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同じ穴のムジナ?
哲学じゃ無いかも知れないのですがよろしくお願いします。 価値観は違うが真っ当に生きている人間A、Bがいたとします。 ある時AがBの生き方を否定する発言をしました。 それを聞いたCが「人の生き方なんて人それぞれなのだから生き方を否定するのはおかしいんじゃない?」とAの発言を批判しました。 するとAはCにこう反論しました。 「人の生き方を批判するのも私の人生だ。それを批判するのはおかしいんじゃない?」 この場合AとCは同じ穴のムジナなのでしょうか?
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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いぢわるぢいさんになるなら。 けっきょく 好き嫌いで判断しようとしていないでしょうか 多くのみなさんについて嫌味を言うのですが。 そうして B 本人として・もしくは B の立ち場に立って A と同じく ひとの生き方を否定しようとしている。 A は 自由な対話を・つまり民主制にもとづき相手の考えを聞こうとしているのであって B を初めとするほかの人たちは ただただおのれの好悪を先に立たせその気持ちを述べているに過ぎません。 《生き方の否定》という点では みな同じですが。 つまり そこが じつは出発点なのでしょう。 好悪の感情をないがしろにしなくてよいのですから その嫌悪感を理由づければよいはずです。 そして 何よりもかによりも 好悪の感情だけで往来をあるいても 呼び止められて注意をくらったり罰金を課されたりすることはありません。自由なのですから。 つまり B は少なくとも A のなじるような問いかけに対して 放っといてくれ おれはおれの好きにするという答えをあきらかにして述べるのが よいでしょう。そうすれば ムジナの穴から出て来て 人間になっています。
補足を読みました。結局、Aのルールを認めるか認めないかということみたいですね。要するにABは相性が悪く、Bは本当のことをAに話す気にならなかったのでしょう。喧嘩したい人と仲裁したい人は、他人と濃い関係を結ぶという点では似ているかもしれませんが、性質としては別物だと思います。Aさんは裏切られた気がして悔しい。ただ、それだけの話ですね。Cさんはこれに対して、「人の生き方を否定してはいけないと注意するのも私の人生だ」と言えば良いんでしょう。否定と注意は大きな違いです。
- Tefu_Tefu
- ベストアンサー率27% (87/322)
こんばんは >「人の生き方なんて人それぞれなのだから生き方を否定するのはおかしいんじゃない?」 CはBの人生を否定しているAに「他人の人生を否定しない生き方もあるよ」と指摘しているようです >「人の生き方を批判するのも私の人生だ。それを批判するのはおかしいんじゃない?」 AはCの発言=「他人の人生を否定しない生き方もあるよ」と指摘しているのを「Aの人生への批判」さらに「Aの人生の否定」と受け止めたと考えられます Aは自分がBの人生を否定することを正当化したかったのだと思います 成程 Aは他人に嘘をつかないから 嘘をついたBの人生を否定できるということなのですね 私は嘘をつくかつかないでは「他人の人生を否定する」ことはできないと思いますが 例えば 相手を不快にする他愛もないことや明らかに自分の言動が不利益を被ること(黙秘した方がいいこと)に対する隠しごとや嘘はついた方がいいと思います それに 嘘をつかない人間はいないと思います なぜなら 学んだ知識が間違っていたら嘘になると思います >「人の生き方を批判するのも私の人生だ。それを批判するのはおかしいんじゃない?」 さらに この文章では嘘をつかないと信じている自分は「嘘をついた人の人生は否定できるが」 嘘をつかないと信じている自分の生き方を他人は否定できないとなります 私といたしましてはAの独断的思考は受け入れがたいものであり 完全主義は他人との共生は難しいので 自分だけで行ってくださいとなります 人間は嘘をつけば不快な気持になるので できるだけ嘘はつかない方が良いのは自分のためです 私は他人の嘘を指摘しても自分の不利益になるなら 指摘しない方が良いと思います CはAの完全主義が受け入れられなかったので指摘したと思います 同じ穴のムジナではないと思います ひ‐てい 【否定】 [名](スル) 1 そうではないと打ち消すこと。また、非として認めないこと。「うわさを―する」「暴力を―する」⇔肯定。 2 論理学で、ある命題の主語と述語の関係が成立しないこと。また、その関係を承認しないこと。⇔肯定。 3 ヘーゲル弁証法で、発展の契機の一。→否定の否定 4 文法で、打ち消しの語法のこと。 5 論理演算の一。入力と出力を逆にする演算のこと。入力が「真」または「1」ならば出力は「偽」または「0」となり、入力が「偽」または「0」ならば、出力は「真」または「1」となる。NOT(ノット)。コンピューターでこのような演算を行う論理回路においては、電流が流れる場合を「真」、流れない場合を「偽」と対応させ、NOT回路などと呼ぶ。 批判とは、何かに対して良し悪しを判断、評価すること。欠点を直すように促すこと。間違いの指摘。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.8です。 ★(No.11補足欄) B は話したい事は話しますが隠したい事は嘘を付いてでも隠し通そうとします。 ☆ B は このような自分の主義を A に話して明らかにすればよいと考えられます。 A に問い詰められたとき B は 自分の行き方として 互いに話をしている場合これこれの話題は話したくないものがあるとか 一定のところまでは話すがそこから先は明らかにしたくない場合があるといったふうに A に対してこたえればよいわけです。 (ウソをついて事実を隠したりねじ曲げたりするのは あとあと誤解を生むことになるので 一般には 避けるのがよいと考えられています)。 それに対して A は 自由にその B の態度を受け容れるか それとも それならもういままでどおりにはつき合えない・つまりあいまいに応答するだけの友だちになると言うか どちらかを選択するでしょう。 このかぎりで C はまだお呼びではありません。局外にあります。(首をつっこむ自由はあります)。 B がもし A に対して何も自分の思想について答えないまま ことを済まそうとするのなら そしてその価値観を C が同じく共有するのなら この B と C とはその意味で同じ穴のムジナだとなると考えられます。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
