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川端康成の掌編小説「神います」から問いを探る
- 川端康成の掌編小説「神います」には、人が人を不幸にすることや傷つけることについての論点が含まれています。
- また、その傷つけた者が赦しを求めることや赦しを求める心についても問われています。
- 川端康成が描く物語には、不幸や傷つけによって人間の心がどのように動くのかが問いかけられています。
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まだ回答がついていないようですので、初回答の栄誉に浴したいと思います。 ブラジュロン様、興味深いご質問ですね。 わたしのケンカイとしては、 人間は普段から傷つけあうことをやっています。 それが下界の現状です。 川端の理想世界のみでそういった奇跡のようなことは実現するのでしょう。神に祝福された美しい心の人間達、彼らの間では当然ながら傷つけあうことはないし、たとえ下人に傷つけられたとしてもいずれ癒されて、なかったかのように忘れ去られる。たとえ、殺されてもイエスのように蘇り、天国へ向かうことが出来る。そういうことを言っているのではないでしょうか。 私はいつも単純化してしまう癖がありますが、こういった単純化は間違っていましょうか?
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- NemurinekoNya
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唯予與汝知而未嘗死、未嘗生也 の文は、かなり厄介な文だと思うのですよ。 ただ予(よ・わたし)と汝のみが知れども、いまだ嘗(かつ)て死せず、いまだ嘗て生ぜずなり。 たぶん、書き下すと、こうなると思うのですよ。 で、意味は、 列子は、いまだ死んではないけれども、死を知る・・・ ドクロは、いまだ生まれてはいない、死んで再生してはいないけれど、生を知る・・・ 予と汝と足し合わせて、生死の意味を知る、ということになる・・・ 列子とドクロのセットでないと、マズい・・・ そして、 「而」は、この場合、逆説の意味を表す接続詞・・・。 「未嘗死」は「いまだ死を嘗(な)めず」、「死を味わっていない、経験していない」と考えることもできると思うのですが、たぶん、これは間違い。「未嘗死」は「いまだ嘗て死せず」だと思うのですよ。 わたし、中国語を知りませんから。 理系出身ですので、私の漢文読解力は、極めて怪しいですから、 と最後は逃げる(笑)。 中国語カテで、これを質問してみようかしら(笑)。 ☆《知る》の対象は何か? ◇知るの目的語は、死と生でしょう。 唯予與汝知《死》而未嘗死、知《生》未嘗生也。 だと思います、わたしは。
お礼
ねむりねこにゃさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~ 唯予與汝知《死》而未嘗死、知《生》未嘗生也。 だと思います、わたしは。 ・ 「而」は、この場合、逆説の意味を表す接続詞・・・。 ・ ただ予(よ・わたし)と汝のみが知れども、いまだ嘗(かつ)て死せず、いまだ嘗て生ぜずなり。 たぶん、書き下すと、こうなると思うのですよ。 ~~~~~~~~ ☆ 1.《與》は 《汝》にかかって 《汝‐と共に》の意ではないのですか? 2. 《唯》の意味が分かりません。《唯だ予は 汝と‐のみ〔知る〕・・・》なのでしょうか? あるいは 《唯だ予は 汝とともに〔死および生を〕知る‐のみ・・・》でしょうか? 《人は たとえば髑髏を見れば その髑髏とともに 人間の生死を知ることになる》といった意味だとしても 《唯》がおかしい。見なくても 死者を身の周りの範囲で出したときには 分かるから。 3. 《いまだ嘗(かつ)て死せず》は 《汝》なる髑髏にしてみれば矛盾しているのでは? 4. 《いまだ嘗て生ぜずなり》は 《汝》にしても《予》にしても やはり矛盾するというように思えるのですが? 5. 矛盾することを承知で その生と死とを言わば超越しているのだぞと言うのだろうか? ねらいは 何か? 《万物流転》?――ならば 生まれて生きて死に 死んでは生まれるというふうになる。のでやはり 死せず・生ぜすは 矛盾してしまう。・・・
- NemurinekoNya
