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二・二六事件って結局戦争に反対したかったの?

二・二六事件ですが、つまるところ、戦争に反対したかったのでしょうか? 戦争をする・しないに関わらず統制派の暴走を止めたかったのが目的でしょうか? よろしくお願い致します。

みんなの回答

回答No.3

私は池田少尉、赤松少尉他、決起した将校や兵士にあった事のある最後の人の一人です。 彼らと会話して解った事は純粋無垢で、何ら経済対策も講ぜず国民を飢えさせる政府に鉄槌を加えたかった ただ、それだけの事のようです 皇道派、統制派という派閥はありましたが、彼らはどちらでもありません 人気のあった真崎大将を担げば支持が得られると思っただけです 去年終わった民主党政権があと一年続いたらどうなったと思いますか? クーデターでも起こらないかなぁと思ってた人もいたんじゃないですか? ま、そういうことです。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.2

戦争に賛成も反対もない。重臣と財閥を軍事クーデターで打倒し、国家社会主義を実現するという思想だっただけです。天皇親政を掲げて軍事クーデターを正当化するというのが皇道派の思想です。それに対して行政府に介入して合法的に国家社会主義を実現するという思想が統制派です。皇道派も統制派も国家社会主義を実現するという思想では完全に一致しているんです。ただその方法論が違っただけ。皇道派は、軍事クーデターという非合法な手段で理想を実現しようとしたのに対し、統制派は議会主義による合法的手段で理想を実現しようとしたことが異なる点なのです。 二・二六事件は1935年の相沢事件の軍法会議が開かれている時に決行された。それはもちろん偶然でもない。相沢事件とは皇道派の相沢三郎が、統制派の永田鉄山を軍刀で白昼公然と殺害した事件です。このように直接的・短絡的・問答無用・非合法な手段を厭わないのが皇道派です。それに対して統制派は軍法会議といった合法的手段に拘っていました。 二・二六事件は皇道派が、その思想を実現しようとしたものですが、失敗して結果的には統制派に逆用されてしまったようなものです。この後、陸軍は統制派優勢が確定し、1938年に国家総動員法が第1次近衛内閣によって制定されていきますから、それが質問者さんには統制派の暴走のように見えるのかも知れません。 見方によっては、統制派が国家社会主義を実現する為に戦争を利用したともいえるのかも知れません。国家総動員法と同じく1938年に電力国家統制法案が提出されました。戦争遂行を大義名分として民間の電力会社の発電所等の設備を国策会社に一元的に接収するというのだから、まさに国家社会主義そのものです。 だから、戦争をするしないは全然関係ないのです。するしないに関わらず、「戦争をするために」を大義名分として国家社会主義を実現することが統制派の理想だからです。 皇道派は統制派と違って、戦争を国家社会主義実現の為に利用するという発想は無かったけれど、だからといって皇道派が戦争に賛成だった訳でもないし、反対だった訳でもないのです。皇道派は、軍を検量奪取の足場として利用するという発想はあっても戦争に対してコンセンサスがあったとはいえない。 結局のところ統制派が戦争に賛成だった訳でもないし、反対だった訳でもない。皇道派が戦争に賛成だった訳でもないし、反対だった訳でもない。そういう対立点があった訳でもないし、そういうコンセンサスがあった訳でもない。

  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8859)
回答No.1

満蒙を武力制圧するのは反対で、 統制派の排除を図ったのは 確かだが、主犯の青年将校が頼みとした 皇道派の大半は、 満州を外壁朝鮮半島を内壁とした ソ連への反共要塞を構築し、 機を見て、ソ連に進撃、ウラル以東のシベリアを併合し、 農村の次男以下を移民させシベリア開発に従事させるという 妄想を抱いていたので、 青年将校の意図する皇道派政権ができたら、 独ソ戦に呼応し、ソ連との戦争に突入、 敗戦と共にソ連邦・ヤポンソビエト社会主義共和国と なったかもと、九死に一生を得た鈴木貫太郎侍従長は回想している。

tomodati-_-
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 しかし、一文が非常に長く、分かりづらいため、知識がない人でも分かるように説明できる方の回答、お待ちしております。

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