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縄文の焼畑農業
縄文中期に里芋(タロ芋)が日本列島に伝播しています。 里芋(タロ芋)というのは焼畑農業と結びついているものなので その後の縄文文化に焼畑農業が広まったのではないか、、、、という説があります。 考古学的にこの説を裏付ける遺跡や痕跡にはどういったものがありますか? なるべく具体的に教えていただけるとありがたいです。 よろしくお願いいたします。
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質問者が選んだベストアンサー
焼畑は遺構や遺物としては残りにくいので花粉分析や石器(短冊形打製石斧が大量に出土するため、これが穴掘り具ではないかとの推定)から推定されているのが現状です。
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- toshineko
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回答No.1
遺跡は分かりませんが、地名として残っているものがあるようです。 「夏焼」地名は結構有名みたいです。 http://www.wonder--woman.com/2008daihikyousojyou2.htm
質問者
お礼
ありがとうございます。 大昔は日本全国いろんなところで焼畑が行われていたのでしょうね。
お礼
短冊形打製石斧ですか、調べてみます。 考古学の教授に聞きましたら石斧が斧なのか手斧なのか農耕具なのか タイムマシンに乗らなきゃわからない。考古学ってそんなものだと はぐらかして笑っています。困った先生でしょう。 ご回答ありがとうございます。