- ベストアンサー
表象について
人間が心に浮かべるイメージや、暑さ寒さ痛さなどの感覚…「表象」というのかと思いますが、表象の正体は何なのでしょうか? 仮説とかあるのでしょうか? 例えば、表象が発生しているときに体内や脳内で何が起こっているかの究明と、表象の正体解明の間には断絶があるように思えてしまうんですが… Newtonの生命特集なんか読んでも、この辺を棚上げにしているようで物足りないです。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 #3です。熱心な返信を頂き、恐縮であります。 意識の随伴現象説に科学的な根拠はほとんどありません。脳科学が進歩し、多くの科学者と、また冷静な哲学者もそれを客観的な視点として受け入れるようになりました。 ですが、それは飽くまで観点、立場の問題であり、随伴現象説で意識の正体を解明することはできません。当たり前ですよね。学者さん達だってそんなことはみな端から分かっています。ではどうすれば良いのかと言われましても、果たして脳科学が如何にハイテクを用いようと、哲学者が百人集まろうと、心理学が世界学会を開いても、未だその手掛かりさえ掴めません。最初の回答で事実上棚上げ状態などと皮肉っぽい言い方をしましたのはそのためです。質問者さんだって、その辺りがどうも歯痒いと感じておられるわけですよね。 意識の特異性と言いますのは、自己の存在を認知できるのは意識だけであるということです。果たして、主人は私なのか意識なのか。ここに、その主従関係という矛盾が発生します。 自分を見ているのはいったい誰なのか。脳科学はそのような生理学的構造は発見できないとして自己の傍観者、あるいは表象の観測者である脳内のホムンクスルを否定しました。まあ、ただ見付からないというだけの主張なのですが、現代にこれを反証する哲学者は一部の宗教を除き、当然、これに発言の断念をせざるを得ません。仕方ないですよね。今時そんな馬鹿なことがあるわけないですから。 随伴説の主眼とは、意識とは脳活動があって初めて発生するものであるということです。意識は脳活動の下に発生し、その逆はありません。根拠はないですが、脳活動そのものは客観的事実として実在しますが、これが停止すれば意識はありません。で、もしあるとすればそれは霊魂ということになります。 では仮に、そこに発生した意識が脳活動に影響を与えるとしましても、メカニズムはわかりませんが、その主従関係を脳活動ありきの意識としますならば、脳と意識の相互作用は随伴説と矛盾はしません。 先にコーヒーを例に取り無意識行動の話を致しました。高等動物として生物界に君臨する我々人類といえども、その日常生活の大半は本能行動と情動行動によって賄われており、意識行動の比率は30%に過ぎません。 もうひとつ例に挙げますならば、コンピューターは入力に基づき、その演算結果を出力するだけです。では、我々の脳をひとつの演算システムとしますならば、そこに意識は必要ありません。ところが、この矛盾を回避しようとするならば、そこには必然的に意識の生物学的意義というもの問い質されることになるわけですが、再三申し上げます通り、それでは意識の科学的本質とは全く無関係の論議でしかありません。 いったい何時までこんな水掛け論を繰り返すのか。ここいらで一度、仕切り直す必要がある。正に苦肉の選択ではありますが、これが、多くの科学者が随伴説の立場を執るに至ったこれまでの経緯ではないかと思われます。
その他の回答 (3)
- ruehas
- ベストアンサー率68% (816/1194)
こんにちは。 #2です。回答をお読み頂きありがとうございます。 回答を読み返してみますと、確かにちょっとちぐはぐなところありますね。改めて、あのコーヒーは美味しかったと自覚を持って次の行動を選択することを「理性行動(計画行動)」と言います。片や、我々は店に行ったとき、何も考えずに棚から同じコーヒーを選ぶこともできます。こちらは無意識行動であり、脳内に発生した感情に従う「情動行動」です。 共に学習結果に基づく価値判断が次の行動選択に反映していることは同じなのですが、情動行動といいますのはそのときに発生する情動反応によって即座に決定されてしまうものであるため、行動の動機を自覚しているわけではありせん。ならば、学習体験を基に未来の結果を予測し、より価値の高い行動選択を実現するのが理性行動であり、意識はそのために発生するということになります。そして、我々人類はこの能力を発達させることにより、他に類を見ない極めて高度な環境適応能力を獲得しました。 このような形でその生物学的価値を論ずることが無意味だとは言いません。ですが、概念として分類できる以上、そこには何らかの解剖学的・生理学的構造があるはずです。従いまして、その正体は何かと問うならば、科学で解明すべきはこちらであり、生物学的価値の論議とは本質的に別の問題ということです。
