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なぜ皇居の近くに鉄道が敷かれたのですか?

鉄道事業が始まったころ、煙と騒音から、線路と駅はしばしば町のはずれに造られたと聞きました。確かに地方に行くと、古い繁華街と駅はだいたい離れています。 なのに、なぜ東海道線は皇居の間横を走ってるのかなぁ、と、有楽町のガード下近くで飲んでいるとき、帝国ホテルをバックに走る新幹線を見ながら、ふと疑問に思いました。いわば一等地とも言えるところになぜ鉄道を敷設したのでしょうか? よろしくお願いします。

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  • phj
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回答No.5

日本という国は、昔から土地の所有権がものすごく強い国です。成田空港の反対運動や、首都高の早期開業のために川を埋め立てて作ったように、鉄道事業が始まった頃は「新しいもの」である鉄道に自分たちの土地を提供するのをためらい、特に新橋-横浜の日本最初の鉄道は、土地の購入がほとんどできず、そのために海を埋め立てて線路を引いています。 実際、薩摩藩の邸宅があった芝-品川間がその埋め立て路線にあたり、約10Km程度が海上を通っています。 これらのことから、鉄道が人々に受け入れられ鉄道を早期に通すことを願うようになった時期になっても、実際の土地所有者はなかなか売らず、得に年配の所有者は「煙をもくもくはいて、がたがたうるさい鉄道なんてもんに先祖代々の土地は売れない」と言ったであろうことは想像がつきます。またこの断り方はまさに薩摩藩が鉄道用地を提供しなかった理由でもあります。 成田空港などでも反対派であった地域が代替わりすることで、容認され土地を提供される用になっているのが現実であり、町の人の希望とは裏腹に、権利関係の少ない町外れの土地に鉄道が通されたのは日本的な土地習慣によるものです。ですから、町全体としては都市伝説といえなくもありませんが、当時の(今も)土地権利の考え方からすれば「煙と騒音」はあながち間違っているともいいにくい面があります。 さて、東京駅の場所についてですが「東京駅を作ろう」と考えられた時代、東京にはいくつか鉄道起点駅がありました。東海道線の起点である新橋駅(現在の汐留)東北線の上野、中央線の飯田橋、総武線の両国です。またこの時代東海道線は官営で後は民営鉄道の駅でした。 これらの起点駅はロンドンやパリにも見られ、キングス・クロス駅などが有名ですが、これらも鉄道黎明期に各社がそれぞれの事情で起点駅を作ったために、その後それらを結ぶことができず、そのまま起点駅として存在してるのです。 明治の後半になり、日本の国力もだんだん上がってきた時代になると、まず大阪(関西)と東京(関東)を結ぶ路線の再整備が計画されるようになりました。その際、東海道を補強するか、中仙道を新設するか、と議論になり軍部も海から艦砲射撃される心配のない中仙道を推進したため、こちらを整備することになり、東海道と中山道つまり現在の高崎線を結ぶ計画がもちあがりました。 これの計画は結局東海道を優先整備することになるのですが、中山道のために上野駅から熊谷までは優先的に整備され、その後東北線や常磐線も開通したものの、上野-新橋間はまったく鉄道がなかったため、人力車などの往来が激しく、そちらの問題解決も急がれていたといえます。 この計画は現在でいう、東京駅までの山手線と東海道線の東京-新橋間を整備する計画であったといえます。 また、これらの整備を計画している頃、鉄道網を利用した首都整備を日本は考えており、鉄道発祥のイギリスが、ばらばらな鉄道起点で困っていることを知ります。西洋の先進国でこの問題を解決していたのは唯一ドイツだけであり、そのためドイツ人の技術者に相談することになりました。 これにより、上野駅の高崎線線と新橋の東海道線を結ぶだけでなく飯田橋の中央線、両国の総武線も結ぶような案が提出され、これにより山手線のルートが確定し現在の形がほぼ決まったということになります。(ただし、総武線が東京駅に乗り入れるのは戦後のことです) >なぜ東海道線は皇居の間横を走ってるのかなぁ という点に関しては「東京のすべての起点駅を結ぶ山手線を作る計画ができたから」ということになります。 東京駅が今の場所にできたのには、もう少し別の敬意が加わります。この当時、鉄道をまとめて日本の首都にふさわしいようにする計画をしていたのと同様、港湾施設や道路、オフィス街や商業地区など東京の開発計画が進められていました。 その際に、江戸時代は大名屋敷が立ち並び、それらがほぼ撤去された明治中期以降練兵場として利用されていた丸の内界隈をオフィス街として再整備することが決定し、三菱財閥に一括して払い下げられていました。 この都市計画に参加する形で当初日比谷周辺に計画されていた中央停車場を丸の内の野原に作ることが決定したのです。なぜ、もともとが日比谷だったかというと当時建設が始まっていた国会議事堂の前に中央駅を作るつもりだったからです。それが首都都市計画全体の中で見直しされたということになります。 このとき、現在の山の手線になる上野-新橋縦貫線は銀座の繁華街を避け、土地の余っていた数寄屋橋周辺を通ることになります。銀座は当時でも世界有数の繁華街であったため、土地を確保することが難しかったからです。そして現在の位置に有楽町駅を作って銀座にアクセスできるようにしたのです。 >有楽町のガード下近くで飲んでいるとき このあたりは有名なレンガ作りのガードになっており、アーチの下に現在でも店舗が入っています。私の好きな店もアーチの中にあります。 このレンガ作りの高架路線は、東京駅と一体で整備されたもので、本来なら鉄製の高架橋で全部を作る予定だったものが予算と当時は鉄を輸入する必要があったために、大部分をレンガで造り、道路との交差部分だけ鉄橋で作ったのです。新橋駅の道路交差や有楽町ビックカメラ前の交差部分などの鉄橋は現在でもほとんどが当時につくられたもので、鉄橋としても長い歴史を有しています。 >いわば一等地とも言えるところになぜ鉄道を敷設したのでしょうか? いまでこそ一等地ですが、東京駅の整備計画の頃は銀座の端・皇居の端と一等地とは程遠い野原だった場所がほとんどです。特に銀座とは現在のガードのすぐ東側、ほぼ西銀座デパートや銀座ナイン(会社線の道路)がもともと川であり「銀座」は川までしか伸びていなかったのです。 ですから、西銀座デパートという名称も銀座ではない(西東京市は都内じゃないでしょ)、銀座ナインも銀座は8丁目までしかない、ということで一等地から外れたところだから鉄道が通せたのです。

