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川端康成の掌編小説「神います」から問いを探る
- 川端康成の掌編小説「神います」には、人が人を不幸にすることや傷つけることについての論点が含まれています。
- また、その傷つけた者が赦しを求めることや赦しを求める心についても問われています。
- 川端康成が描く物語には、不幸や傷つけによって人間の心がどのように動くのかが問いかけられています。
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まだ回答がついていないようですので、初回答の栄誉に浴したいと思います。 ブラジュロン様、興味深いご質問ですね。 わたしのケンカイとしては、 人間は普段から傷つけあうことをやっています。 それが下界の現状です。 川端の理想世界のみでそういった奇跡のようなことは実現するのでしょう。神に祝福された美しい心の人間達、彼らの間では当然ながら傷つけあうことはないし、たとえ下人に傷つけられたとしてもいずれ癒されて、なかったかのように忘れ去られる。たとえ、殺されてもイエスのように蘇り、天国へ向かうことが出来る。そういうことを言っているのではないでしょうか。 私はいつも単純化してしまう癖がありますが、こういった単純化は間違っていましょうか?
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- kurinal
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B様、どうも。 >「人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。うんぬん とつづく《彼》の思いが来ます。そこで《赦す・赦さない》という問題も触れられていますが ★ 「神、ゆえに、許(赦)してくれ!?」 ☆ といった視点とは別だと言ってよいでしょう。そんなことは言っていないはずですよ。 それに なお触れるなら 《彼》は それまで自分のおこなったことは到底ゆるされないと思っていたのですから。」 だからこそ、神に「丸投げ」しちゃった、というように、見えるんですよね。 >「《彼》は それまで自分のおこなったことは到底ゆるされないと思っていた」 この「それまで」の、「それ」について、御詳解ください。
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ だからこそ、神に「丸投げ」しちゃった、というように、見えるんですよね。 ☆ いえ これは そうではなく きちんとはっきりしています。 何よりも先に 《夫に負んぶされた若い妻の足が 夫の腕よりも小さかった》その光景を見て――そしてむろん そこまでの会話やいきさつを踏まえてですが 特にはその光景を見て―― ふと 《神います》という言葉を言い出しつつ むしろしっかりとした感覚をおぼえた。ということにあるはずです。 つまり それまで いちいちねちねちと あぁ わたしは あの少女にわるいことをしてしまったという罪の意識と後悔の念とを持っていた。そのもやもやとしたわだかまりの心が 一気に晴れた。ということだと思います。そういう感覚です。 すなわちそのあと 心のわだかまりやら何やかやを ★ 神に「丸投げ」しちゃった ☆ のではないはずです。《一気に晴れた》時点で すべては決まったと言っているのではないですか? むろん 主観としての心の問題であり そのようなヒラメキのごとき《一気に晴れた》出来事について 誰にも分かるように(つまり おのれの主観が共同性を持つように)説明しているかと言えば 必ずしもそうではありません。 説明していることは どのようにして《心が晴れた》かではなく そうではなく心が晴れたというその内容についてだけです。 すなわち その感覚の内容をさらに――そのわだかまりをほぐして もつれを解くようにして――みづからに明らかにしています。 ▲ (川端) ~~~~~~~~~~~~~ 自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。 身の程を知らない考へであることが分つた。 人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。 彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。 傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。 