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ちょっと知りたいのですが、 現代に生きる中国人の方は、 ドクロに語った列子の言葉、 「唯予與汝知而未嘗死、未嘗生也。」 の意味をとることができるのでしょうか? 試しに、いくつかネットの自動翻訳機にかけてみたのですが、 どれもこれもチンプンカンプンな日本語になっていた(笑)。 現代中国語と古代中国語は違う、といったところでしょうか。 古くさい漢文に慣れ親しんでいる一部の日本人の方が、かえって、古代中国語の文章を分かっていたりして(笑い)。
お礼
つづいてです。 たしかに分かりづらいですね。 検索で一番目に出ているサイトです。 ● (人生朝露) ~~~~~ http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5142/ 『列子行食於道、從見百歲髑髏、攓蓬而指之曰「唯予與汝知而未嘗死、未嘗生也。若果養乎?予果歡乎?種有幾、得水則為、得水土之際則為蛙蠙之衣(中略)青寧生程、程生馬、馬生人、人又反入於機。萬物皆出於機、皆入於機。』(『荘子』至楽 第十八) → 列子が旅をしていた途中で、道ばたに百年も経とうかという髑髏を見つけた。列子はよもぎをむしってこれを指さしながら言った。「私とあなただけが生と死とを知っている。死んだあなたに憂いはあるだろうか?生きる私に歓びはあるだろうか?全ては変化しつづける。種は水の中では水アカとなり、苔となって水底を這う。(中略)豹は馬となり、馬は人となる。そうした変遷を経て人は再び機へと返る。あらゆる万物は機から生まれ出でて、全てが機へと戻ってゆく。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ 《いまだ死を経験しておらず いまだ生を経験していない》? 何だかなぁ。 《知而》の《而して》は どうつながるのか? 《知る》の対象は何か? 《汝》は 髑髏のことですよね。 いやあ 分かりません。 みなさんにお尋ねしたいと思います。
- NemurinekoNya
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こんばんはです。 抄訳で省略されている部分の訳を引用します。 ───────── 子祀はいった。 「きみはそのような体になった運命を憎むだろうな。」 「とんでもない。私がなぜ憎む必要があるのか。この、体の変形が徐々に進行して、私の左腕が変化して鶏となったならば、私はそれに夜明けの刻(とき)をつげさせてやろう。さらに進んで私の右腕が変化してはじき弓となったなら、これでフクロウを射落として焼き鳥にしてくってやろう。もっと進んで私の尻が変化して車輪となり、精神が馬となったら、私はこれを乗りまわしてやろう。そうなれば、もう馬車も必要あるまい。 (中略) これが昔からいわれる、すべての束縛からの解放〈県解〉である。それにもかかわらず自分で解き放たれないのは、その人の心が世間の常識に束縛されているからだ。 そもそもいかなる物も自然のはたらきには勝てないものと、昔から決まっているのに、私がどうして自然がもたらすこの肉体を憎もうか」 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 野村茂夫 『老子・荘子』 角川ソフィア文庫 ───────── 《子與》は運命を肯定的に受け入れ、しかし、厭世に陥ることなく、それを積極活用しよう、その中で精一杯に生きよう、という超~前向きな姿勢が見られるようです。 この本の解説には、このようなことが書かれています。 ───────── ……死を恐れ生に執著することが、運命に逆らう人間の妄執であると説いています。この執著の束縛からの解放、これが〈県解〉です。 本章では人間の運命を支配するものとして、造物者、あるいは造化者を登場させています。これは人格を持つ運命の主宰者、万物を支配する至上神のことではありません。自然の変化そのもの、道のはたらきを擬人化しているのです。この自然の変化そのものを、人の力でいかんともし難い運命ととり、それに随順することによって、いかなる不幸も不幸ともせず笑い飛ばす、たくましい生き方が見いだされます。 (同上書 P198) ───────── 「いかなる不幸も不幸ともせず笑い飛ばす」というのは、ちと違うのではないか、荘子の考えからは離れるのではないか、という気がするのですが・・・ ───────── 〔荘子の妻死す〕荘子の妻が死んだ。