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質問者

お礼

ありがとうございます! 参考になりました! 鉄道のことはほとんど知らないので、大変勉強になりました。また、当時の首都建設の面白い話をたくさんありがとうございます! 薩摩藩の話や山手線ルートの話など、知らないことばかりでとても面白く読ませていただきました。 私もガード下の飲み屋さんが大好きなのですが、あの場末感というか、庶民的すぎる雰囲気が、すぐ近くにある老舗高級ホテルと皇居の緑と、よく考えると近すぎやしないか?と思いまして、友人と、そういえばパリやロンドンとかって、パレス的なものの近くに鉄道ってなくない?って話になり、お聞きしてみた次第です。(全員鉄道については無知なもんで。もちろんヨーロッパにもでもすが) お聞きした東京創成期の話は面白そうなので、また自分でも本や記事などを探して読んでみたいと思います。

その他の回答 (7)

  • blackhill
  • ベストアンサー率35% (585/1658)
回答No.8

 西欧首都の鉄道駅は、建設時、すなわち19世紀中頃の市街地の縁辺部に建設されました。その第一の理由は、すでに他の回答者が指摘してるように駅と軌道の開発のために多くの人家を立ち退かすことが困難だったからです。  汐留駅(元新橋駅)の簡単な構造から想像するのは難しいのですが、西欧の主要駅はプラットフォームの数が多く、また軌道も3複線、4複線が珍しくありません。もともとターミナル型(終着駅で折り返す構造)で行先別にフォームを分けているうえに、信号制御が未発達でそれぞれ路線別専用軌道を必要としたからでしょう。  さらに、初期の鉄道は中長距離の旅客が主で、下車してから馬車に乗り換えるのが普通でした。やがてタクシーや地下鉄が馬車や市電に代って利用されるようになりましたが、一度できたターミナルの役割が変わることはありませんでした。  日本ではターミナルは通勤や買い物客の集まる場所ですが、西欧主要都市では鉄道駅は旅客のための施設で、ビジネス街やデパートは別の場所にあるのが普通です。  東京駅周辺も、ショッピングの場所になったのは大丸デパートの進出や八重洲地下街の開発以後で、それまでの乗降客は丸の内のオフィス街の通勤者が主でした。

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質問者

お礼

ありがとうございます! 参考になりました! 実は、疑問に思ったきっかけがそのヨーロッパのターミナル駅との比較でした。もちろんたくさん知っているわけではないですが、ヨーロッパの大きな駅の周辺ってなんか場末感が漂っていて、あまりいい印象がないのに、なぜ明治時代にそれを皇居のような明治政府にとって大切な場所の真ん前に作ったのかなぁ、というハテナというか。 みなさんから面白いお話がたくさん伺えて、質問してみてよかったです。ありがとうございました。

  • reflector
  • ベストアンサー率7% (37/491)
回答No.7

今現在、東京都に天皇を名乗るコリアンが住んでいますが、本物の天皇は不在です。 従って、皇居ではなく江戸城跡地です。 鉄道は、利用者が多く定住しているところを重点的に配置しますので、利に適っていると考えられます。 それから天皇は、関西圏から移住しておりません。実話です。

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質問者

お礼

ありがとうございます!