人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ です。 どうしてそのように心の中身が変わったのか? 何でそんな出来事が起こったのか? これについては 説明していません。主観であるに過ぎず 或る種のヒラメキのような出来事だと言っていることにしかなりません。 つまり この《なぜ心が晴れたのか?》という問いには答えていないのですから その点をうたがうことは出来ます。しかも その《なぜ?》を別とすれば 《彼》の心の中に起きたことは いま引用したような内容だったと言っています。 つまり ひとつには このように何故起きたかの説明のない出来事をうたがって あとは放っておくか それとももうひとつには その出来事は ヒラメキのようなものとして受け容れて 《神よ 余は御身に負けた》という表明の内容をみづからが解きほぐして語ったようにそのまま受け留めるか どちらかひとつになるのではないでしょうか・ 前者の場合には したがって ★ だからこそ、神に「丸投げ」しちゃった、というように、見えるんですよね。 ☆ という反応は出て来ないはずです。言ってみればその出来事においては 《すべてをすでに神に丸投げさせられ終えてしまっていたのだ》と知ったと言っているのですから。 つまりそのヒラメキが起きたあと では それまで悩んでいた問題をすべて神に丸投げしてみようかなと思ったわけではありません。そうではなく もうあれこれ考える余地がない状態にまでみちびかれてしまっていたと言っています。 ★ ~~~~~~~~~~~ >「《彼》は それまで自分のおこなったことは到底ゆるされないと思っていた」 この「それまで」の、「それ」について、御詳解ください。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ かつての少女すなわちその今の若い妻の足の小ささを見たときを境として それまでとそれからとです。そこで 地割れが起きました。あるいははっきりと地滑りが起きて 断層が出来ました。さらに考え悩み続けるかとか あるいは 何ものかに丸投げしてしまおうかなどを考える余地がなくなりました。
- kurinal
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bragelonneさん、こんばんは。 「神、ゆえに、許す(赦す?)」は、信教の自由だが、 「神、ゆえに、許(赦)してくれ!?」とは、信教の自由を逸脱する可能性が高いのでは。
お礼
くりなるさん こんばんは。 ちょっと違うと思いますよ。 川端が作者として言おうとしていることは 《神います》 という言葉で主人公の《彼》がその心に感じたことです。すなわち 《神よ 余は御身に負けた。》 です。 《赦す・赦さない》とはおそらく別の《われがわれに還ったその心の状態》を言っているのでしょう。 そのあとに 人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。うんぬん とつづく《彼》の思いが来ます。そこで《赦す・赦さない》という問題も触れられていますが ★ 「神、ゆえに、許(赦)してくれ!?」 ☆ といった視点とは別だと言ってよいでしょう。そんなことは言っていないはずですよ。 それに なお触れるなら 《彼》は それまで自分のおこなったことは到底ゆるされないと思っていたのですから。
- Tefu_Tefu
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こんばんは >《お信地蔵》は 思想内容としていただけないと判定しました。よ。 果たしてそうでしょうか?私は同じものだと思いますが 彼は 栗の樹の下にあるお地蔵さんを観て そして 山の男達がそのお地蔵さんを大事にしていることを観て この物語を考えたのだと思います 彼の小説では 女性のありのままの姿が生き生きと描かれます 普通の人にとっては ただの女性なのかもしれません そんな女性達でも 男性にとっては無くてはならない 愛おしい存在なんだと云うことを 鮮明に 男性からの「ありがたい」「眩しい」「愛すべき」存在として捉えたんだと思います 栗の木の下のお地蔵さんは 栗の花の独特な臭いに包まれ 毬栗が落ちてくると云う 世の中の 要らない 薄汚れた存在に観える でも 本当は全く逆の存在なんだ と云いたいのだと思います そうすることにより より女性を崇高な存在として描きたかったのだと思います 男性が世の中に流され傷つけられた女性を「愛おしい」と捉え優しくする姿に そう云う女性だからこそ素直に喜べる姿は 美しいではないですか? 私は 彼が純粋な観方を捨てなかったことにより 物事の本質を捉える事ができたのだと思います 彼にとって 全ての事象を真、善、美として捉えたかったのだと云うことです 話の内容は忘れましたが『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』いずれも日本人の美しさを描いた作品です