お礼
ご回答ありがとうございます 分かり難い文章で申し訳ありませんが、私は表象の生物学的価値に関心がある訳ではありません。 「意識や表象が、概念として分析できる以上、そこには何らかの解剖学的・生理学的構造があるはずであり、しかしながらそれは科学的に未解明である」ということは、回答者様のご教授により理解できました。 その上で科学は、「意識とは脳活動の随伴現象である」と位置付けているとのことですが、これはつまり「意識は脳活動に伴い、副次的に発生する」あるいは「意識は、脳活動に一方的に依存する」というような意味だと理解しましたが、科学的に、何故そういう考えに至るのかが理解できないのです。 科学を離れた人間的感覚でも、意識と脳活動は一体であるにせよ、どちらが主でどちらが従とも言えないように思えます。 例えば「意識と脳活動は相互干渉している」と主張しても根拠の無い妄言に過ぎないと思いますが、「意識とは脳活動の随伴現象である」ということも、意識というものの特異さに鑑みれば、仮説としての無根拠さでは同レベルではないかと思えてしまいます。 科学が「意識とは脳活動の随伴現象である」と位置付けうる根拠は何なのでしょうが? 何度もお手を煩わし申し訳なく思いますが、以前から漠然とですが疑問であったもので、何卒よろしくお願いします。
- ruehas
- ベストアンサー率68% (816/1194)
こんにちは。 質問者さんの仰る通り、科学的には未解決問題です。これを突き詰めますと、結局は「意識」というものにぶち当たります。そして、この意識というのは脳科学や解剖学では未だ手の付けられない皆盲の領域であるため、脳科学に至っては現在、「意識とは脳活動の随伴現象」であると位置付け、その解明は事実上棚上げ状態になっています。 表象といいますのは感覚入力や記憶などの情報を基にれを対象として捉えることを言います。従いまして、それは脳内に起こる「現象」であり、実態はありません。 古来、哲学や古典心理学ではこれを概念として扱うことによって分類し、論議してきました。その現象に伴う結果を類推するだけであるならばこれはそれで十分なのですが、科学とは客観的事実に基づく帰結であらねばなりません。ところが、この現象に解剖学的な根拠や生理学的な説明を施すのは、素人目に見ても極めて困難と言わざるを得ないと思います。 それが表象であるかどうかは、そこに何が見えるかではなく、それが見えているか否かによって決定されます。 我々の脳内で情報処理とは、 「感覚入力―中枢処理―運動出力」 という経路で行われます。 中枢処理では入力情報を何らかの対象として識別し、これを基に状況に応じた行動や生理状態が必然的に選択されます。そして、ここには意識行動と無意識行動があり、そして、この過程で認知された対象、即ち意識に上り、脳内に見えたものを我々は表象と呼んでいます。 ではそれは何故、認知され、自覚されなければならないのでしょうか。これを自覚するためには必ずや意識が伴わなければなりません。そして何故、自覚される必要があるのかと問うならば、結局は何故、何のために意識なる現象が発生するのかということになります。 例えば、パソコンのブラウザーを眺めながら傍らにコーヒーを飲みます。ここに意識が伴うならばその行為は表象化され、自覚されます。同時にそれは秩序を持った情報として記憶が可能となり、果たして「このコーヒーは美味しいからまた買ってこよう」などといった思考も生み出されます。 ですが、これが無意識行動であるならば行動は選択されても表象は見えていません。何時の間にかコーヒーは半分に減っており、すっかり冷めてしまっています。そして、何処で飲んだのか、何時から放ったらかしなのかさえまるで憶えていません。 表象とは何かという問題提起でありますが、それは現象であるという立場を執るならばこのような解釈が可能となります。これにより、我々の脳はより高度な情報処理を行い、未来の結果や創造さえもその範疇に獲得し、加えて人類は言語表象といった特殊な習性を身に付け、その能力を大幅に拡大しました。 ドーキンスが何と言っていたか私は知りませんが、これに生物学的な意義を書き与えるだけであるならば、果たして進化論といいますのは科学の本質である客観的事実とその再現性に最も遠い手法であるため、これを以て表象や意識の正体を紐解くというのはまず無謀なのではないでしょうか。 