恵子が弔った。荘子は両足を投げ出し、盆を叩いて歌っていた。恵子はいった。 「死んで泣かないのは、まだよろしい。しかし、盆を叩いて歌うのは、なんとはなはだしくひどいことではないか」 荘子はいった。 「そうではない。妻が死んだときは、わたしはどうして胸がつまらなかったことがあろうか。しかし、始めを考えてみると、もともと生はなかったのだ。ただ生がなかっただけではなく、もともと形はなかったのだ。ただ形がなかっただけではなく、もともと気がなかったのだ。天地が渾沌であったとき、あらゆるものが入り混じっているなかに変化があって気が生まれた。気が変じて形が生まれ、形が変じて生が生まれた。今、また生から変じて死んだまでだ。これは春夏秋冬が四季の循環を繰り返すようなものだ。人がまさにのんびりと天地という巨大な部屋で寝ようとしているのに、わたしが女々しく慟哭するのは、われながら命に通じていないと思う。故に、泣くのを止めたのだ」 http://www.geocities.jp/sei_taikou/soushi_18.html ───────── 荘子先生、奥さんが亡くなったとき、思い切り、泣いています。悲しくて悲して慟哭しています。奥さんの死を泣き叫んでいます、泣き喚(わめ)いています。 それが人情というもの、悲しければ、涙が出るんです、荘子先生も。 でも、「死とは、そんなに悪いことなのか?」と考えはじめた。 で、「違うんじゃないか」という結論に至った。 この背景には、荘子先生の《萬物齋同・万物斉同》という哲学、思想があることを忘れてはいけない、と思うのですよ。 で、例によって、Wikipedia 万物斉同 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E7%89%A9%E6%96%89%E5%90%8C 《抄録》の〔無為こそ至楽〕に、幸・不幸に関する記述が少しだけ出ています。 ところで、 この《莫逆の友》のお話に、鳥が出てくるんですよ。 偶然なのかいなか・・・ ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ 5. 問題は 男が確かに《傷つけた》という言葉で表わした一定の行為が女に向けておこなわれたという事実 そしてそのことについてその後《女が病気になったのは 自分の為したそのおこないの所為かも知れない》と思ったという事実 これらの事実をめぐって むしろ女のほうは どのように対処したか? どう解きほぐしたか? でしょうか。 ~~~~~~ この女性は、かなり美しい人のようですから、肉体に傷をつけられた時には、かなり精神的なダメージを受けたものと想像できます。 どうやって、克服したのでしょう? もともと超~ポジティブ・シンキングな思考の持ち主で、起きてしまったことをいつまでもくよくよと考える人ではなかったのか、 苦悩の末に、「肉体的な傷は、大したことではない」という結論にいたったのか、 あるいは、単に 現実からの逃避としての方策なのか、つまり、単なる精神の適応行動なのか、 わかりません。 ~~~~~~ 7. 男は この湯場での出来事をとおして 女との関係におけるわだかまりや罪悪感からすっかり吹っ切れて 世間とのそしておのれとの和解が成った。ようである。――女は どうであったか? ~~~~~~ 女の人は、すでに、そうした軛から解き放たれているのでしょう。 しかし、 「この湯場での出来事をとおして 女との関係におけるわだかまりや罪悪感からすっかり吹っ切れて 世間とのそしておのれとの和解が成った」 は、男の主観的な判断です。 湯場での夫婦の様子を見て、 「その心が傷つくことなどはいっさいなかったのだ」 と判断した。 じつは、この女性、表面に自分の苦悩を出さないだけで、本当は自分の容姿を台無しにされたことを深く恨んでいるかもしれないです。深く傷ついているかもしれません。心の傷は、全然、癒されていない可能性だって大有りです。 私の目には、この男は、エラく《身勝手な》人間に映ってしょうがないです。 結局、救われたのは、この男。 「いいんか、これで」と思っています。 ~~~~~~ 9. 質問者は 一方で上っ面の心理的な動きとしては 怒りや恨みなる波風をみづからも立てたが 他方でそれはあくまで海の表面のそれであって 心の奥底には到っていない。と見ることで 解こうとしている。