お礼
てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 彼の小説では 女性のありのままの姿が生き生きと描かれます 普通の人にとっては ただの女性なのかもしれません そんな女性達でも 男性にとっては無くてはならない 愛おしい存在なんだと云うことを 鮮明に 男性からの「ありがたい」「眩しい」「愛すべき」存在として捉えたんだと思います ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで――再反論になりますが―― 片や 女性一般とそして片や 《わたし》にとっての特定の女性とは 別だという視点が必要だと考えます。 男のワタシにとって 女性一般が《ありがたい・まぶしい・愛すべき存在》だとしても 自分にとって特別な関係の特定の(つまり ひとりの)女性とは まったく別です。 それは 生き方にかかわります。実存のかたちとして 特別の相手とその他の女性とでは 別になります。(実存一般としては 同じですが 要するに連れ合いになるような相手とは 互いに卑小なおのれをも含めた存在の全部を受け容れます。その他の女性一般に対しては 同性に対するのと同じ実存の姿勢で 相対します。むろん人格の全体でなのですから 存在の全部だと言えばそうなのですが それを受け容れるまでの姿勢はなくてよいし ないのだと考えます。そのように 区別が成ると考えます)。 ★ 男性が世の中に流され傷つけられた女性を「愛おしい」と捉え優しくする姿に そう云う女性だからこそ素直に喜べる姿は 美しいではないですか? ☆ 文学作品としてそのようにうつくしい姿にえがかれているとしたとしても 哲学は 別だと思います。 若者たちのあいだに 必ず違和感をおぼえる者が出て来るものと思います。小説では出て来なかったわけですが。 そのような《異分子》が出たという場合を では えがくならどうなるか? こういったところに小説家としての腕の見せ所があるのではないかと考えます。しかも 哲学にもかかわるものと思います。 ★ 話の内容は忘れましたが『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』いずれも日本人の美しさを描いた作品です ☆ これにしゃれたお応えをしえないでいます。
- NemurinekoNya
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いま、ふっと思いついたのですが、 《方生の説》は、一種の弁証法的思弁なのですね。 《正・生》⇔《反・死》 《合・一》が《気(き)》になるという図式なのですね。 《生》と《死》の矛盾が、《一・気》によって解消されると考えればいいわけですか。 にしても、 この《彼此、方生》を読み、龍樹を思い出すのは、僕だけなのだろうか。 似てますわね~、荘子と龍樹は。
お礼
つづいてです。 ねむりねこさんが 荘子なら荘子の中に 龍樹なら龍樹を読み込んでいるというように思えてしまうのですけれど 中国思想への偏見から来るものでしょうか? ぶっきらぼうですみません。
- NemurinekoNya
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こんばんはです。 ☆ どうもこの回答者は 中国の人ではないかと思います。息の音( / h / )が入るか入らないかの有気音か無気音の区別だけであって 有声音つまり濁音がないので 無気音だと見なした場合には クセによって《有声音=濁音》で平仮名を書いているのだと思います。 ◇ということには、頭の中で文章の修正を行っていたらしく、まったく気づきませんでした。 プロフィールを拝見したところ、どうやら、この方は中国のお人のようです。 ☆ 《見た目がドクロとなり今は死んでいるように見えますが》と言っても じっさいに《死んでいる》ぢゃないの? としか思えないのですが。何でいまは《生きている》と言えるのでしょう? ◇ドクロが話かけるという現実ではありえない寓話ですので、突っ込まれると弱ってしまいます(苦笑い)。 なのですが、これに関係する『荘子』の超有名な箇所をご紹介します。 ───────── 〔万物斉同〕すべてのものは、彼れと呼びえないものはなく、是れと呼びえないものはない。