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自己肯定と他人批判の関係
- 自己肯定と他人批判の関係を考える
- 他人を批判することの意義と態度について
- 自己肯定が他人批判に与える影響について
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質問者が選んだベストアンサー
人間は今までの人生で起きた幸せより不幸によってその後の行動が決まってしまう所があります。だから嫌な人はいますがその人が嫌なのではなく、その人の過去に起きた事で違う人になってしまっているんです。そんな事もあって、人は必ず間違うものです。否定しても何にも産まれないと思います。また自分は必ず肯定するべき、というより肯定出来る自分であるべきです。もし迷った時は自分の倫理観に照らしてゆっくり考え肯定出来る自分でいるための決断をします。例えそれが苦しい決断でも。それが高潔さです。しかも、そういう選択はそれを選択出来る人だけの贅沢なものです。そのように自分を保てば、他人の本音が簡単に見えるようになり。親しくするべき人か、そうでないかが楽に決められます。でも人を批判したり評価したりする事はおかしいです。あなたは素晴らしい感覚を持っているので、それを使って助けが必要な人を見分ける事も出来るはず。嫌な人はいますが、なんとかしてその人を助けられたら少しづつ本当の自分を取り戻す事が出来るんじゃないかと思います。そしてあなたが助けが必要な時に強い味方になるはずです。参考になったかな?しかも長かったかな?ごめんね。
その他の回答 (5)
>自分を肯定するために、他人を批判してしまうことってありませんか?> まったく状況がわからないのでなんとも言えませんが(1)ただ単に自分を肯定するだけなら他人を批判する必要はない筈です。それなのにも関わらず他者を批判することでしか自己肯定感を得ることが出来ないというのは、ちょっと子供じみていますね (2)逆に不当に批判されるが故に防衛目的で批判する場合ですが、この場合は言い争、行動で言えばデモ、人殺しのレベルになると戦争いという事になるかと思います。言い争いが無意味と感じれば自然と治るもので言い争いを馬鹿扱いして偉そうに第三者から言われる筋合いはないです。第三者であるなら止めるなりなんなりすれば良いんですよそれをなにカッコつけて「言い争いでは何も生まれない(そんなことやる奴は馬鹿です)」見たいなお釈迦様見たいな事言ってる奴いるけど、「じゃあお前は批判や文句言われて一回も言い返してやりたくなった事ないのか?」と逆に聞き返してみたいです。恐らく無いでしょうけど(笑) と二つのパターン上げましたが(1)であるなら。人格を今すぐにでも変えるべきです。(2)の場合はまあ要所要所ということで・・・
お礼
ありがとうございます。自己肯定感を得るための批判はしないようにします。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
引き下げの心理といって、心理学の分野になると思います。 多くの場合、他者に対しての批判ではなく他者否定をとる場合が醜さを伴います。 相手が誰であれ他者を否定することなく、その人自身を認めて気持ちを汲みながら 現象として現れている行動に対しての見直しのための哲学的批判であれば 醜さは伴わないと思います。 人対人としていがみあうことに醜さを感じるわけで、事の改善に向かうことに対しては 冷静さ・温和さ・優しさ・相手の肯定などを同時にできる訳ですから好感をもてると思います。 >そもそも、自分の態度と感情を計り知ることはできるのでしょうか? できます。 学んで実践することでできるようになってきます。 心理学になりますけどね。 自分に対して肯定していき、行動に対しての問題は解決する姿勢を持ち続ければ 他の人に対しても同じ振る舞いができるようになります。 時間をかけて取り組む必要があります。 頑張ってください。
お礼
引き下げの心理ですか。そういうものがあったのですね。 自分の態度と感情を計り知ることができるように頑張っていきます。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
>どのような態度と感情をもっての批判だったら良いのでしょうか? >そもそも、自分の態度と感情を測り知ることはできるのでしょうか? 〇正義という物差しで測って、正義が自分の側にあるのなら、批判も可能ですね。 では、正義とは何ぞやということですが、その時代時代に絶対的正義というものが存在するのですね。 最大多数の最大幸福とは一般的な正義の代名詞ですが、これは必要条件ではありますが、必要十分条件ではないのですね。未来に対して最大多数の最大幸福を担保する場合にのみ「絶対的正義」と呼ばれるのです、それを「神の正義」とも呼びます。 「神の正義」に対して「自分の態度と感情」が恥じないのであれば、批判をすればよいと思いますね。 それが、不安であれば批判すべきではないですね。 大きな事象も小さな事象も同じことですね。因果の理法で物事を判断し、未来への警告を知れば、批判や忠告は必然的になりますし、自我我欲や一部の集団の利益のための批判であれば、未来に反作用が必ず来ますね。 要は、批判の結果、嫌われるか、好かれるかは時が経てば結果は必ず出るということですね。 哲学者や宗教家はそのような尺度で自らを見つめ、必要な時に批判をするのです。 それが、哲学者がミネルバのフクロウと呼ばれるゆえんなのですね。 特に、世界の価値観が大きく乱れるときは、巨大なフクロウが天を舞い、批判します。その批判を受け入れられるかどうかなんですね。批判に耳を傾けないと、大きな反作用が起きることもあります。個人の好き嫌い、国家間の好き嫌いでとどまればまだいいのですが、天変地異という反作用も起きるのですね。 何が現代の正義かを常に学ぶことですね。
お礼
正義がなにかを判断できるようにしたいと思います。
- banri_kashii
- ベストアンサー率9% (36/388)
相対性と絶対性の違いを考えてみましょう。 前者は相手より自分の方が「マシ」である場合、後者は論理的にも倫理的にも そして他者との比較すら不可能な場合です。 哲学じゃなくて心理学のジャンルだと思いますが、批判そのものは恥ずかしい事ではない。 それに中身が伴わない事が恥ずかしいのです。あと、韓国人を見てみましょう。 自己愛による他者への批判しか存在していませんよ。火病とも言いますが
お礼
ありがとうございます。
- suzumenokox
- ベストアンサー率15% (35/229)
他人への批判に当たっては、相手の人間性を認めた上で相手が改善して成長するきっかけになればいいなという態度と気持ちが大切だと思います。自分を認めたい・認めてほしいという気持ちが強すぎると自分のラインを相対的に上げるために、あらさがしをして他人のラインを下げるということをしてしまいがちです。そうならないようにはしたいものですね。
お礼
ありがとうございます。あらさがしをしないように気を付けたいと思います。
お礼
私のことを知っているかのような回答です。一つのメッセージだけで、こんなにも人の気持ちを汲み取れるなんて凄いです。ありがとうございます!!