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エゴを取り去るには?
道元禅師の次のような言葉があります。 ただわが身をも心をも放ち忘れて 仏の家へ投げ入れて 仏の方より行われて これに随いもてゆくとき… エゴをすてて,仏の世界に生きること 自分には至難です まず,何をしたらいいのでしょうか?
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- tumaritou1
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仏教は枝葉が多岐に分かれてしまいましたので、宗派別の論理だけを見た時分かり難いように思えます。ですが根本は同じと思いますので、『我を去れ』という意味から読み解いてみます。 仏教を易しく読み解くなら、煩悩に苦しむ『一切皆苦』が原点と思います。そうして『解脱』という現象=悟りを開いて(見性)『涅槃に至る』という筋道と思います。 此処で、煩悩に悩まされて『一切皆苦』になるという意味は、現代に於いて『心が苦しくなって、心療内科や精神科医のお世話になる、』という意味と思います。つまり『意識地獄』に落ちてしまうという意味です。 分かり易い書き方にするなら『ノイローゼ』になってしまったお釈迦様が『ノイローゼ』が完治した事によって、『意識地獄から抜け出した』という意味です。ノイローゼの『一切皆苦』=『意識地獄』が、治った時には『涅槃という世界』に入っていた。という意味です。このからくりが仏教の根本という意味です。 キーワードは『意識地獄』=『一切皆苦』です。 この心理学的な問題は、人間の意識性の問題に突き当たります。意識しない時は苦しくない、『意識した時は苦しい』という意味があるからです。 この『意識した時、意識した内容を』苦しく思う時その内容が『症状に当たります。』この事は、人間の意識性を学ぶ事で解消する問題ですが、この難問『意識性の問題』の解決方法を見つけた人が、お釈迦様と言うことになります。 人間の意識性の難問は、メンタル面の強いか?弱いか?と重なっています。 自意識過剰の時が『意識地獄の時です。』メンタル面が弱いという状態です。症状が強く出ている時です。 同じ人でも、症状と感じていない時は、自意識過剰から抜け出している時です。意識地獄と感じていない時です、メンタル面が強くなっている状態です。 ンタル面が弱い時とは、自我意識単独の時です、言い換えるなら『無意識の自分を無視している時です。』漠然とした不安や恐怖感は『無意識からの無言の抗議です。』その意味は、無意識の自分からの交替要請です。 メンタル面が強いという意味は『自我意識が引っ込んでいて、無意識の自分が身体と心を支配している時です。』自我意識が引っ込んでいる時とは、『ただわが身をも心をも放ち忘れて仏の家へ投げ入れて仏の方より行われてこれに随いもてゆくとき…』という場合です。 没我、或いは無我という場合です。この状態を維持する事は困難かも知れませんが、訓練方法はあります。この事を学ぶ事は『人生そのものを深く理解する場合です。』=『人間性の深い理解です。』 訓練方法は後ほど書きますが、『人間性への深い理解』を学ぶという内容は以下の通りです。脳内に二つの人格が共存しているという事を学ぶという意味です。 人間の悩みや生き難さや、障害の『裏側』を学ぶ事で『人生や自分を学ぶ事で、人間を達観出来た時、』ほぼその目的は達成されます。 人間の脳の構造です、この構造から学ぶ事は、『心に感情が湧き上がったり。心に考えが湧き上がったりするシステム』に付いて、『通』になる事が狙いです。 科学的な、人間の脳の基本構造です。ウイキペデアからです。『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 この脳の機能の違いや、脳内の情報交換のやり取りを『脳卒中になったために、内部から自分で体験した脳科学者の動画がありますので、良く観察して下さい。 『脳卒中、ジル、ボルト、テイラー博士』と検索をしてみて下さい、動画が出てくる筈です。 この動画で語られている内容が、道元で言うなら『心身脱落』をした経緯です。つまり『見性体験』の内容です。言うならば『悟りを開いている最中』という意味です。 判り易く言うなら、『感情や考えを湧き上がらせていた人格との出会いによって、自分が何者か?が分かる体験です。』 脳梁(意識の根底)での、二つの意識が出会う体験で『今まで抱えていた疑問や悩みが全て解消する瞬間です。』この体験を禅では『生死の問題が解決する』と表現しています。 この理由は『有限の身である自我意識は、永遠の存在である『命そのものの働き』をしている人格との出会いによって、自らが既に永遠からやって来て、又永遠に帰ってゆく事を体感するからです。 従って、今までのように『死』を恐れる事がなくなります。心の底から『死の受容』をする事になる体験という意味になるからです。 今までの苦しみの原因は『自我意識』』VS『命そのものの働き』の行き違いや誤解からだった事が分かります。つまり『心の矛盾』を苦しみとしていた事が分かる体験です。 この体験で『心の矛盾』は解消します。 意識地獄の原因が根本から解消します。意識地獄とは、頭の中に地獄を作っていた者は自分の『我』ということです。生き難い想いとは『我』が自分自身の『生命の源』から圧迫を受けていた事がわかるという意味です。 『命の働き』という言い方の方が合っているかも知れません。生き難い想いの正体とは『心の矛盾』です。 『まず,何をしたらいいのでしょうか? 』という具体的な方法は実に簡単な事です。『湧き上る自分の感情に振回されない人間性の確保』が最終目的です。従って第一歩は、『望む事が手に出来たとしても、喜び過ぎない事です。』 そうして『嫌な事があったとしても、落ち込み過ぎない事です。』たった是だけです。 是だけの積み重ねで『湧き上る自分の感情や考え』に振回されない人間性の確保が出来ます。 神経症なら『湧き上る自分の感情や考え』の内、吃音者という人は吃音という現実に右往左往しているだけという意味があるからです。 心を病むという場合も『湧き上る自分の感情や考え』の内、嫌な事と感じている事に、右往左往しているだけという意味があるからです。 又自律神経失調症や過敏性腸症候群等の場合でも、『湧き上る自分の感情や考え』の内、嫌な事と感じている事に、右往左往しているだけという意味があるからです。 どの場合でも人間の意識性の問題をクリアー出来た時が、完治する時という意味があります。意識する事、意識していない事、この二つの違いが分かる時が『クリアーする時です。』
