- 締切済み
教訓
「教訓を得る」という言葉をよく聞きますが、 教訓の意味を辞書で調べると、 1.教えさとすこと。また、その内容・言葉 教えさとす、の意味を調べると 2.物事の道理を”相手が”よく理解できるように、話して聞かせる つまり、教訓は他人に言うものであり、(自分が)得るものではないと私は考えたのですが、 間違っていますでしょうか? よろしくお願いします。
- みんなの回答 (9)
- 専門家の回答
みんなの回答
- fxq11011
- ベストアンサー率11% (379/3170)
先にビデオの話しましたが。 AがBに教える状況のビデオ、cが見て理解したとき、cはおそらくAに教えられたとは言わず、ビデオに教えられたというのではと思います。 では、そのビデオをあなた(自分)が見て理解したとき、教えられた、教えることの内容を理解した(得た)。 その時は他人自体が存在せず、あるのは映像です、それを見て理解し、得るのは、それを見た人です(自分であっても、他の誰であっても差し支えありません)。
- kine-ore
- ベストアンサー率54% (808/1481)
中世期にはそのように、「教訓」が「教え諭すこと。戒めること。」の意味で、特にサ変の他動詞としてヲ格を取った機能性動詞の形で、ご指摘の通り「教訓は他人に言うもの」として使役的に使われていたものでしょう。 その「教訓を与える」という態(ヴォイス)を替えて、受身にした場合、授受表現においては「教訓を受ける」という形になります。 例)親が子に教訓を与える。 → 子が親から教訓を受ける(与えられる)。 そして、平安の昔から、その身にとって好ましくない出来事を受ける/被(こうむ)ることを「得(う)=得(え)る」と遣います。 例)「罪うることぞと常に聞こゆると」(「源氏物語・若紫」)。病を得る。 そして教訓もその当人にとっては苦く好ましくないものとして、わが身に教訓を得る=教訓を受ける/被(こうむ)るという言い方が成り立ってしまうのでしょう。 つまり、日本最初の国語辞書「言海」に「けうくん(教訓)(1)ヲシヘサトスコト。(2)告ゲ戒ムルコト。意見スルコト。教戒」と載って以来、そのまま」踏襲してきた説明文ですが、近ごろでは、教訓とはその受ける当人の身にとってプラスとなることだというニュアンスが生まれるにつけ、本来の「教訓を得る」というわが身に被(こうむ)る意味から外れて、その当人に有益な「教訓」を「獲得する/理解し自分のものとする」という意味へと「偏向」「拡大解釈」が進んだものではないでしょうか。 例)「きょうくん【教訓】将来への生活指針(を与えること)」(「新明解国語辞典」) 以上から、1)伝統的な使役的「教え諭し」では受身態での「被る/受ける」意味の得るで、2)近来の中立名詞的な「将来の生活指針」としては積極的な自発態としての「理解し自分のものとする」意味での得るとなっています。 この両傾向への分離か、混淆か、その意味上での揺れが生じている表現で、その点でも実に鋭いご質問だと思います。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
もっと単純に言いますと、その言葉を発した人間が最初から「これは教訓である」などと思っていたのか、そうではないのかとの問題になります。 ソクラテスも孔子も最初からそんなことは考えてもいないでしょう。そうした彼等先哲の言葉をどう解釈するかが教訓の意味ですから、それがワンピースの中にあるルフィーの何気ない一言が、ある人にとっては教訓になりもするほどの意味でよろしいのではありませんか? 質問者様が混乱しているのは、言葉には送り手と受け手の二種類があり、一つのものにそれぞれの側面があるとの問題であると存じます。 「もの」が一つの面だけで物理的に成り立っているわけでもありません。紙にしても表面と裏面は必ずあります。どちらも表面であるとはいえませんね?。
- fxq11011
- ベストアンサー率11% (379/3170)
「教える」と「教えること」との相違について。 思いつきではありますが。 AがBに何かを、教えている、この状況は教えるです。 それをビデオで撮影します、そしてCに教えるとはこういう「こと」だ、と見せます。 ビデオを見たCはAに教わったと感じるでしょうか、ただ見ただけではそこまで感じないはず。 ビデオ、またはその内容が「教えること」に該当します。 そして、Cが内容を十分理解して、以後自分の行動、判断の際に利用しようと思った時点で「得た」という表現が可能になります。 単なる情報としての記憶と、自分のものとして行動、判断の基準にするための記憶は脳の中で常に読み出し可能の領域に記憶の必要があるため、おのずと別の領域になります。
- cxe28284
- ベストアンサー率21% (932/4336)
わざわざ誰かが誰かに教え諭すというより、偶然起こった出来事を体験したり、 ある件に関する人の感想など、自分のいろいろな経験などによって、教えを得る ことがある。 ご質問の1.2.は教訓を得るという受け身の意味とは違っていると思います。 教訓を与えるであれば1、2、になるでしょう。 私は教訓を与えるは非常に僭越で、対等には使えないと思います。
- fxq11011
- ベストアンサー率11% (379/3170)
「教えさとす」=確かに他人に対しての行動です。 では「教えさとす」こと、日本語では「こと」がつくとその前の内容は名詞と同等になります。 教えさとすこと、を得た、教えさとす行動ではなく、教えさとすときの内容を得た・(知った)となります。 日本語では、語幹は去ることながら、て、に、を、は、を始め文の最後の言葉によって大きく意味が異なります。 ここでは「こと」が付くか付かないかの差です。 さとす=動詞 さとすこと=名詞(化) >1.教えさとすこと。また、その内容・言葉 すべて名詞の形で表現されています。 あなたが調べたのは、動詞の「教えさとす」ですね。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
言葉を「辞書どおり」のガチガチな解釈に押し込めてしまうと、その様になりますが、言葉は文脈の中でしか生きることができないとの性質を持ってもいます。 「教訓を得る」が先人の知恵に耳を傾ける事と理解するならば、その教えを得ることは何も不自然ではありません。 ついでに蛇足ですが、今年の文科省全国学力調査の「中学校 国語A大問8-4」に「英気を養う」との言葉の意味を問うとの設問がありました。この設問は「英気を養う」との慣用的表現を無視するとのまことに無謀ともいえる発想の元に造られていたがため、「英気」と「養う」をそれぞれの単語レベルで辞書を引くとの珍妙な作業を求めてもいます。 それと今回の質問者様の姿勢は同じであって、字面にとらわれてしまうからその様な杓子定規な理解を生んでいるともいえます。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
「教訓を得る」は、「教えさとすこと」を得る = 教えさとしてもらう で、自然だと思います。
- Nebusoku3
- ベストアンサー率38% (1464/3823)
教訓を得る。 教訓をたれる。 両方がありますね。 昨年の失敗から教訓を得た。(得る) (監督が)昨年の失敗に関して、長々と教訓をたれた。 津波被害からの教訓が生かされてない。 昨年の津波被害から教訓を得て、今年は、しっかりとした対応が出来た。 某学者(評論家)が津波被害に関する教訓をたれていた。 参考; http://dictionary.goo.ne.jp/examples/jn2/56111/m0u/