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.6

日本で最初の鉄道は、「新橋駅」から「横浜駅」の間で開通しました。 この「新橋駅」は、現在の山手線の新橋駅とは異なり、今の「汐留シオサイト」、新橋駅と浜松町駅の間の海側でビルが林立している所にありました。 「横浜駅」は現在の桜木町駅です。 頭の中で地図を描いて頂けるとお分かりでしょうが、皇居から「汐留シオサイト」ってかなり離れていますね。そして、明治初期の東京の市街地からははっきり外れた場所です。 他の方が述べておられるように 「鉄道事業が始まったころ、煙と騒音から、線路と駅はしばしば町のはずれに造られた」 というのは、結果としてはだいたい正しいのですが、理由は異なります。 「街の外れに作った方が、用地買収コストが安いから、街の真ん中を貫通させなかった」 のです。 他の、明治初期に既に「大都市」であった場所を見ると、鉄道は、「当時の市街地を迂回する」ように通っています。 上野: 上野は、江戸時代から「江戸の市街地」だった場所です。そこに上野駅を起点とする東北本線が敷設出来たのにはちゃんと理由がありました。 上野駅の敷地は、寛永寺の敷地の一部でした。寛永寺の敷地は、現在の上野公園の2倍あったと言いますが、得上野駅のあるあたりは、寛永寺の傘下の寺院(子院)が連なっている場所でした。 明治維新の時の「彰義隊戦争」で寛永寺の多くが焼け、幕府の保護を失った寛永寺の経営が成り立たなくなり、寛永寺の広大な敷地が「上野公園」になり、「上野駅」「東北線の敷地」になった訳です。 京都: 京都の中心は「四条烏丸」のあたりでした。東海道線の京都駅は、そこから遙かに南の八条通のあたりに建設されました。新選組の最後の屯所は、京都駅の少し北(市街地より)の、京都リーガロイヤルホテルの場所にありましたが、そこは「不動堂村」と呼ばれ、周りは田園風景だったそうです。 また、山陰本線は京都駅から少し東に行くと北に90度曲がりますが、これは、京都の当時の市街地を避けるためです。 大阪: 大阪の中心は、中之島の南、大阪城の東の、道が碁盤の目になっている所でした。この「碁盤の目の道」は、多くがかつての運河を埋め立てたものです。当時の大阪は「極東のベニス」と呼ばれた「水の都」でした。 東海道線の大阪駅は、市街地からかなり北に設けられました。当時、大阪駅の場所には何もなかったそうです。 いわゆる「鉄道忌避伝説」が俗説に過ぎないことは、下記の本で詳細に論証されています。 鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町 (歴史文化ライブラリー) http://www.amazon.co.jp/dp/464205622X/

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質問者

お礼

ありがとうございます! 参考になりました! 京都や大阪の話も興味深いです。次回旅行に行くときの楽しみが増えました。

noname#230414
noname#230414
回答No.4

一等地というのは現代だけ. 昔は原野東京湾が近くまで来ていた。 北町奉行所があった所。南? 大田道灌が切り開いた。 都庁があった所 だからあんな馬鹿広い駅が作れた。

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質問者

お礼

ありがとうございました!

  • oignies
  • ベストアンサー率20% (673/3354)
回答No.3

最初からちかくははしってないとおもいます。 日本の最初の鉄道は、たしか、新橋ー横浜間だったのでは? 新橋、そんなに皇居にちかくないです。 が、そもそも皇居はひろく、そこそこちかくをはしったとしても 皇族の普段すんでいる住まいのちかくを電車がはしることに はならないです。

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質問者

お礼

ありがとうございます! 

  • ultraCS
  • ベストアンサー率44% (3956/8947)
回答No.2

鉄道忌避伝説は根拠がない者で遭ったことを青木栄一氏が論証しています。 http://bokukoui.exblog.jp/4098403/ ですから、そもそも、「鉄道事業が始まったころ、煙と騒音から、線路と駅はしばしば町のはずれに造られたと聞きました」というのが現在では成立しないと考えられています。 都市の中心部に鉄道駅が無い(地方都市では多いケースですが)のは、用地取得の費用が掛かるためです。 新橋(汐留)~横浜(桜木町)は日本で最初に鉄道が通ったところで、その路線を新たに作った東京駅まで延長したのです。ですから、最初の鉄道がそこを走っていたからというのが一番の答えですね。新橋~横浜は開通当時は海沿いや海中の築堤を走っていましたが、現在は沖まで埋め立てられています。 http://www.mtm.or.jp/museumreport/nishikie_yokohama/

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質問者

お礼

ありがとうございます! 参考になりました! 近代化のひとつのシンボルとして、むしろ皇居の前に敷きたかったのかもしれませんね。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

煙と騒音から、線路と駅はしばしば町のはずれに造られた ↓ それは俗説 土地があるところに線路と駅を作った。 東京駅のあたりは当時は三菱が原と言って、空き地に近かった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%A7%85 「当駅の位置は、江戸時代からの繁華街である京橋側ではなく、建設当時はまだ野原だった丸の内側に建設された。」以上引用

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質問者

お礼

ありがとうございます! 参考になりました!

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