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第二次世界大戦中のドイツ対フランス

第二次世界大戦の年表を見てみると、 1939年 9/1 ドイツ軍、ポーランド侵攻     9/3 イギリスとフランス、ドイツに宣戦布告 1940年 5/10 ドイツ軍、フランスに進撃開始     5/26-6/4 英仏軍、ダンケルクから撤退     6/14 パリ陥落     6/22 フランス降伏 1.フランスが宣戦布告してから、ドイツがフランス進撃するまでの間の戦闘はどのようなものでしたか?   フランスがドイツに攻め入っていたのでしょうか? 2.ドイツが攻め入ってからごく短期間で降伏してますが、どうしてですか?  軍事力に差があったのでしょうか? 3.フランスは戦勝国のような顔をしていますが、実際は敗戦国と考えてよいでしょうか?  フランス軍は弱かったのでしょうか?  それとも政治的判断で、表面上降伏していたのでしょうか。 4.降伏中は、ドイツ軍として出兵していたのでしょうか? よろしくお願いします。

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  • bossnass
  • ベストアンサー率44% (176/394)
回答No.5

すいません。長文になってしまいました。 こんなに長いと読む気失せますね・・・。 1.地上戦はほとんど行われませんでした。 ライン川を挟んで「我々は平和を望む」というプラカードを ドイツ兵が対岸のフランス兵に見せたり、川遊びする相手国の 兵士を黙認したり。 しかし、ノルウェーを巡る戦いでは英独は熾烈な海上戦を行って いましたが、フランス海軍は積極的に参加していません。 もともと英仏海軍は歴史的に見ても仲が悪いこともありますが、 フランスの対独姿勢が定まっていないことが要因でした。 空でも、両国の偵察機などが何度か領空侵犯をしています。 イギリスは、積極的にドイツ領内に侵入しておりフランスは、対して 消極的でした。 戦闘が始まったら、戦場になる国ならない国の立場があり、前大戦の 記憶がフランスには残っていたのです。 2.独仏の軍事力バランスは当時、ほぼ拮抗。 兵器の性能面でも大局的には大きな差はありません。 戦車の運営方法の違いや電撃戦戦法、マジノ線の固守、アルデンヌ突破 を予見できなかったなどフランス敗因はいくつかあげられてますが 「今度こそ勝ってやる!」と思っている国の軍隊と「もう戦争なんか したくないのに・・・」と思っている国の軍隊の差が根本的にあった ため、それが細かい部分にまで影響したのでしょう。 このような「勝てる要素は十分にあった国が負ける」例として ベトナム戦争の米軍、ギリシャ侵攻のイタリア軍、フィンランド侵攻 のソ連軍など多く事例があります。 3.事実上の敗戦国ですね。 ドイツが英米軍に降伏を申し入れた際、席上にフランス代表もいた ことに驚いたという記録があります。 英米ソの戦後対立を利用し、敗戦国から戦勝国にすり替わった ド=ゴールの活躍に負う点が大きいです。 フランスが戦勝国ツラをすることに、ドイツ以上に驚いたのは チャーチルでしたから。 フランス軍が弱かった。というよりもフランス人は戦う気が無かったと いった方が正解かも。 「表面上」「軍事的」「全面」どれであろうと降伏は降伏です。 4.ドイツに併合されたアルザス地方の住人は、徴兵されてますが フランス人の中には、義勇兵としてドイツ軍に参加した兵士も 少なからずいます。 ドイツ占領中、フランス国内ではドイツを尊敬すべきではないか? という考えも芽生えてました。 ユダヤ人狩りも、積極的か黙認という形で協力しています。 対独抵抗運動にフランス人は参加・協力したような印象を戦後フランス はアピールしたところがありますが、レジスタンス活動の主は 共産主義者です。フランス民間人が対独戦に参加するようになったのは ノルマンディ上陸の後からで、中には英米の(鉄道や輸送路、民間人 への誤爆等)空爆に抗議して英米軍に報復する人間もいたようです。 植民地にいた主にフランス海軍は、イギリス軍と交戦しています。 (ダカール港等) 米軍のアルジェリア上陸の際も抵抗したフランス軍もいます。 フランスは、1918年から現在まで(対外戦略は)未だ混乱しています。 アングロサクソンにもゲルマン人にも勝てない。 かといってイタリアやスペインみたいに落ちこぼれたくない。 日本や中国になめられたくない。 中東石油などの利権には関わっていたい。 そんなことへのあせりが、数年前の(シラク政権時)南太平洋での 水爆実験を強行した理由です。 そして、国内イスラムテロという新しい敵が生まれても未だに フランスの仮想敵国No1、No2は ライン川を超えてくる連中(ドイツ人)、海峡を超えてくる連中 (イギリス人)でもあるのです。

その他の回答 (5)