本能行動と情動行動を合わせるならば、我々の日常は無意識行動がその大半を占め、人間といえどもそこに理性行動の比率はほんの僅かでしかありません。 情動行動といいますのは、 「感覚入力―情動反応―身体出力」 という経路で行われます。 基本的には情動反応の発生に伴う無意識行動ではありますが、我々がそれを感情として自覚することを「情動の原因帰結」といいます。では、何故そこで感情の自覚が必要なのでしょうか。 つまりこのように、表象であれ感情であれ、そこに意識という現象が伴わなければ概念としては何れも成立しません。従いまして、これまで哲学や心理学で扱ってきたものを科学的に解明しようとするならば、そこには本質的な問題が残されることになります。ですが、果たして残念ながら、科学は最新のハイテク技術を以てしても未だその手掛かりさえ掴めない状態にあります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 すみません、認識誤りがあるといけないので念押しのようになりますが… 美味しいコーヒーを飲む例えでいいますと、それを秩序を持った情報として記憶し、高度な情報処理の結果、次の機会に同じコーヒーを買ったとして、当然そこには意識が伴うことになるのだと思いますが、それは、(発生原因は不明ながら)結果として意識という現象が随伴して「美味しい」「また買おう」と感じるだけであって、実際に同じコーヒーを買うという行動には、意識そのものは何ら物理的な影響は与えていない、というのが科学的に一般的な見解であるという理解でよろしいでしょうか。 また、そうであれば科学的にみて、生物の活動にとって「現象であって実体のない」意識や表象の存在意義は無いということになるのでしょうか?
コンラート・ロレンツがその概念を書いていたはずですが、原典が手元にないので残念です。ドイツ語ですが、とにかく新しいものが突然現れるというような意味だったと思います。物質から感覚が生まれるということ自体が古来からの謎であったはずですが、デカルトなどの二元論に象徴的であるように凡人である私には何か原理的に解決不可能な問いかけのように感じます。養老孟司さんなどは案外どこかで仮説を述べているのではないかと思いますが、精神病理学者の木村敏さんなども何も言っていないように思います。案外仏教などにヒントがあるかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ご指摘ように、原理的に解決不可能な問いかけか、もしかしたら科学の領分を外れる質問かもしれないとは思います。 ですが、質問欄に書いたNewtonで、リチャード・ドーキンス博士が、 「生命と物資に、根本的なちがいはありません。『生命の実体』と呼びうるものは存在しません。そこに、不思議なこと、神秘的なことは何もないのです。」と述べていました。 ドーキンス博士は極端にしても、ときどき「生命の不思議」がすべて科学で説明、解明可能であるかのように断言する科学者をみるにつけ、解せないものを感じます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ご説明、下記のように理解しました。 随伴説の意味は、「脳活動なくして意識は存在し得ない」ということであり、No.3お礼欄に書きました「意識は脳活動に、一方的に依存する」は、随伴説の解釈としては必ずしも正しくない。むしろ、意識の生物学的意義論などは、意識の側からの脳活動への影響を示唆するものである。 この理解で間違いないのであれば、疑問点は解決しました。 また、No.3でご指摘頂いた、私が意識の生物学的意義に関心を持っているというご指摘も、やはりその通りかと思います。 意識の生物学的意義を論じることは、「意識の科学的本質」へのアプローチとしては的外れであることは理解できます。 しかし、質量もエネルギーも持たない(はずの)意識に意義を認めるとすれば、それは物理的に未知の原理が存在する事実を受け入れることでもあり、科学の根幹に関わる問題だと思います。 重要な謎を謎として明示した上で棚上げにするのは結構かと思いますが、少なくとも私みたいな素人が目にする科学読本においては、謎を棚上げというよりは、巧みに論点をずらして謎が目に付き難くしているように思えるのが不満ではあります。 付帯的に疑問は尽きませんが、また整理してご質問したく思います。 丁寧にたくさんご教授下さり有難うございました。