それなのに、なぜ離れているものを彼れと呼び、近いものだけを是れと呼ぶか。離れている彼れの立場からは見えないことでも、自分の立場で反省してみれば、よく理解することができる。だから、身に近いものを是れと呼んで親しみ、遠いものを彼れと呼んで差別しているにすぎない。だから、次のように言える。彼れという概念は、自分の身を是れとするところから生じたものであり、是れという概念は、彼れという対立者をもとにして生じたものである。つまり、彼れと是れというのは、相並んで生ずるということであり、互いに依存しあっているのである。しかしながら、このように依存しあっているのは、彼れと是れとだけではない。生と並んで死があり、死と並んで生がある。可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是に並んで非があり、非に並んで是がある。すべてが相対的なものにすぎず、絶対的なものではない。だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、これを差別という人為を超えた自然の立場からものを眺めるのである。このような聖人は、是非の対立を超えた、真の是に身を置くものといえよう。 もしこのような自然の立場、相対差別という人為を超えた立場から見れば、是れと彼れとの区別はなく、彼れと是れは同じものになる。たとえ是非を立てる者があったとしても、彼れは彼れの立場をもととした是非を立てているにすぎず、是れの是れの立場をもととした是非を立てているにすぎない。それに、もともと彼れと是れという絶対的な区別がはたして存在するのか、それとも、彼れと是れとの区別が存在しないのか、根本的に疑問ではないか。このように、彼れと是れとが、その対立を消失する境地を、道枢という。枢――扉の回転軸は、環の中心にはめられることにより、はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場に立てば、是も無限の回転を続け、非もまた無限の回転を続けることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。だから、「明らかな知恵をもって照らすのが第一である」というのである。 http://www.geocities.jp/sei_taikou/soushi_2.html ───────── 俗に《彼是、方生の説》、《方生の説》と呼ばれる超有名な箇所です。 原文は非常に難解です。 ───────── 物無非彼,物無非是。自彼則不見,自知則知之。故曰:彼出於是,是亦因彼。彼是,方生之說也。雖然,方生方死,方死方生;方可方不可,方不可方可;因是因非,因非因是。是以聖人不由,而照之于天,亦因是也。是亦彼也,彼亦是也。彼亦一是非,此亦一是非。果且有彼是乎哉?果且無彼是乎哉?彼是莫得其偶,謂之道樞。樞始得其環中,以應無窮。是亦一無窮,非亦一無窮也。故曰「莫若以明」。 http://ctext.org/zhuangzi/adjustment-of-controversies ───────── 《彼是,方生之說也》が《方生の説》の語源です。 言葉遊びといってしまえば言葉遊び、論理を弄んでいるといえば、論理を弄んでいますが、 《彼と是》、《生と死》は二項対立であるので、《彼》、《生》と言った瞬間、《是》、《死》が同時に派生する、生まれる、 なので、《生》とともに《死》が生まれる、 「方生方死」となるのだそうです。 少し文学的な表現をしますと、 「生はその中に死を含み、死は生を含む」 となりますでしょうか。 わたしは、こういった誤解を招く表現を好みませんけれど・・・ なお、 《方生》の《方》の意味は、 ───────── 方 ピンインfāng ((文語文[昔の書き言葉])) 1 今まさに,ちょうど,あたかも.≦正. 用例 形势方在变化发展中。=情勢は今まさに変化発展中である. http://cjjc.weblio.jp/content/%E6%96%B9 ───────── 真偽は定かでないのですが、聞くところによりますと、 《方生の説》は、荘子のお友達、大親友の《恵施・恵子》の説だそうで、その説を荘子が応用した と言われているようです。 この他に有名なところですと、 ───────── 生也死之徒,死也生之始,孰知其紀!人之生,氣之聚也,聚則為生,散則為死。若死生為徒,吾又何患!故萬物一也,是其所美者為神奇,其所惡者為臭腐;臭腐復化為神奇,神奇復化為臭腐。故曰:『通天下一氣耳。』聖人故貴一。 『荘子』・外篇 知北遊 http://ctext.org/zhuangzi/knowledge-rambling-in-the-north ───────── 意味は、 「生は死のお友達、死は生の始めなのよ。