  • ewyr-05
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回答No.6

マジノ線は、フランスが難攻不落の要塞と豪語していたようですが、 ドイツの電撃戦法で簡単に撃破されてしまいます。 ここが大きな誤算であったようです。 日本のノモンハン事変では、ほぼ全滅するまで抵抗し続けたので撃破はされていません。 つまり、準備する時間を奪われてしまったのです。 >フランス軍は弱かったのでしょうか? 歩兵の時代では無く、機甲、機動力の時代でした。 考えがかなり古く、甘かったようです。 戦国時代の兵が準備バンタン、動けるようになるまでには数日程度の準備期間が必要だったようです。 3日かけて歩いてきた農兵がようやく集まります。^_^; つまり、歩兵の運用思想や有事の対処手段、防衛線の張り方や、 当時のドイツへの読みにに大きな問題があったようです。 フランスが降伏した後、 ド-ゴールが自由フランス政府の樹立を宣言します。 ロンドンから対ドイツ抗戦を呼びかけてレジスタンスを指導しました。 ですから、一応は、フランスは降伏していない事になります。

回答No.4

 1~3についてはNo.1・2の方の回答と大差ありませんから、4項についてのみお答えします。    > 4.降伏中は、ドイツ軍として出兵していたのでしょうか?  占領下のフランスは、正規軍としてドイツ側に立って参戦しませんでしたが、「義勇軍」としてドイツ国防軍・武装親衛隊に加わっています。(陸軍および海軍)  国防軍には「フランス義勇歩兵連隊」の名で数個部隊が東部戦線で戦い、武装親衛隊に所属した「擲弾兵フランス第1師団(シャルマーニュ)」(元SS義勇突撃旅団シャルマーニュ)は、他国の義勇兵達とともにベルリン首都防衛戦でソ連軍に最後まで抵抗しました。    『世界戦争犯罪事典』(文藝春秋社)のなかに次のような逸話があります。  1945年5月、南独カールシュタイン、クーゲルバッハ川にて仏第2戦車師団長ルクレール将軍は、武装SS[シャルマーニュ」師団のフランス兵12名の捕虜を尋問したさい「お前たちは外国の制服を着て恥ずかしくはないのか」と怒鳴りつけた。いちばん階級の高いブリフォー少尉が「あなたも外国の制服を着ているではありませんか。将軍閣下!」と答えた。ルクレール将軍はその時米軍の軍服を着ていた。これに怒った将軍は4人ずつに分けて銃殺した。SS隊員は全員「フランス万歳」と叫んで倒れた。  

  • komes
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回答No.3

開戦後かなり善戦すると期待されたポーランド軍が短期間で壊滅してしまい、フランス、イギリス共立ち後れてしまい、守勢に陥りました。 従ってドイツへの進攻はありません。 2戦車の集中使用、機械化部隊の共同作戦、空軍力の活用という電撃戦構想において仏英軍は遅れていました。 落下傘部隊の活用と後方攪乱も予想外で、オランダ、ベルギーへの侵攻はシュリーフェン計画に従うと英仏軍に誤解させた為、英仏軍はベルギー方面に主力を展開したのです。 ここを当時大兵力の展開不能と考えていたアルデンヌの森を突派してドイツ軍が急突進して逆シュリーフェン計画で英仏軍の主力の背後を包囲したので混乱の末英軍は撤退しました。 以後北仏を短時間に占領され兵力の大部分を失い降伏するに至りました。  作戦と用兵の失敗でした。 3短期的には敗戦国、長期的には戦勝国にかろうじて仲間入り。 4フランスは敗戦後、ドイツに強力を強いられましたが実戦に兵士を派遣することはありませんでした。

noname#32495
noname#32495
回答No.2

1宣戦布告はしたものの、実際上英仏は何も行動しません。この弱気を付かれましたね。半年後痛い目にあいます。ドイツがオランダベルギー経由でフランスに侵攻します。 2実際上の戦闘能力を奪われたので。軍事力は拮抗しています。作戦がまずかったのです。 3実際上戦闘不能になりました。イタリアと同様、実質敗戦国です。戦後のおこぼれという感じの戦勝国です。 4捕虜として送られました。

  • tanuki4u
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回答No.1

1:奇妙な戦争といわれました。 英仏は、イギリス軍を大陸に移動しつつ、防御を固め、ドイツがソ連に攻め込むのではと思っていた。 2:電撃戦を理解していなかった。 ポーランドがドイツの電撃戦に敗れたことを正確に理解せず、ポーランドより防御陣地がちゃんとしている、(マジノライン)と、思っていたら、ドイツは、中立国のオランダ・ベルギーを侵して、防御ラインを迂回しつつ、電撃戦で撃破された。 3:建前上の戦勝国 パリ解放は、政治的な背景もあり、自由フランス軍(ドゴール配下)がしたことになっている。ドイツがパリを放棄したあとですので、ほとんど実戦はなし。ただ、占領下でのフランスレジスタンスの功績は、ある程度評価できる。 4:出兵せず 補足、軍事力と言うときには、正面兵器と、その運用という二側面があります。正面兵器として考えると、開戦時において、戦車の台数や機能ではフランス>ドイツでした。戦前において、戦車の運用に関しては、ドイツのグーデリアンと並んで、イギリスのフラーやフランスのドゴールも機動的に使うべきと主張しておりましたが、実際に運用したのは、ドイツのみで、フランスの戦車は、各部隊に散在するという状況でした。この差が、実際の戦場では効きました。 戦車が一対一で対決したら、性能と台数でフランスが勝ったでしょうが、運用で負けたわけです。

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