――これで よいか? まだ一面的ではないか? ~~~~~~ 一面的でしょう。 《トラウマ》はそう簡単に癒せやしませんよ。 表層、表面だけを見て、判断してはいけない。 この小説は、つまり、《川端=おとこ》は、《潜在意識》の部分にまで踏み込んいない。《潜在部分》、人間の業について一切触れていない。 ~~~~~~ 11. そのあたりは 女の内面において どうなっているか? その・どうなっているかについての男の思いや考えは どうであるか? もうありがたいという思いとその受け留めで 済ませてよいか? ~~~~~~ ぜんぜん、ダメでしょう。 この女の人がどのようにこの苦悩を克服したのか、その過程を書かなければ。 表面的には苦悩がないように見えるけれど、じつは、そのトラウマにいまだ深くとらわれているかもしれないので。 そこのところを書いてもらわないと、 この身勝手な男の、どこまでも自分勝手で、どこまでも一方的な和解の成立ってことにもなりかねない。 すべては、この男の自分勝手な早合点かもしれませんよ。
お礼
ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ▲(野村茂夫 『老子・荘子』) 造物者、あるいは造化者を登場させています。これは人格を持つ運命の主宰者、万物を支配する至上神のことではありません。自然の変化そのもの、道のはたらきを擬人化しているのです。 ☆ これは 微妙ですね。 ▲ 人の力でいかんともし難い ☆ という規定によれば 人間どうしのヨコの関係ではなく 言わばやはりタテの関係と言ってよいかどうか。それほど遠くかけ離れているということではないようには思われます。 ただしちょっと皮肉るならば ▲ 自然の変化そのもの、道のはたらきを擬人化しているのです。この自然の変化そのものを、人の力でいかんともし難い運命ととり、それに随順することによって、いかなる不幸も不幸ともせず笑い飛ばす、たくましい生き方が見いだされます。 ☆ というのは 気宇広大というよりは お笑いの世界のようにも感じるところがありますが。それはそれで 力強い側面があるのでしょうが。 あぁ 同じ見解でしたね。⇒ ◇ 「いかなる不幸も不幸ともせず笑い飛ばす」というのは、ちと違うのではないか、荘子の考えからは離れるのではないか、という気がするのですが・・・ ◇ ~~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~~~~~~~ 9. 質問者は 一方で上っ面の心理的な動きとしては 怒りや恨みなる波風をみづからも立てたが 他方でそれはあくまで海の表面のそれであって 心の奥底には到っていない。と見ることで 解こうとしている。――これで よいか? まだ一面的ではないか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 一面的でしょう。 《トラウマ》はそう簡単に癒せやしませんよ。 表層、表面だけを見て、判断してはいけない。 この小説は、つまり、《川端=おとこ》は、《潜在意識》の部分にまで踏み込んいない。《潜在部分》、人間の業について一切触れていない。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええっと。これには 反論があります。つまり(9)の説明が舌足らずだったのですが ほかに次のように書いています。 ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~ 心という海の表面で その場でムッとしたり敵愾心を燃やすばかりに悔しさや恨みをおぼえたりしているのではないかという見方です。 さもなければ・つまりほんとうに心に痛みを感じたり落ち込んだりするときというのは じっさい自分もそのののしりを浴びせて来た相手と同じように 自分の心をあざむきウソをつき何とかその場で恰好をつけようとしていたりしたから そのしっぺ返しによって 自分が自分の心を傷つけた。ということではありませんか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ みづからの心にさからうウソ・イツワリがなければ 自分の心が傷つくことは――他人に何と言われようと―― ない。ただし 自分の心の中にすでに ヤマシサ反応をともなってウソ・イツワリから始めた思惟および行動があったとしたら それによって みづからがみづからを傷つけている。