誰がその始まりを知るのよ。〔誰も知らない!!〕人の生は、気の集まり、〔気が〕集まれば生となって、気が離散すれば死となる。もし死生をお友達とするならば(考えるならば)、我々は、いったい、何を憂えるのよ。 だから、万物は一つなのよ、その美(よ)いところが神奇(人知を越えた不思議なもの)となり、悪いところが臭くて腐ったものとなる。臭くて腐ったものもまた神奇となって、神奇もまた臭くて腐ったものとなるのよ。───ただ気が循環するだけ─── だから、 『天下(あめした)のものはすべて一つ〔の気に還元される〕』というのよ。 だっけ、聖人は一を貴(とうと)ぶのよ。」 といったところでしょうか。 荘子とドクロのお話は、 ───────── 〔荘子、髑髏と語る〕荘子が楚に行き、空の髑髏を見た。風雨にさらされて、骨だけしかない。馬の鞭でこれを叩いてから、髑髏にいった。 「あなたは悪事を行って、このようになってしまったのか」 こういい終わると、髑髏を引き寄せ、枕にして寝た。夜半、髑髏が夢に現われていった。 「あなたの論は弁士にそっくりだ。死ねば何も残らない。あなたは死のことを聞きたいか」 「ききたい」 「死ねば上に君が無く、下に臣が無い。のびのびとして天地を春秋のように楽しめばいい。南面する王の楽しみでも、これに及ぶものはない」 荘子は信じないでいった。 「わたしがあなたを生き返らせるとすれば、あなたは欲するか」 髑髏は眉をひそめ顔をしかめていった。 「どうして南面する王の楽しみを捨てて、また人間の苦労を味わおうか」 http://www.geocities.jp/sei_taikou/soushi_18.html ───────── ちと、気の循環による死生同一説に反しますが、 生を一方的に好いものとし、死を悪しきものとする考えを捨てちゃいなさい。 生死の違いにこだわるな、 と言いたいのではないでしょうか。
お礼
漢文と言いますか 古典となっているような中国人の思想 これらからわたしは ゆえなく遠ざかって来たのですが たしかに何故かわたし自身の思想からは遠いと 今回思えるように感じました。 まづは ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 陰陽といった物の元を立てるとか またそこから世界についての分析的認識を打ち立てて行くとか それとして論理的なところもあるのでしょうし たとえ文学に片向いたとしても それなりに風情があったり現代人にも通じるところもあるのでしょうが どうもわたしには なじまないような感じがします。 ◇ 言葉遊びといってしまえば言葉遊び、論理を弄んでいるといえば、論理を弄んでいますが、 ☆ まづこの理由が 大きいと思います。 なじめない理由の第二は 必ずしも全体観を語っていないと思われることです。 ▲ 万物斉同・生死斉同 ☆ と言いますが 例の《色即是空》と同じであって この認識のあとあらたに《空即是色》という補いが 現実論として・また全体観として 添えられることになっていなければおかしいのではないか。これです。 つまり 万物斉同や生死斉同と言ったそのあと ただし現実には 是があってそれとは別の彼があるということ 生があるのであって それは死とは別だと言うということ これが必要だと思いますね。 《斉同》のままに放っておくのは やはりおかしい。一面的な議論だと思います。 三つ目に ドクロが話をするというのは 荘子の主観なる世界において かれが独りでいわば問いと答えを繰り返す思惟なのだと捉えます。 それはそれで 思想の表現形態としてあり得るとは思います。 四つ目には その問答を繰り広げる独語録の内容は いただけないように感じます。《アマテラス公民がスサノヲ市民を見下ろすときの上からのマナザシと そのマナザシを受けるスサノヲといった〈マナザシ連関〉》が有るか無いかで 生と死との区別にあてはめて ああだこうだと議論している。というように感じます。 五つ目には ◇ 『天下(あめした)のものはすべて一つ〔の気に還元される〕』というのよ。 ☆ だとしたら この《気》についてさらにさらに現実に即した分析を展開し 世界観〔の一環〕とすることがのぞまれます。現実と連動させるというところが 重要だと思われます。 信仰からヒラメキから あるいは世俗的なクウキの問題から 幅広い議論とそれとしての理論も――この《気》学から――得られるかも分かりません。《気》という一元と見るのではなく 人間関係として見るなら 《マ(間)》の理論にも成りうるとも考えられます。 どうも素直に受け留められないそのままを 反応しました。 中国人のまじめな思想ってあるんでしょうか。