少し具体的になりました。 とすると、Aが正論ではないでしょうか。 嘘、偽りは、正しいとは言えないからですね。 たとえば、 サンタクロースは夢がある残すべき伝統であるとしても、 子どもに嘘をつき、騙しつつけることになるのではないかということがあるので、 嘘、虚偽がある以上、批判されるのはしょうがないでしょう。 批判に理由があるので、Aが正論、Cが自己矛盾となります。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
もっと立場や内容が具体的でないとなんとも言えません。 「人の生き方なんて人それぞれである」ことには、公序良俗、道徳、社会通念から逸脱していない前提がありますね。 その上で人の生き方というのは、その人の人格や人権にも結びつく面がありますのでAのBへの否定が社会通念から逸脱するいわゆるハラスメントに当たるならCが正論となるでしょう。
- keiser
- ベストアンサー率30% (22/71)
Aは人を批判する。Bは批判しない。ゆえにAはBを否定する。 はあっていますか? CはAにBを否定するなという。それをAはCの誤りだというんですよね。 単純化して Aは1+1=2という。Bは1+1=3という。したがってAはBを否定する。 Cは1+1=2であっても、1+1=3を否定できないという。 数学的に言えばAがただしく、Cが間違っている。 しかし、Aのせりふが、「俺は批判するがされたくない」という意味であったら、それはただのわがままでしょうなw
A「おまえ、このまま引きこもりを続けてどうする!」 B「だって、みんなぼくのこと嫌いなんじゃないかって・・・」 C「人の生き方なんて人それぞれなのだから、B君を否定するのはおかしいんじゃない?」 ・・・沈黙・・・ F「でもね、世界をそんなふうに決めつけているのは、B君自身なのよ。」 G「人は、与えられた物差しを信じていて、その物差しで測ろうとする。」 ・・・沈黙・・・ B「ぼ・・・ぼくは、ぼくのままでいたい。」 B「ぼくは、ここにいてもいいんだね。」 ABFG「シンジ君おめでとう。じゃなかった、B君おめでとう。」 ・・・すべての人に、おめでとう・・・ このヴァージョンでは、Cだけが異世界の人物になります。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 真っ当に生きている人間 A、B ☆ という前提があります。なら――それでなくても そうなのですから―― 互いに自由にその思想(生活態度から始まる世界観)を批判しても問題はないと考えます。 ★ 生き方を否定する発言 ☆ も むろん 自由です。 そのとき C は・そして B も A の否定する議論の中身について批評し ときには否定で応じることがあって 何ら問題ありません。 別の見方をするなら こうです。 つまり 仮りに誰かが ほかの人の生き方を肯定したとする場合です。そういう場合も もし肯定する論拠としての内容がおかしければ それについても反論し返して かまわないわけです。 結論として 批判の内容が問題になると考えます。批判することに問題はないのではないでしょうか。 ちなみに その批判の内容が 問題提起しているようなものであるなら それを聞いた B にしても黙っているとすれば そのほうが C とともにわるい場合の《同じ穴のムジナ》になると考えます。つまり C が批判の中身について何も触れないで A に対して 他人の生き方を否定するなかれと言うだけだとすれば のことです。
- 雪中庵(@psytex)
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その「生き方」というのが社会体制(主義)や世界観(宗教)も含むもの なのか、個人的な趣味・嗜好の範囲なのかによって異なります。 個人的な行動の選択の範囲にとどまる「生き方」ならば、人類の 社会性は多様化を前提とした分業によるので、その個人の選択の 範囲を出ない限り、否定する必然性はありません。 一方、その「生き方」が、社会体制や宗教など、社会全体のあり方 にまで及ぶものである場合、世界は1つしかない以上、排他的に ならざるを得ません。 国を分けるか、民主主義的に議会制で争うか、いずれにしても「批判」 せざるを得ません。
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補足
皆さん返答有り難うございます。 少し詳しく書きます。 AのBに対する批判というのは簡単に言うとAが考える道理をBが歩まなかった事だとCは考えています。 Aは何でもオープンな性格ですがBは秘密主義。 Aはどんな嘘も許さない完全主義者ですがBは付いていい嘘と悪い嘘があると考える臨機応変な人間。 Aは頭の回転が早く弁が立ちBはおっとりしていて口下手です。 Aはオープンな性格なので友達のBに何でも話します。 Bは話したい事は話しますが隠したい事は嘘を付いてでも隠し通そうとします。 Aはある日Bの嘘に気付き貯まっていた鬱憤が噴出します。 「私はBに包み隠さず何でも話してるのにBは何でもは話してくれないし、その上嘘まで付いて隠し事をしていた。いい加減にしろ!」と。 しかしCはBに非が有るとは思えません。AとBの生き方が違うだけでだと考えました。 そこでCはAに言いました「人の生き方なんて人それぞれなのだから、それを否定するのはおかしいんじゃない?」 するとAはこう反論しました 。 「人の生き方を否定するのも私の生き方だ。それを批判するのはおかしいんじゃない?」