――こういう理論です。 言い添えるなら 相手の誹謗中傷を受けて 心の表面に怒りを感じるけれども 自分の心にウソがなければ そのように上っ面の波風だけで済む。これです。 つまり 心の《潜在部分》は きよく明らかな場合です。 これで まだ持ちこたえるとは思うのですが? あと(7)と(11)の事項で 女の《自性清浄心》をうたがい 男の《自己到来による自己との・また世間との和解》にも疑いを差し挟むということがまだ必要なのではないかと論じておられます。 これは たなごころの小説というようにきわめて短い文章で読ませるようになっているので 何とも判断がつきかねるかとは思います。 そうですね。《お信地蔵》のほうで けっこうボロクソにけなしましたので 今度は作家を贔屓目に見ることにしましょうか。 若い妻となっている女 かのじょは 夫とともに堂々と生きている。と感じます。 ▲ ~~~~~ 〔鳥屋の男:〕《茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》 鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。 《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》 ~~~~~~~~ ☆ というふうに 《中風》のことに触れた《彼》の問いにも わるびれず堂々と返答をおこなっている。ゆえ。 《彼》なる男は たとえ独り善がりとしてでも 《みづからの内においては 自己との・そして世界との和解を得た》と読み手が感じるように 描写されている。 ▲ ~~~~~~~~ ・・・不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。 鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らずのうちに素直な心で呟いてゐた。 《神います。》 ~~~~~~~~~ ☆ このあたりの筆致には リアリティを感じました。《若妻のその小さな足》が 彼に語りかけた。というかたちで描いた。ところに。 ――主観的なものの見方に属することですが。そして 文学の問題ですが。
- NemurinekoNya
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おはようございます。 この質問に関係しそうな荘子の言葉を御紹介します。 ───────── 〔子祀・子輿・子リ・子来〕子祀・子輿・子リ・子来の四人が互いに語りあっていった。 「だれが無を頭とし、生を背とし、死を尻とすることができるだろうか。だれが死生存亡が一つであることをしるだろうか。わたしはそういう者と友になろう」四人は互いに見て笑った。心に逆らうことなく、そのまま友となった。 突然、子輿が病にかかった。子祀が見舞いにいった。子輿はいった。 「偉大だなあ、あの造物者は。わたしをこのように曲がりくねらせようとしている」 子祀はいった。 「あなたは、そのように体が曲がりくねったことを憎むか」 「いや、わたしはどうして憎もうか。そもそも、生を得たのは時に巡り合ったまでであり、生を失うのは時に従ったまでのことだ。時に安んじて順に従えば、哀楽も入り込むことはない。これが古のいわゆる県解(束縛からの解放)である。わたしは何を憎むだろうか」 突然、子来が病にかかった。ぜえぜえとしてまさに死のうとしていた。妻子が子来を取り巻き、このことを泣いていた。子リが弔問に来ていった。 「しっ、近づかないように。造化者を驚かしてはいけない」 入り口の戸の側に立ち、子来と語っていった。 「偉大なるかな、造化者は。またあなたをどうしようというのであろうか」 子来はいった。 「そもそも、造化者はわたしを乗せるのに体を与え、わたしを働かせるのに生を与え、わたしを休ませるのに老を与え、わたしを息わすのに死を与えた。故に、わたしが生を善しとすれば、(造化者が与えたものを善しとすることになるから)死を善しとすることになる。 今、一たび天地を大きなるつぼとし、造化者を大いなる鋳物師としている。どこに行こうとよいではないか。死ぬときは眠り、生きるときは目覚めるだけのことだ」 http://www.geocities.jp/sei_taikou/soushi_3.html 『荘子』内篇・大宗師 ───────── 《莫逆の友》と呼ばれる有名な一節でございます。 