数をはっきりさせるかさせないか、で単語の意味が大きく変ってしまうからです。
a checkenなら一羽の鶏、checkenだけだと数えられないモノ=素材、ですから「鳥肉」の意味になります。
I ate checken.ならすんなり聞きいれられてもI ate a checken.と言うとギョッとされます。一匹のニワトリを丸ごと平らげたと受け取られるためです。
日本語でも一羽のトリという言い方は存在するので、言語の問題というより、言語の使い手であるわれわれ自身の問題でしょうね。われわれは幼いころからいちいち"一羽の"と言わなくても違和感を感じないように育ってしまいました。
トリと単純に言った場合、生きている鳥である場合と料理の素材の肉としての鳥である場合があり得ますが、トリという単語だけではどちらか判断できません。あとは文脈から判断することになります。
英語はこれが単語の前後のみで判断できるようになっているのです。ある意味便利。
ちなみに数をはっきりさせたがるのは英語だけではありません。ヨーロッパ語の多く、例えばドイツ語、フランス語、スペイン語も同じですし、日本のすぐ近く、お隣の国で話されている中国語も単語ごとに数を表す量詞が複雑に決められていて、その使用法に関しては大変厳格で面倒くさいですよ。中国語最大の関門といってもいいくらいだと思います。
ですからむしろ、質問を「日本語はなぜ数にあまりこだわらずにいられるのか」という内容に変えた方が本質に迫れる気がします。
お礼
回答ありがとうございます。 日本でも領地の奪い合いをしてきた歴史がありますが 英語みたいにものの数にこだわってはいません。 なぜヨーロッパでは領地の奪い合いの歴史が英語をものの数に こだわるような性格に変えてしまったのですか?