- NemurinekoNya
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いけない、またポカをやってしまいました。 NO7ではなく、NO8です。
お礼
了解。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
NO7を少し訂正します。 【訂正前】彼の生前の時とは異なり今は本当の意味で《生きている・you are alive》のでしょう。 【訂正】彼の生前の時とは異なり今は《生きている・you are alive》のでしょう。 《本当の意味》は《本当は》は余計ですね。 この言葉を付け加えると、厄介になりそうなので、除いてください(ペコリ)。 その方が賢明です。 ここはボカすべきところです。
お礼
つづいてです。 文や語句の読み取りもそうですが どうも思想としても わたしには 意味が採りにくいように思えます。 生死斉同 とすれば分かるように見えますが その思想をどのようにみちびているのか。分かりにくいと思います。 ◇ (回答No.8)~~~~ たぶん、 このドクロは、見た目がドクロとなり今は死んでいるように見えますが、彼の生前の時とは異なり今は本当の意味で《生きている・you are alive》のでしょう。 でないと、話がつながりません。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ 《見た目がドクロとなり今は死んでいるように見えますが》と言っても じっさいに《死んでいる》ぢゃないの? としか思えないのですが。何でいまは《生きている》と言えるのでしょう? No.8のほうに書き込んでいればよかった話になりますが。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
こんばんはです。 中国語カテで教えていただきました。 「唯予與汝知而未嘗死,未嘗生也。」 は 「私と貴方だけ知っている、貴方は本当の意味で生きでないし、まだ本当の意味で死んでない。」 らしいです。 http://okwave.jp/qa/q8200626.html 知るの目的語は、省略されていますけれど、 「(汝)未嘗死,未嘗生也」 となるようですね。 そして、 「而」は、順接(?)の接続詞ということになるのでしょう。 「本当の意味で」がどこから出てくるのか知りたいところですが、 この意味ですと、非常にしっくりします。 なのですが、 ここは 「〔汝〕、いまだ嘗(かつ)て死なず、いまだ嘗て生きず」 と訓読すべきところなのでしょうね。 「you are not dead, and that (aforetime) you were not alive.」 の意味に解釈するべきなのでしょう。 で、 たぶん、 このドクロは、見た目がドクロとなり今は死んでいるように見えますが、彼の生前の時とは異なり今は本当の意味で《生きている・you are alive》のでしょう。 でないと、話がつながりません。 《未嘗》の用例としましては、 ───────── 尝(嘗) ピンインcháng ((文語文[昔の書き言葉])) かつて,以前に.≦曾经. 用例 未尝见过=いまだかつて会ったことがない. 何尝不想去((型))=(反語)どうして行きたくないものか. http://cjjc.weblio.jp/content/%E5%98%97 ───────── ☆ なんで《百年》と分かるのでしょう? ただ古いと言っているのでしょうか。でも分かりますか? ◇百年は、古いということを示す文学的修辞だと思います。
お礼
しっくり来ましたか。 わたしは まだです。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ● 「私と貴方だけ知っている、貴方は本当の意味で生きでないし、まだ本当の意味で死んでない。」 ☆ どうもこの回答者は 中国の人ではないかと思います。息の音( / h / )が入るか入らないかの有気音か無気音の区別だけであって 有声音つまり濁音がないので 無気音だと見なした場合には クセによって《有声音=濁音》で平仮名を書いているのだと思います。 ● 未嘗生: 貴方は本当の意味で生き≫で≪ないし → ・・・生きてないし ● 未嘗死: ま≫だ≪本当の意味で死んでない → また 本当の意味で死んでない だと思います。 すなわち 《ドクロのあなたは いまだ嘗て生きていないし また いまだ嘗て死んでいない》。 でも意味を取るのに苦労すると思うんですが しっくりしましたか?