「且夫物不勝天久矣、吾又何惡焉?」 「且(か)つ夫(そ)れ、物の天に勝たざるや久し、我、また、何を惡(にく)むや」などの大変重要な言葉が抜けていますが・・・ 抄訳なもので・・・ 少し分かり辛いと思いますので、少しだけ、補足します。 《子輿》が「偉大だなあ、あの造物者は。わたしをこのように曲がりくねらせようとしている」と言った直後に、 《子輿》の体が急変します。 子祀のいる前で、 《子輿》の背中は見る見るうちに大きく曲がり、頭の上に五臓が位置し、顎がヘソにうずまります。 で、 子祀はいった。 「あなたは、そのように体が曲がりくねったことを憎むか」 とつながります。 ───────── 莫逆の友 【読み】ばくぎゃくのとも 【意味】莫逆の友とは、互いの気持ちがぴったり合った、争うことがないような非常に親しい友人。 http://kotowaza-allguide.com/ha/bakugyakunotomo.html ───────── 旧約聖書の《ヨブ》と比較、考察するのも面白いかもしれませんね。
お礼
ねむりねこにゃさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ヨブも 家族を失い財産をも奪われ おまけに自身のからだも皮膚病にかかってしまった。こういったからだの変化が起きています。そこにおいて 何でこのような天の配剤になるのか? と文句を言い 神に直談判をする。ところが その神との言わばタテの関係において 世界との・そしておのれとの和解が成るという結果を得た。 荘子に見るに 子輿も そ《の背中は見る見るうちに大きく曲がり、頭の上に五臓が位置し、顎がヘソにうずま》るという身体の変貌をこうむる。ここでは 不平不満をとおり越えてただちに やはり《造物者》と子輿との垂直の関係において ことがおさめられ 心はすでに何ものに対しても《莫逆》の状態にあると言う。 ▲ (荘子) ~~~~~ 子輿はいった。 「偉大だなあ、あの造物者は。わたしをこのように曲がりくねらせようとしている」 子祀はいった。 「あなたは、そのように体が曲がりくねったことを憎むか」 「いや、わたしはどうして憎もうか。そもそも、生を得たのは時に巡り合ったまでであり、生を失うのは時に従ったまでのことだ。時に安んじて順に従えば、哀楽も入り込むことはない。これが古のいわゆる県解(束縛からの解放)である。わたしは何を憎むだろうか」 ~~~~~~~~~~~ 川端の小説中の《鳥屋の若い妻》も 身体に変化をこうむっている。そしてそれが 《彼》なる主人公の眼から見て やはり神とその女とのタテの関係において ありうべきと思われた心の傷もそれにともなう障害もあたかも心としては すでにすべて解消されている。 というところまで ヨブの場合や子輿の場合と同じようである。 こういったご見解ですよね。 * 問い求めというものは 極論を持ち出して話を進めたり 相手の見解に反対の見方を差し出してその問い求めを深めたりするということであるとしたら ここで《莫逆》に――莫逆に対しても―― さからってみましょう。 1. 問題は 子輿(シヨ)の場合もヨブの場合も 言ってみれば《人間どうしのヨコの関係》が稀薄です。そのからだの変化にほかの人が関与したというような人間関係はあまりない。しかるに 或る少女すなわち鳥屋の若い妻のばあいには 《彼》と呼ばれるひとりの男とのじっさいの関係がある。 2. すなわち 次のような事実関係またはそれをめぐる心のたどった軌跡関係にある。 ▼ (川端) ~~~~~ ・ 鳥屋〔の〕手足の不自由な若い妻 ・ 五六年前の旅に山南で傷つけた少女 ・ 彼女が病気になつたのも 彼の罪かもしれないのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 3. 《少女=若い妻》の内面については何もしるされていない。夫を得てやさしく介護されつつも 堂々とともに生きている様子がえがかれている。 4. 《彼》なるひとりの男は この様子をながめて 《神います。 / 神よ 余は御身に負けた》とつぶやき この主人公の女は すでに古傷は癒されていると見た。否 その心が傷つくことなどはいっさいなかったのだと捉えた。 5. 問題は 男が確かに《傷つけた》という言葉で表わした一定の行為が女に向けておこなわれたという事実 そしてそのことについてその後《女が病気になったのは 自分の為したそのおこないの所為かも知れない》と思ったという事実 これらの事実をめぐって むしろ女のほうは どのように対処したか? どう解きほぐしたか? でしょうか。 