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邪馬台国って北朝鮮平壌付近?
こんにちは。私は歴史の研究科でもマニアでもない、ごく普通の歴史好きな日本人です。 昨日、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡が邪馬台国の最有力候補地であるとされるニュースがありましたが、以前より私が疑問を持っていた日本の歴史について質問をさせていただきます。 ・漢書「地理志」(1世紀初頭) 『楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国をなす。歳時を以って来たり献見すといふ。』(日本の国状について中国側が書かれているとされる最古の書物) もしかして中国の書物は、当時の中国の方向から東をのぞむと朝鮮半島も日本列島も一色単に抱き合わせにして見えていたのではないのでしょうか? 「楽浪海中」って朝鮮半島のことではないのですか? 百国以上の小国体制を取ることができた裏付け、文化的な遺産は現在国内のでは古墳ぐらいしか残っていないのでは?いくらなんでも何か残っているハズだと思うのです。 ・後漢書「東夷伝」(57年)について、 この中で、147年~189年の間に倭国内が大いに乱れて、百余国の小国が互いに血で血を洗う争いをしたとありますが、これほどの紛争があれば何か掘りや城址、防御壁などが遺跡として残っていると思うのがごく自然な考えだと思うのですが、全く主だったものが無いのは不思議、こじつけは別にして。後世になりますが、北九州の大野城址や大宰府や水城、防人制度などを築くのが戦時下の人のなせる行動パターンだと思うのです。 また中国ではこの時代まさに「三国志」の戦国時代です。朝鮮半島が戦火に巻き込まれた可能性は十分にあり、後漢書「東夷伝」はその朝鮮半島の状況を記したものではないのかなぁと私は思うのです。法隆寺があんなにしっかりと残っているのに、それよりもわずか500年前の激しい戦闘跡や遺跡が何も無いというのも不思議で説明がつかないという気がします。余談ですが、現在NHK・BSで放送されている『太王四神記』を見ていると、丁度そのころの時代をドラマにしているのではないなかなぁと思って見ています。 邪馬台国は当時の楽浪郡付近にあり、当時争いの全く無かった現在の日本の本州の奥地に、朝鮮民族の有力者のお墓である「古墳」を作ったと考えるのが自然のような気がしますが・・・?余談ですが「大和朝廷」の「朝」の文字も何故この文字をあてているのかも疑問ですし・・・。 いつまでも「畿内説」「九州説」の2者択一で結果が出ないのは、「朝鮮半島」の可能性が拭えないからなのではないのでしょうか?昨日の纒向遺跡の映像も・漢書「地理志」・後漢書「東夷伝」の内容を裏付けるほどの壮大なイメージは思い描けないと思うのですが。。。? 私は決して日本史を揶揄して質問しているわけではございませんので、中傷めいたご回答でしたらご遠慮いただければ幸いです。 宜しくお願いいたします。
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返事をありがとうございます。 >あの時代朝鮮半島にはもう既にいくつもの「国」、多くの「民族」が存在したことは確かで、少なくとも日本が竪穴式住居の時代にはもう衣食住ともにはるかに進んでいた文化をもっていたことも間違いありません。 はるか後世の「飛鳥文化」によって「我が国日本」の原型が出来上がったのは言うまでもありません。 おっしゃるとおりと思います。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4688170.html 上記質問の回答No.2および4の方の回答が参考になると思います。 もちろん、この方の説が絶対正しいなどとは言うことはできませんが。
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- muanakata
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No.10の者です。 戦争をした痕跡が無い戦争の具体的な事例を示したのに、それは関係ない別の話になるのですか?質問内容を的確にわかる、というのは「絶対に痕跡が残っていない日本に戦争はなかった、これを前提に質問に答えよ」ということですか? 私とおそらく回答者の皆さんも、あなたの疑問を解決するのに役立つ、関連する情報だと思ってコメントしています。はっきり言ってしまうと、私はあなたの思い込みが間違っていると思い、具体的な反例を示しています。それを無視されては、最初から意見を聞く気がなく、自説を出すだけが目的なのではないかと疑ってしまいます。 露骨に感情をぶつけてしまってすみません。 よかったら話がずれてしまっても、源平時代についてどのような認識か、お聞かせ願えませんか?
