 それにしても、いつもながら筋の通ったご回答、さらに無神論者と表明している、おろかな私を見捨てぬ、welovekobeさんに敬意を表します。
- jakarta
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全てをマネと仮定した場合、発明(発見)はマネとして説明できるのか。例えば車輪(歯車)や羅針盤は自然界に存在しませんよね。 生命も環境に適応するための発明的行為…突然変異がなければ進化することもなかったでしょう。 例えば日本の歴史の場合、ちょんまげという奇妙なスタイルが登場しますが、何かから発明あるいは発見されたものであり、それが真似によって情報が伝播されたというように考えることはできると思います。 そのようなことから「マネ」と「マネでない行為」の区別は、発明(発見)の差異ではないかと考えられないでしょうか。 ホイジンガについてあまり詳しいわけではありませんが、情報の伝達、社会的価値の交換が真似・遊びによって行われていると拡大的に解釈されているのではないかと感じました。
お礼
確かに発明はマネとして説明できないかもしれませんね。 発明も何かしらの経験に由来しているわけですが、その事をマネと言えるかは、正直わからないですね。 ただ、真似と発明を対比すると、日常の行為としては、発明が非日常的という点で「全て」を否定できたとしても、まだ「真似」が出車馬っていますね。 私は真似の味方をしている訳ではないのですが、そのように受け取られやすいですね、お土産有難うございます、休みの日にゆっくり覗いて見ます。
- konstellation
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こんばんわ、またお邪魔しますね。 質問者さんが人間の根本にある精神的性質としての「遊び」に対して異論を唱えるために「真似」を提議されたとしますと、これは少しきびしいかな、と思います。 というのも、カイヨワの言うように、「遊び」という場合にはすでに「真似」という下位概念が存在してしまいますね。それゆえ、彼やホイジンガの遊戯論に対して、単なる一要素に過ぎない「真似」という言葉を用いて根本的な批判をすることは難しいと思います。 それとも私の勘違いかな・・・
お礼
敬愛するホイジンガの遊戯論を批判するなど、そのような恐ろしいことは考えてもいませんでした(笑。 仰る通り、遊びの要素に、真似がありますが、これは物まねといった、意識的な真似で、それとは別な真似がありそうな気がします。 ご説明の為に、突然話題を変えますが、 価格は価値の表現と申しますか、価値は価格の根拠(需給の問題はここではひとまず省きます)が普通です、ところが、価格が価値の根拠になり出しています。 「高いから良いだろう」「安いから悪いだろう」 ここのところに、遊びとは違う無意識的?「真似」がありそうな気がするのですが、主観・客観・真似、確かに難しそうです。 ホイジンガが「遊び」と「真面目」を対比したように、「真似」と「真似でないもの」をどう区別するか、文化や芸術の枠を越えて(例えば物理のフラクタル理論等)色々なご見解をお聞き出来ればと思っています。 有難うございました。
- konstellation
- ベストアンサー率59% (38/64)
ミメーシス、ということでしょうか。 単なる模倣でなくなれば、それは独自の様式を持った「芸術」となりますね。 周知のように、ドイツ語では「技術」も「芸術」もKunstと言います。 マネではなく、伝承と発展が人間の文化だと思います。 最後の「生命の行為」という言葉はよく理解できませんでした。 それでは
お礼
なるほど、ブラトンですか、ホイジンガのミミクリーもここから来ていたようで、大変参考になりました。 伝承や発展の中に「真似」の要素が潜んでいそうな気がするのですが。 最後の「生命の行為」は「生命の行動」と慌てて訂正させていただきます。微生物も行動するのか?困った困った、鋭いご指摘、感謝感謝。
お礼
生命を情報とするのも面白いですね。 真似ると伝えるで、主体が入れ替わるのも興味深いところです、ただ「伝」では意味が取れませんね(笑。 有難うございました。