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白村江の戦いについて
気になったので質問します。 白村江の敗戦で当時の日本は瀬戸内地方に多数の城郭を築き唐の侵攻に備えていたといいますが、すんなりとわずか兵力二千ほどの唐の軍隊を受け入れたように書かれています。また、何故か唐の進駐軍は九州の大宰府までしか来なかったとも書かれています。日本が唐に降伏していたのだとすると、なぜ当時の首都である大津京に進駐軍は来なかったのでしょうか。 日本よりもずっと長い戦乱の歴史がある中国がてぬるい戦後処理をしたとは思えないのですが。 どうしてなのか教えてください。
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要員2000、兵力としてはあまりに少なく使者にしてはあまりに多い。 その資料が誇大表現である可能性が高いですが、あえて解釈すれば自国の海軍力(軍船)を見せつける威力外交でしょう。 今後朝鮮半島に要らぬ領土的な野心をもたせないように唐が船団を見せつけに来たのかもしれません。
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- tanuki4u
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http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater6-5.html 史料関係をまとめているというのでは上記参照 唐の軍隊2000説というのは、上記のURLにある中の備考で日本書紀中の内容的に合理的でない記述があることから、実は威力偵察的な唐軍が来ていたのではないか?という説ではなかったかと思う。 確かに、唐側の史料に日本ないし倭に対する柵封記述が見られないのは不思議。
お礼
ありがとうございます。たしかに不思議な感じですね。隋書や旧唐書、宋書の読み下しや解説を載せてる本なんかを見ても無かったです。
- toshineko
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確かに百済占領軍の司令官の命を受けて、「郭務悰」が来日していますね。 敗戦したのは百済だけで、日本は海路で軍隊を送っただけです。 唐が日本に進駐してきたのではなく、戦後交渉という名目で日本の様子を探りに来たのでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E5%94%90%E6%88%A6%E4%BA%89 その当時は、力が衰えたとはいえ、まだ高句麗が残っています。 また新羅も唐に協力してはいましたが、全面的に配下になっているわけではありません。 そのあと戦争を起こしています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E5%94%90%E6%88%A6%E4%BA%89 遠交近攻のお国柄ですから、朝鮮半島の軍事を放っておいて、 日本まで軍隊を送るとは思えず、逆に同盟を計りに来たのかもしれませんね。 もちろん後の元寇の例もあるように、軍隊を送るには多数の軍船が要ります。 はたしてそのようなことが可能かを調べる意図もあったと思われます。
お礼
ありがとうございます。孫子の兵法が情報戦の重要性を説き、積極的にスパイの活用を勧めているくらいですから、有り得ないことじゃないですね。 あと、私が引用した本は斎藤忠さんの倭国と古代史の謎でした。
- Pinhole-09
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白村江の戦いのあと、百済の難民が九州に渡って 来て、一部は難波(なにわ)まで来たと聞いて います。 (朝廷が情報を得るため、招いたのでしょうか) この話の誤認か、誰かが意図的に捻じ曲げたものと 思われます。
お礼
すいません。ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。
- SPS700
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僕も#1さんと同じ疑問をもちます。 白村江は、現在の忠清南道と全羅北道の道境をなす錦江(クムガン)で、朝鮮半島の西海岸の仁川と馬山の間にあります。ここまで遠征していた日本軍が敗退して日本に帰ってきた。 しかし中国側の、勝利を誇大視した史書でさえ、唐の軍隊が日本に来たとは書いてありません。ご質問の「唐の進駐軍は九州の大宰府まで」来たという記述ないし研究の根拠をご呈示ください。
お礼
すいません。それは軍隊ではなく要員でした。どなたかの著書か忘れましたが、このように書かれていました。 663年5月以来、6次に渡り唐の要員が渡来し、筑紫都督府(大宰府)にそのつど4~8か月逗留した。669年には郭務悰が要員2000余人と共に渡来し、670年には李守真が来日して正月~7月まで逗留する。同年11月には再度、郭務悰が要員600人、百済人1400人と共に来日し、翌年5月まで逗留する。 ご迷惑をおかけしました。
- buchi-dog
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日本が朝鮮半島に派兵して白村江の戦いで敗れたのは史書に明記してありますが、その後、唐や新羅の軍勢が海を渡って日本に侵攻したという記録はありません。 日本は、唐に降伏したのではなく、朝鮮半島で敗北したから本国に撤退しただけです。もちろん、現地で唐・新羅軍に奴隷にされたり殺された日本人は多かったでしょうが、別に日本が唐に降伏した訳ではありません。 「唐は、日本への侵攻作戦などは考えなかった」だけです。 質問者さんは 「白村江の敗戦で当時の日本は瀬戸内地方に多数の城郭を築き唐の侵攻に備えていたといいますが、すんなりとわずか兵力二千ほどの唐の軍隊を受け入れたように書かれています。また、何故か唐の進駐軍は九州の大宰府までしか来なかったとも書かれています。日本が唐に降伏していたのだとすると、なぜ当時の首都である大津京に進駐軍は来なかったのでしょうか」 と書いておられますが、何をご覧になったのでしょう? そもそも、当時の航海技術では、朝鮮半島全体を制圧したとしても、朝鮮半島南端から朝鮮海峡を渡って九州に上陸、占領することは容易ではありません。簡単に言うと「19世紀に蒸気船が実用化されるまでは不可能」でした。 白村江の戦いから500年ほど経って、「世界帝国」となった元が、朝鮮半島全体を制圧し、日本への侵攻を試みましたが、北九州に橋頭堡を築くこともできずに撤退しました。そのくらい、日本にとって、朝鮮海峡というのは強力な「防壁」だったのです。
お礼
すいません。それは軍隊ではなく要員でした。どなたかの著書か忘れましたが、こう書かれていました。 663年5月以来、6次に渡り唐の要員が渡来し、筑紫都督府(大宰府)にそのつど4~8か月逗留した。669年には郭務悰が要員2000余人と共に渡来し、670年には李守真が来日して正月~7月まで逗留する。同年11月には再度、郭務悰が要員600人、百済人1400人と共に来日し、翌年5月まで逗留する。 ご迷惑をおかけしました。
お礼
ありがとうございます。あまり詳しく書かれていないので推測の域を出ませんが、この点も軍事経済大国の行動要因として十分に考えられますね。難しい判断ですね。