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中大兄皇子と水城について
中大兄皇子は、白村江の敗戦後、なぜ太宰府に水城を造ったのですか?本気で唐・新羅連合軍が攻めて来ると思ったのですか?
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思ったのでしょうね。 太宰府のみならず、九州から関西にかけて点々と山城を築城していますから。 もちろん確信していたかどうかはわかりませんが、もしものための備えは昔でも今でも変わりません。 現在、日本が南西諸島方面の防衛力を増強しているのも、同様です。
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- oska2
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>中大兄皇子は、白村江の敗戦後、なぜ太宰府に水城を造ったのですか? 中臣鎌足(百済の王子・ 豊璋)が「祖国百済を軍事援助すれば、次期大王(天皇)にしてあげよう」と、中大兄皇子を唆したのが白村江の戦いですよね。 外交を担っていた蘇我氏は、全方位外交を唱えていたので百済救済軍派遣には反対していました。 大王になる為には、邪魔な蘇我氏を排除しないといけない。 質問者さまもご存知のように、蘇我氏は滅びます。 ※百済救済軍派遣前後は、中臣鎌足は行くへ不明(日本書紀)。 ※たぶん、祖国である百済に帰国中(一部の学説)。 意気揚々と軍を派遣した結果が、蘇我氏が進言した通りの結果になってしまった。 >本気で唐・新羅連合軍が攻めて来ると思ったのですか? 実は、本気で恐れたのです。 蘇我氏が「百済の事よりも、日本の事を考えべきだ。唐・新羅とは仲良くしないと駄目だ」との進言を無視して蘇我氏を滅ぼし、百済に派兵した結果がこれ。 予想よりも、損害が大きかったのです。 「多くの反対(大海人皇子含む)を押し切った結果が、これか」 唐・新羅連合軍の恐怖とともに、国内の反中大兄皇子派が怖かった様ですよ。 「本当に唐・新羅連合軍が攻めてきたら、私の命運は終わる」と考えたので、疲弊した国民を強制的に労働させて水城を造ったのです。 まぁ、対外的な理由と国内的な政治的な理由から水城が築かれた訳ですね。 補足ですが・・・。 日本書紀は、天武天皇(大海人皇子)の命によって編纂された勝者の物語です。 天武天皇にとって都合の悪い真実は、意図的に記載していません。^^;
- gunsin
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水軍を派兵したのは、自国の防衛の為です、百済が滅びれば次は 倭国です、国のリーダーとしては、防衛と外交の2面で対処します。 水城を始め対馬なども防衛強化の為、土塁や石垣を作ってます。 唐・新羅連合軍が来襲しなかったですが、防衛の準備は蒙古襲来 の時に役立ちました。
- siyahqalam
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もちろん、本気で唐・新羅連合軍の侵攻を予想したからこそ、それに備えたのです。白村江の戦いの後、唐は高句麗を滅ぼしましたから、東アジアで唐に敵対する国家は倭だけとなり、存亡の危機に瀕していました。ここで防衛策を取らない指導者は無能でしょう。そもそも、大化の改新も、東アジアの情勢に対応するための権力集中を目指す改革であると考えられますから、中大兄皇子が大宰府に水城を造らせたのは当然の成り行きだと思います。その後の律令制国家の成立と国号の変更(「日本」の誕生)もその流れで理解できます。
お礼