- muanakata
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NO.10のものです。 「紛争の遺跡」について の項は読んでいただけましたか?あなたが求める戦争をした痕跡が無い戦争の時代が実在すると述べたつもりです。源平争乱期に堀を持った城があったとお考えなら、具体的にどの遺跡か、いくつあるかお調べください。 またNo.11の方が吉野ヶ里の濠について触れていますが、それは無視なさるのですか? これはアドバイスのつもりですが、あなたが荒らしのように見られるとしたら、回答の文の一部の否定できるところだけ否定しているように見えるからだと思います。回答の全体に対してコメントしたほうがいいですよ。ほかの回答者の方もあなたが全体を読んでくれたのかは気になっていると思います。
- m-tahara
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No11です。例によってウィキペディアながら参考URLを入れ忘れておりました。念のため。
お礼
大変わかりやすい資料をご提供いただき、ありがとうございました。 今後の考察の資料にさせていただきます。
- m-tahara
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何か荒れた質問になってしまっていますので場違いかもしれませんけれど‥‥。 歴史の専門家でもありませんし、本で読んだり(若干の遺跡を見たり)程度で詳しい話は知らない、という前提です。 弥生後期の遺跡からは討論のネタにもなっている「堀」は多数見つかっている筈です。 弥生後期、まさに国内が争乱の最中にあったため堀に囲まれた「環濠集落」があちこちに作られたと聞いています。確か「吉野ヶ里」もそうした集落の一つではなかったかと。 これも関係ない、と仰るのであればもう何も申し上げることはありませんが。
お礼
ご回答ありがとうございました。 決して荒らしているつもりは無いんですが、もしもそのように映りましたら気をつけます。
- muanakata
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「楽浪海中」について 当時中華の派遣機関である楽浪郡が朝鮮半島に設置されており、朝鮮半島が地続きであることは認識されていたと思われます。しかし楽浪郡との連絡を海路に頼っていたとしたら海中という認識がされた可能性も決して否定できません。 「百国以上の小国体制」は日本では古墳の分布から想定されているはずです。また史書に「国」と書いているからといってそれがあなたの想定する国と同じとは限りません。あなたの認識では村にしか見えなくても中華が支配していなければ国と書くかもしれません。例えば現代、アメリカもリヒテンシュタインも国ですよね。 また、残っているべき文化遺産とはどのようなものでしょうか。古墳やその中の遺物ではだめですか? 「紛争の遺跡」について 堀や城址などの防御施設はそのような戦争だったから作られた、にすぎません。例えば鎌倉幕府成立前後の戦争は物質的にはほとんど証拠がないと聞いたことがあります。あなたは文献以外で源平合戦を証明できますか?それとも無かった、あるいは些細な内紛だったとしますか? 「日本の本州の奥地」について 朝鮮半島で生活していた人が日本の近畿に葬られると仮定すると、相当行動範囲が広いですね。それに朝鮮半島から日本の近畿にかけてを支配し、しかも近畿周辺が安全というのはかなり強力な支配力が必要だと思うのですが、そのような勢力が朝鮮半島での内紛をいつまでも鎮められないのでしょうか。この考えについては不自然だと思います。 「朝廷」という言葉は中華からの輸入で、朝、執政の場に出るという意味に過ぎません。「朝鮮」については確実な説ではないと思いますが、中華に対して東の輝かしい太陽が昇る地といった意味です。
お礼
