四次元はなぜ納得感を持って想像できないのでしょう?
四次元は「想像」できるものではないということについて、皆さんの考えを教えてください。
先に断っておくと、今回の話題は数学的な性格ももちろん帯びているでしょうが、どちらかといえば現実的・物理的(非観念的)な話になると思います。
そもそも三次元すら、私たちは想像上でしか触れていないものを納得しているだけだと思うのです。
というのも、我々の視界は根本的にテレビとかの映像と変わるものではなく、二次元だからです。二次元として広がっている視界内にある諸々の三次元の物体を三次元のものとして当たり前のように認識できるのは、そういった物体をいろんな方向から見たときの見え方の関係とそれに伴う時間経過の関わりをよく経験しているかだなのだと私は思います。つまり実質的には時間軸が、実は三番目の次元として我々の認識を構成しているように思えます。
両目あるから立体を認識できるという考えが主流のように思えますが、ではたとえば先天的に片目しか見えない人間は立方体の等角写像を見ても菱形を3つ組み合わせた形としか見れないのかといえば、そんなことはないと思います。
その納得感は触覚の記憶から来ていると思います。四角い形を手のひらで包むように触ったときの、頂点の尖った感覚の位置関係。そういう記憶によって、静止した図面であっても、それが三次元を描いた図と断ってもあれば、その図が則っている遠近法から三次元としての物体が納得感をもって想像されるのだと思います。ちろんその情報は両目が見える一般的な人の納得感にも寄与していると考えます。
そういうわけで、視界や図として二次元にしか触れていない我々が三次元の形状の全体像を理解しているというなら、4次元は数式や断面図から断片的な性質として理解するしかなく、その形状の全体像は想像できるものではない、というのは実は思い込みに過ぎないのではないかと思いました。
しかしクラインの壺にしても超球にしても、いろいろな啓蒙記事からイメージを膨らませて見ても、私を含め確かな納得感にまでは至らないという人が多いと思います。一体三次元との違いは何なのでしょう?三次元にしても立方体を回転させたアニメーションとか、平面の現象にせいぜい時間軸を足したもので納得しているだけです。もしも遠近法が考慮された平面の図が触覚等の記憶により実質的に三次元の情報として我々の認識に作用するのであれば、アニメーションなら四次元までは無理なく表現できるはずで、また我々もそれに納得感を感じなければおかしいと思うのですが、現実問題納得できない。立方体の図にが側面の辺の長さは異なっていても何も思わないのに、超立方体の図はどうしてもへこんだ箱、あるいは立方体が入れ子になったような状態というところから納得感のある想像へと昇華させることができずに悶々としてしまうわけです。なぜこういったことになっているのか。
また別の事例として四次元であれば三次元の密室から壁抜けということがいわれることがありますが、このようなことも観念的には理解できても現実的なあるいは物理的なことしてはどうにも納得感が持てません。四次元方向に移動すると三次元の人からは消えたように見える、その後部屋の外に「着地」すれば壁抜けは完了するということですが、これがもう分かりません。
では我々が密室を壁の破壊を伴わずに「壁抜け」することができないのはなぜなのかと考えてしまうのです。それは我々が三次元しか認識できないからなのか、であれば認識に頼らずでたらめに動けば抜け出せるのか、いやそういうことはないだろうと思ってしまうわけです。私の素人考えですがこの空間には次元という制約はなく無限の方向が広がっているのではないかとすら思っています。一方で宇宙全体ならともかく局所的には三次元の広がりとしか空間は実在していないから、密室という有限空間の四次元を介した壁抜けというのはできないのではないかなとも思います。つまり四次元の壁抜けというのは数式では表現できても物理的な意味付けは原理的に不可能で、こちらについては想像すること自体がナンセンスだと思うのですがみなさんはどう思いますか?
余談ですが電磁波は三次元の現象だから我々の目の前に四次元の物体があっても三次元の物体と区別がつかないようにしか見えないという説を聞いたのですが、では音波ならどうなのだろうかと思ったことがあります。つまり(1,1,1,0)と(1,1,1,1)のベクトル成分を持った音波をそれぞれ聞き分けることが我々には可能なのではないか、三次元でいう触覚の記憶のように、エコーロケーションの経験があれば四次元の形状の全体像に対するイメージを無理なく持てるのではないかと思いましたが、これについても意見があったら聞かせてください。
お礼
ありがとうございます。