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正法眼蔵 「心不可得」
「心不可得」の巻の後半で、老婆と徳山の実際の問答が終わったあと、道元禅師がこの2人の仮想問答を行っています。 その中の老婆の言葉の意味が理解できないのです。 「和尚はただもちひの心を点ずべからずとのみ知りて、心のもちひを点ずることを知らず、心の心を点ずることをも知らず」とありますが、これはいったい何を言わせようとしているのでしょうか。 またそう言ったあと徳山にもちひ3枚をわたし、手を伸ばしたところに 「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」と言うべきだった、とも書かれていますが、この意味も全くわからないのです。結局のところ、この巻のテーマ自体が私にはよく理解できていないことになります。 皆様のご意見を是非伺わせて頂きたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。
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眼蔵は難しいですね。この巻も一見やさしそうに進んできながら、途中で何だかわからなくなる感じが確かにあります。もとより勝手な解釈で、眼蔵家の方には笑われるかも知れませんが、あくまでもひとつの例としてご覧下さい。 金剛般若経にある「過去心不可得、…」の言葉がこの巻の下敷きになっているのですが、この「心不可得」の言葉の理解が肝心だと思います。普通一般には「(過去、現在、未来それぞれ)心はとらえようがなく(中村元訳)」と理解されるこの言葉ですが、道元禅師はそのような解釈を全くとっていないことはこの巻の中に明らかです。 それは例えば、この婆子に対する禅師の評価からも明らかです。禅師は、一般には高く評価されているこの婆子の態度をも斬って捨てていますが、その理由のひとつは「(この婆子は)心不可得のことばを聞きては、『心、うべからず、心、あるべからず』とのみ思ひて、かくのごとく問ふ」からとされています。つまり道元禅師の考えでは、心不可得という言葉を「心を得られない」「心はあるはずがない」と理解しては駄目なのだ、ということをまず認識する必要があるでしょう。 「心」というものを物に対立する概念として捉え、これら2つを二元論のなかで位置づけようとしたのが最初の婆子の質問(過去・現在・未来のどの心に餅を点じるのか?)です。禅師はこのような質問の前提になる立場そのものをはなから否定しているのではないでしょうか。 正法眼蔵「身心学道」の巻には「しばらく山河大地日月星辰、これ心なり」とあって、心というのは身の回りの具体的な事物のありようのことだ、という立場が示されています。また「即心是仏」の巻には「いわゆる正伝しきたれる心というは、一心一切法、一切法一心なり」ともあります。他にもまだまだたくさんありますが、「心」というものを仮定するのでなく、具体的な世界のありよう、ものの現れ方として以外に殊更に「心」というものはないのだ、というのが禅師の一貫した立場です。 この立場に照らしてみれば、婆子のような態度、つまり、もの(餅)⇔心という二元論的世界観は錯誤、禅師の言葉でいえば「自己をすすみて万法を修証するは迷いなり」(現成公案の巻)ということになってしまうのです。 このあたり、稀代の眼蔵家であった岸澤惟安師による「正法眼蔵全講」中の「心不可得」部分を見ると、師は古人の「心を識得すれば大地に寸土なし」という言葉を引いて、「心と餅とふたつあるのではない、心がすべて」と言い、また「不可得というのは脱落のことで『得る、得られない』という意味にとってはいけない」という意味のことを述べています。不可得という言葉も、やはり二元論からの脱落だというわけです。(心不可得の巻の最初で、「不可得のうちに過去・現在・未来という穴をえぐっているのだ」という意味のことが書かれていますが、これはそのような意味を指すのでしょう) さてそのような原則を踏まえたうえでご質問の部分を考えてみましょう。 この部分は、徳山が婆子の質問をそのまま斬り返してきた、という想定で婆子が言うべきだったと道元禅師が考えている架空のせりふですね。 「和尚はただもちひの心を点ずべからずとのみ知りて、心のもちひを点ずることを知らず、心の心を点ずることをも知らず」のうち、最初の「ただもちひの心を点ずべからずとのみ知りて」というのは、徳山が「物で心の問題は解決できない」といった物心ニ元論の立場にあることを言っているわけです。そのレベルにとどまっては駄目なので、婆子としては徳山にそれを超えさせることが求められます。つまり、眼の前の現象以外に「心」などなく、あるいは「物」などない、言いかえればそういう事態そのものが「心」であり「物」に他ならないのだ、ということを言わなければならないのです。 そのことが、質問の後半部分で意図されているのだと思います。言葉を入れ替え、さらに「心」が「心」を点ずる、などという表現は、主体と客体の区別を意図的にシャッフル(?)させて徳山の価値観をゆさぶっているのだと言えるでしょう。 いずれにしても、婆子が本当にひとかどの人物であるならば、徳山がとらわれているところの「心」にまつわる観念論、つまり私という人間が主体となって考えていること、という主観的な錯誤の残滓を取り除かねばなりません。 だからこそ、そういった時に婆子はもちひ三枚を渡し、徳山が手を出したならば、「過去心不可得、…」と言うべきだ、と道元禅師はいうのでしょう。現実的で具体的な姿かたちにおいてしか「心」は存在しないということ、つまり3つの不可得を三枚のもちひで現前に示すべきだった、というわけです。 他にもいろいろ書かせてもらいたいことがあるのですが、書き出すと長くなるのでこの辺までにさせて頂きます。読み返してみると下手くそな文章でかつ勝手な解釈ですけれども、いくらかでもご参考になれば幸いです。
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- chidzu
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『金剛経』かと思ったら『禅戒鈔』にも同様の話があるそうです。 http://www.urban.ne.jp/home/junsoyo/kai/zenkai.htm の http://www.urban.ne.jp/home/junsoyo/kai/zenkai/z0/z0_1.htm に「心不可得」のことが書かれています。 この「Hiro's HomePage」の http://www.urban.ne.jp/home/junsoyo/ 主催者に尋ねられたらどうでしょうか。 http://www.urban.ne.jp/home/junsoyo/fopen.htm 私にはよく分かりません。
お礼
早々に丁寧なアドバイスを頂き、有難うございました。 「心不可得」は金剛般若経の言葉にまつわる問答を下敷きにした道元禅師の著作ですが、ご紹介頂いた「禅戒鈔」はそのお弟子による解釈集のようです。せっかくのご紹介ですが、少々敷居が高く思われて結局問い合わせは出来なかったのですが。
お礼
懇切な解説を頂き恐縮です。長々とお時間を割いて頂いたこと、御礼申し上げます。 実は正法眼蔵は多少読んでいるつもりではいたのですが、ご解説を拝見して、少々独善的な読み方だったかと反省しております。また、ひとつの章をじっくり読むだけではなく、横断的にいくつかの章を読むことで道元禅師の説かれるところのテーマを浮かび上がらせるということも大事なことだという感想を強くもちました。 また解説などでよく「それが仏性だ」という風な言葉で解説が終わってしまって、宙に放り出されるような居心地の悪さと消化不良の感じが残ることがあるのですが、このように説いてもらえることで大変すっきりと致しました。