- Tefu_Tefu
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こんばんは ブラジェロンさん よかったですね 日本に川端康成さんのような人がいて 私は彼の綺麗な日本語による純粋な文学こそ 日本の神だと思いますが 彼の中で創造された神は 言霊となって 彼の小説で日本語という言葉により日本人の美しさを表しています 日本人が彼の小説を手にして読めば そこに神がいるのです それ程 彼が神を求めていたのかもしれません いや 彼は神を観ていたのでしょう 彼の心には 観た事全てが神の行いに思えたのでしょう 私は彼が彼の観た神のもとに逝かれたことを信じます 人間は誰もが未来を想像して生きています 常に彼のように神を観ることができる人は幸せな人だと思います 殆どの人は 神を観たとしても一瞬です むしろ 無に苦しむのかもしれません この世界で人間の想像が他の生き物に劣らないことを願っています(の´v`の) あっ 何故 彼に神が観えたのかって? それは 彼の心が神であったからです
お礼
てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 えらく川端に入れ込んでいらっしゃいますね。 この一編は すなおによいとわたしも思いますが もう一編の《お信地蔵》は 思想内容としていただけないと判定しました。よ。 まぁ 《神います》という感覚は すなおな表現で 現実味があると思います。妻をおぶった鳥屋を見送ったときに その妻の足の小ささに 何かを感じたのでしょうね。いちいち面倒なことを考えることなど何もない。といったヒラメキのような・さとりのような。 神の霊がやどる。または ブッダター(仏性・自性清浄心)がやどる。といったことを思わせてくれるようです。 感想だけで終わっちゃった。
- NemurinekoNya
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おはようございます。 『荘子』のこの箇所の英語訳を見てみたのですが、 ───────── 列子行食於道,從見百歲髑髏,攓蓬而指之曰:「唯予與汝知而未嘗死,未嘗生也。若果養乎?予果歡乎?」 Liezi (once) upon a journey took a meal by the road-side. There he saw a skull a hundred years old, and, pulling away the bush (under which it lay), he pointed to it and said, 'It is only you and I who know that you are not dead, and that (aforetime) you were not alive. Do you indeed really find (in death) the nourishment (which you like)? Do I really find (in life my proper) enjoyment? http://ctext.org/zhuangzi/perfect-enjoyment ───────── とありまして、 ますます混乱しております。 この英訳にしたがいますと、 「お前(どくろ)さんが死んでいないこと、そして、(かつて)生きていなかったことを知るのは、俺(列子)とお前だけだ。」 となります。 ───接続詞《而》は無視しているようです─── そして、 「お前さんは、(死の中に、お前さんが好きな)《(栄)養or(滋)養》があると思うのかい? 俺は、(生の中に俺の程よい、適切な)《歓び》があると思うのかい? (な、わけはないだろう!!)」 専門家でも、分からないようです、 列子のこの部分の言葉の意味は。 ~~~~~~ ☆ 1.《與》は 《汝》にかかって 《汝‐と共に》の意ではないのですか? 2. 《唯》の意味が分かりません。《唯だ予は 汝と‐のみ〔知る〕・・・》なのでしょうか? あるいは 《唯だ予は 汝とともに〔死および生を〕知る‐のみ・・・》でしょうか? ~~~~~~ 2だと思います。 《唯だ予は 汝とともに〔死および生を〕知る‐のみ・・・》であるとすれば、 予與汝《唯》知而未嘗死 になると思います。 ☆3. 《いまだ嘗(かつ)て死せず》は 《汝》なる髑髏にしてみれば矛盾しているのでは? ◇矛盾しています。ですから、これは列子について当てはまる、と考えています。 ☆4. 《いまだ嘗て生ぜずなり》は 《汝》にしても《予》にしても やはり矛盾するというように思えるのですが? ◇これは、ドクロについて当てはまる、と考えています。ドクロは、生まれ(変わってはいない)けれど、生成の秘密を知っている、と私は解釈しました。 なので、列子とドクロともに、生死を知るとなるのではないでしょうか。 列子は生きているので《生》を知っているし、ドクロは死んでいるので《死》を知っているからです。 ☆5. 矛盾することを承知で その生と死とを言わば超越しているのだぞと言うのだろうか? ねらいは 何か? ◇狙いは、荘子の死生観、つまり、《生死斉同》、《生死一体》、《生死同一》とかを言おうとしているのでしょう。 