>「百国以上の小国体制」は日本では古墳の分布から想定されているはずです。 今も残るお城の「お堀」を見てください、近年では太平洋戦争中の「防空壕」を見てください。特に沖縄の「旧海軍司令部壕」一つをみても人は死なないためにはあそこまでのことをするのです。本当に戦争をした痕跡が無い戦争なんてあるとお思いなんですか?しかも「大乱」なんですよね。 古墳はあくまでも有力者の「お墓」であり、国家体制や戦争・紛争跡を裏付けるものではないと私は思います。 私が考えているのは、卑弥呼と称される倭人がいた当時、大陸や半島の人たちが海に囲まれ、比較的に外敵から守られやすい日本を「大事な死者を副葬品とともに弔うのに最適な場所」として選んだ地だったのではないかということです。したがって戦をする場所ではなかったのではないかとつまらない想像をしているだけです。もしかして卑弥呼って北九州で窓口をしている「お墓の管理人さん」だったかもしれませよね? しかしながら、後世になって百済が滅亡した後は、何十万何百万人という大量の百済の避難民が日本列島に押し寄せ、その進んだ文明や文化をもった人たちによって「在来の日本人」に襲い掛かり、東へ南へと追いやって行ったのではないかということです。 ごく自然だとは思いませんか? 日本で「戦らしい戦」が始まったのは北九州に「防人」を設置した後の、まさに7世紀以降になってからではないかと思うのです。新羅や高句麗の侵入者を恐れて「富国強兵政策」をとったり護国寺などを置いて「兵糧米」を徴収したり、東へ追いやり捕虜とした倭人を「防人」と称して最前線に送ったりしたのではないのでしょうか? 私は学校に通っていた頃、そういった大陸から来た方たちを「帰化人」と教わりましたが、実際には百済王国の「亡命者たち」もしくは「政権」だったのではなかったのではないかと勝手に思い込んでおります。
- kiwa67
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>私は海外の遺跡などをいくつか見てきたことがありますが、戦争の遺 >跡が残らない、分からないなんてことは絶対に絶対にないと思いま >す。 上記の根拠を教えてください。 戦争の根拠とは、遺跡の何を見ればわかるのか? >中国の歴史書が日本を指して「大乱」と言わしめているわけですから 当時の中国は日本の一部しか見ていないです。 そのような状況を考えると、「大乱」とは、どの程度のスケールを いっているのか? 2国間の争いも「大乱」というのか?
- hinode11
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>私は決して日本史を揶揄して質問しているわけではございませんので とんでもない。「揶揄」どころか極めて合理的なご質問と存じます。私も、昨日の新聞ニュースは、眉にツバして読みました。 >邪馬台国って北朝鮮平壌付近? 魏志倭人伝に次のようにあります。 『帶方郡より女王國に至ること萬二千餘里。』 当時の中国の一里は434メートルだから、12000里は5200キロメートルに相当します。帯方郡(朝鮮半島のソウル付近)から5200Kmというと、九州や近畿どころか、沖縄も台湾も通り越して、グワム島かカリマンタン島あたりに邪馬台国があったことになりますね。 (^ ^;)
お礼
ご回答いただきまして誠にありがとうございました。 朝鮮併合や日中戦争などの大陸侵略時に都合の良い資料をこじつけた可能性も拭えない気もします。
- kiwa67
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>邪馬台国についてはそうかも知れませんが、大乱が日本にあったこと >はなんの証拠も無いですね。 そもそも、戦争があったことの痕跡は、遺跡からわからないです。 遺跡跡が発見されても、平時のものか?/戦下のものか?なんて 判断はできないです。 中国の書に記録が残っているので、大乱(規模はいかほど?)が あったと推定ができるにすぎない。
お礼
>そもそも、戦争があったことの痕跡は、遺跡からわからないです。 遺跡跡が発見されても、平時のものか?/戦下のものか?なんて 判断はできないです。 私は海外の遺跡などをいくつか見てきたことがありますが、戦争の遺跡が残らない、分からないなんてことは絶対に絶対にないと思います。あの秦帝国以降の中国の歴史書が日本を指して「大乱」と言わしめているわけですから、そんなにスケールの小さいイメージで「大乱」と書かれているとは到底思えませんが、いかがでしょうか? 歴史は戦争の繰り返しによって作られ、その時の遺跡が生き証人となり歴史的事実を語ってくれます。遺跡や歴史書の裏づけのない事実は、偽装や捏造と言われても仕方がないと思うのです。
- PENPENMAKKY