6. もし男に自分で言うほどの行為があったとしたなら 女は ムッとしたりムカついたり怒ったり憤ったりしたのではないかと推し測られる。つまり 心の上っ面においてだけとしても 相手に敵対心をおぼえたり報復は成し得ず恨みをかこったりしたかも知れない。これを どう解きほぐしたか? 7. 男は この湯場での出来事をとおして 女との関係におけるわだかまりや罪悪感からすっかり吹っ切れて 世間とのそしておのれとの和解が成った。ようである。――女は どうであったか? 8. 女はすでに初めから 何のわだかまりや怒りやも覚えず 心のひねくれも へそのひん曲がりも 味わわなかったのだろうか。 9. 質問者は 一方で上っ面の心理的な動きとしては 怒りや恨みなる波風をみづからも立てたが 他方でそれはあくまで海の表面のそれであって 心の奥底には到っていない。と見ることで 解こうとしている。――これで よいか? まだ一面的ではないか? 10. あるいはつまり 女は 男が 身から出た錆びだとは言え 相手に対して心に損傷をあたえたのではないかと悔やみつつ良心のとがめをも感じていたというその有りさまについて 無関心でいてはおかしい。とも考えられる。 11. そのあたりは 女の内面において どうなっているか? その・どうなっているかについての男の思いや考えは どうであるか? もうありがたいという思いとその受け留めで 済ませてよいか? 12. ▲(荘子) ~~~~~~ 今、一たび天地を大きなるつぼとし、造化者を大いなる鋳物師としている。どこに行こうとよいではないか。死ぬときは眠り、生きるときは目覚めるだけのことだ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この稀有広大なこころの伸びにおいて すべては コトが済ませられうる。と言ってよいか? 志の半ばで 挫折することのくやしさは 《終わりよければすべてよし》という世界観で すべて解き放たれ いやされきるものか?
補足
お礼欄の末尾 (12)のところで マチガイがありました。次のように訂正します。 X 稀有広大 ○ 気宇広大
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お礼
そうですね。ずばり こちらからの見解を述べてみます。 その前に こまあす88さん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。 趣旨説明欄にかなり述べてもいますが 次のおぎないをしたほうがよいと考えました。 《心が傷つく。傷つけられる》には けっきょく心理的なその場の一時的な上っ面の怒りや悔しさや〔相手が間違っていると分かっていても 反論することも出来ない場合に感じるような〕悲しさをおぼえて 心が深く傷つけられたと感じること これはあります。 でもこれは 心の一部だと考えられませんか? 心という海の表面で その場でムッとしたり敵愾心を燃やすばかりに悔しさや恨みをおぼえたりしているのではないかという見方です。 さもなければ・つまりほんとうに心に痛みを感じたり落ち込んだりするときというのは じっさい自分もそのののしりを浴びせて来た相手と同じように 自分の心をあざむきウソをつき何とかその場で恰好をつけようとしていたりしたから そのしっぺ返しによって 自分が自分の心を傷つけた。ということではありませんか? つまり 結論:ひとは 他人のウソ・イツワリあるいは誹謗中傷などによって 心が傷つけられることはあり得ない。 心の表面に 心理的なその場としての波風が立つだけだ。 こちらの心の奥にまで 他人による(他人自身のみづからの心にさからうことから出た)発言や行動の内容が 入って来ることはない。 こう考えるなら イエスだとか理想世界だとかを持ち出すことなく 世界は和解へと進み入るものと思うのですが いかがでしょう。 もちろん 川端も主人公に語らしめていたように 何らかのかたちで《神》のことにもかかわっているのではないかとは思うのですが。《ブッダター(仏性)》と言ってもよいのでしょうし。 いえ。わたしも単純化してしまっているかも知れません。ひきつづき みなさんをも交えて 問い求めが深められるなら 質問者冥利に尽きると思います。さて どうなりますやら。