そのことを、《気・き》の循環の観点から、後に続く文章をもって説明しているのだと思います。 生は気の凝集であり、死は気の離散にすぎない。死によって離散した気もいずれ凝集して、新たな生となる。 そのようなことを言いたいのではないでしょうか。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ◇ 〔英訳は〕 ───接続詞《而》は無視しているようです─── ☆ と思いますね。 つまり ▲ 唯予與汝知而未嘗死,未嘗生也。 ◇ ~~~~~~~~~~ 2. 《唯》の意味・・・。《唯だ予は 汝と‐のみ〔知る〕・・・》 だと思います。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ において そう捉えてのち 《而》が来ていますから いったん文意が切れていると思われます。 つまりたとえば 切れていない場合には 例の法華経の文が思い浮かびます。 ● (妙法蓮華経方便品第二) ~~~~~~~~ 唯仏与仏乃能究尽諸法実相 唯 仏と仏とのみ 乃(すなわ)ち能く諸法の実相を究め尽くせばなり。 (坂本幸男・岩本裕訳=岩波文庫版1962。1976改版) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 乃(すなわち) でつながれています。 ちなみにこちらの文のほうで なんで日本語訳が《仏〈と〉仏とのみ・・・》となるのでしょうか? つまり初めの《仏》は 主語であって《仏は(仏が)仏とのみ》となるのではないのでしょうか? ◇ 列子は生きているので《生》を知っているし、ドクロは死んでいるので《死》を知っているからです。 ☆ ドクロの心を列子は 分かるということなのでしょうか? あまりにも主観的すぎませんか? ◇ ~~~~~~~~~~~~ 狙いは、荘子の死生観、つまり、《生死斉同》、《生死一体》、《生死同一》とかを言おうとしているのでしょう。 そのことを、《気・き》の循環の観点から、後に続く文章をもって説明しているのだと思います。 生は気の凝集であり、死は気の離散にすぎない。死によって離散した気もいずれ凝集して、新たな生となる。 そのようなことを言いたいのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ その説については いちおう分かりましたが 列子の文章ないし議論からは みちびかれて来るとは思えません まだ。 ▲ 從見百歲髑髏: 百年も経とうかという髑髏を見つけた。 / he saw a skull a hundred years old ☆ なんで《百年》と分かるのでしょう? ただ古いと言っているのでしょうか。でも分かりますか? たとえば 《これはまだ割り合いあたらしいサレコウベであるかも分からないが 一たんドクロとなっているからには 死を知っている。そして ただし まだ生まれ変わってはいない。・・・》というふうに議論をすすめるなら まだついて行けます。 そう言えば そのドクロを見ただけで その人間が――仮りに出来るとして――まだ生まれ変わっていないと どうして知り得ましょうか? 推論が 身勝手です。
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お礼
そうですね。ずばり こちらからの見解を述べてみます。 その前に こまあす88さん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。 趣旨説明欄にかなり述べてもいますが 次のおぎないをしたほうがよいと考えました。 《心が傷つく。傷つけられる》には けっきょく心理的なその場の一時的な上っ面の怒りや悔しさや〔相手が間違っていると分かっていても 反論することも出来ない場合に感じるような〕悲しさをおぼえて 心が深く傷つけられたと感じること これはあります。 でもこれは 心の一部だと考えられませんか? 心という海の表面で その場でムッとしたり敵愾心を燃やすばかりに悔しさや恨みをおぼえたりしているのではないかという見方です。 さもなければ・つまりほんとうに心に痛みを感じたり落ち込んだりするときというのは じっさい自分もそのののしりを浴びせて来た相手と同じように 自分の心をあざむきウソをつき何とかその場で恰好をつけようとしていたりしたから そのしっぺ返しによって 自分が自分の心を傷つけた。ということではありませんか? つまり 結論:ひとは 他人のウソ・イツワリあるいは誹謗中傷などによって 心が傷つけられることはあり得ない。 心の表面に 心理的なその場としての波風が立つだけだ。 こちらの心の奥にまで 他人による(他人自身のみづからの心にさからうことから出た)発言や行動の内容が 入って来ることはない。 こう考えるなら イエスだとか理想世界だとかを持ち出すことなく 世界は和解へと進み入るものと思うのですが いかがでしょう。 もちろん 川端も主人公に語らしめていたように 何らかのかたちで《神》のことにもかかわっているのではないかとは思うのですが。《ブッダター(仏性)》と言ってもよいのでしょうし。 いえ。わたしも単純化してしまっているかも知れません。ひきつづき みなさんをも交えて 問い求めが深められるなら 質問者冥利に尽きると思います。さて どうなりますやら。