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中国では外来語は音をそのまま漢字に置き換えます。 『邪馬台』…当時の読み方ははっきりしていないのが実情でして、やまたい?やまた?やまと?の何れかと思われます。 『卑弥呼』も同様で、ひめみこ?か何かであろうと推測されます。 さて三国志の時代の日本ですが、古事記や日本書紀に混乱期であったことが記述されています。 日本では応神天皇の前後の時代になります。この頃の日本は混乱しており、一人の皇子が蛮族討伐に出陣しています。皇子の名前は『日本武尊』です。彼はこの時期の人です。またこの少し後の天皇は仁徳天皇です。 江戸時代までは応神天皇母が卑弥呼であろうとなっていました。 尚、畿内説と九州説ですが、ほぼ畿内説が有力であるのに対して反対派(経済的影響が理由と思われます)がいるというのが学会の状況です。
こんにちは。 魏志倭人伝には次のように記されていますね。 (1)倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。 旧(もと)百余国。 漢の時朝見する者あり。 今、使訳通ずる所三十国。 (2)郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、其の北岸狗邪韓国に至る七千余里。 始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る。 略 また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。 一大国に至る。 (3)また一海を渡る千余里、末盧国に至る。 略 東南陸行五百里にして、伊都国に到る。 略 東行不弥国に至る百里。 略 南、投馬国に至る水行二十日。 略 南へ邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。 (2)のところで対馬国とあるのは対馬。 一大国の一は壱なので、壱岐 と考えられています。 邪馬台国を北朝鮮と考えるのならば、なぜわざわざ対馬や壱岐を経て行く必要があったのかを説明する必要があるでしょう。 また(3)に出てくる末盧国・伊都国・不弥国・投馬国なども それぞれ否定地があります。(必ずしも正しいとは言えませんが) http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai01.htm ちなみに私は畿内説を支持しているものですが そこには卑弥呼の墓とされる古墳があるだけでなく 鍵・唐子遺跡も発掘されています。 http://www2.begin.or.jp/sakura/karako.htm 倭国の大乱については吉野ヶ里遺跡から 発掘された人骨に、矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、 倭国大乱の痕跡だと考えられているようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1 邪馬台国の否定地が定まらないのは、箸墓古墳の発掘調査ができないことに原因があると私はおもっています。
お礼
早速ご回答いただきまして誠にありがとうございました。 >倭国の大乱については吉野ヶ里遺跡から発掘された人骨に、矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱の痕跡だと考えられているようです。 わたしも吉野ヶ里遺跡には訪れたことがあります。 しかしながら、あの中華帝国から倭国を見て「大乱」と言わせている訳ですから「吉野ヶ里遺跡」をもって大乱の跡と証拠付けるにはあまりにもスケールが小さすぎる気がします。 あの時代朝鮮半島にはもう既にいくつもの「国」、多くの「民族」が存在したことは確かで、少なくとも日本が竪穴式住居の時代にはもう衣食住ともにはるかに進んでいた文化をもっていたことも間違いありません。 はるか後世の「飛鳥文化」によって「我が国日本」の原型が出来上がったのは言うまでもありません。 あと百余国と言っている訳ですから一べつして「国」と認識させる何か体制が存在した場所をさしているのでは無かったのではないのでしょうか? きりがありませんね。
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お礼
何度もお答えいただきありがとうございます。 >これはアドバイスのつもりですが、あなたが荒らしのように見られるとしたら、回答の文の一部の否定できるところだけ否定しているように見えるからだと思います。 それは私の方が逆に感じているところです。やはり質問内容を的確にわかっていただけるように作文するのはなかなか難しいですね。 源平について私がコメントしなかったのは、それはそれで私の見解があり、この質問の本質から大きくそれてしまうからです。