- kanakyu-
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頭をつかって、むりにエゴを取り去るという事は、 かえって不自然で不健康ではないでしょうか。 エゴは、自分が生きていくために必要なものを満たすことが、 本来の役割ではないでしょうか。 問題になるのは、それが暴走し、行き過ぎることではないかと思います。 仙人においては、エゴは消滅してしまったのかも知れませんが、 それは結果的にそうなったのであって、無理にそうしたのではないと思います。 その境地へ一足飛びに行こうとすれば、かえってつまづいてしまうと思います。 まずはバランスを整え、本来の自然なエゴを受け入れることが、 その前の段階にあると私は思います。 精神修養は、子育てに似ていると思います。 たとえば、小さいときに親にちゃんと依存できた子供の方が、 大きくなってちゃんと自立できる傾向にあるようです。 ふさわしい時期、段階というものがあり、その段階を経ている事を「順調」と見てよいのだと思います。 ゴールだけを見て無理にまねようとしても、かえってバランスを崩したことになってしまうのかも知れません。
- kanto-i
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「エゴを取り去りたい」 一度は、そう思ってしまいますよね。 エゴは、ちょっと見た感じでは悪いものに思えますが(多くの人間の作り上げたイメージとして) 実は必要なものです。 自分を愛せるほどにしか人は愛せない。 自分を理解できるほどにしか人を理解できない。 自分のあるがままを認めて許せたら、放ち忘れることができる。 持ってるものを嫌わないで愛せたとき、エゴは解き放されるようにできています。 嫌えば嫌うほど、認めて欲しいため表面に強く出ます。 ご自分を大切に。
- ukiyotonbo
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>まず、何をしたらいいのでしょうか? 最初から間違い。エゴを捨てるなんてたわけた発想を捨てること。 エゴを捨てたいという強烈なエゴイスト。自己矛盾の罠。 仏は何もしない。動機がないからね。 SEXしない。SEXしたいエゴがない。 食べない。食べたいというエゴがない。 息を吸わない。息を吸いたいエゴがない。んなアホな。 つまり、自然にしていればいいってこと。 無邪気な幼児にエゴがあると思いますか。息は吸ってるし、食べたいもの食べるけどね。 エゴを捨てるとか、仏になるとか、悟りたいとか、そのエゴを捨てることです。
- 雪中庵(@psytex)
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本質的にエゴを去れば、意識は消滅します。 エゴの洞察の果てに補完すること、それが他我です。 分業化や組織化において人が社会性を持つにつれ、 自己の生存の成立に、社会全体の活動が必須となり、 真に「利己的」であるには、社会全体の自己の肉体と 同等の自覚化(他我化=愛)が必要となり、利己と利他 は全体の最大効率化において(物質的生産性ではなく 精神的充足量において)において止揚され得るのです。
- bougainvillea
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道元禅師を持ち出しているということは、 やっぱり曹洞宗のお寺に行って坐禅するのが、 質問者さんの求めるものに一番近いんじゃないでしょうか? 他の回答者さんも答えられてますが、エゴを捨てるというより、 エゴを直視して明確に認識するという感じになりますかね・・・
- MOG777
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クイズでも学習問題でも何でもいいので長時間考えてみる。 閃かなければ別の事柄に集中し一時忘れてみる。 その後、閃けば閃きに対して興味がでてくるので 再度、別の問題を考えてみる。 そうすると、閃きが起こりやすい心理状態というものがおぼろげながら分かる様になる。 そして、「閃きの足を引っ張るのは自我意識である」というところまで理解すれば 捨てられないにせよ、エゴは捨てたくなる。 そこからは割合容易に進んでいきます。
- airi_kashii
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低次元な宗教などでは欲望を捨てろと言うが、誤りです。 釈迦もそれを認識しており、その後説かれた経文で 論じています。 エゴや欲望に振り回されるなとは言うが、捨てろと いうのは全く意味が違います。欲望が全て悪ならば 人間に生きる価値は無い。仏の定義を釈迦に聞き直せと 俺ならばツッコミを入れるでしょう。
- boo373guchi
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エゴは誰にでもあります。 取り去ることはムリだと私は思います。 偉い人の言葉で納得したり自分もそうなりたいと思うことはありますが 私からしたらそういう言葉を残して他に影響を与える。これも一種のエゴであると 思う部分もあるので・・・ なので捨てる!ということよりも自分のエゴを自覚して それを他人に押し付けないという事を心がけています。 何をしたらいいのか。 これはエゴで言っている。そこを自覚することからでしょうか。