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山本五十六は最後まで戦争を非難していた反対派だった

山本五十六は最後まで戦争を非難していた反対派だったが指揮を任されて嫌々開戦したって本当ですか? 戦争反対の割に奇襲攻撃や、日本の兵力とアメリカの兵力を計算して緻密な戦争計画を作っていたようですが戦争反対なのに作戦を考えるのが好きだったってことは戦争大好き人間だったのでは?

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noname#233772
noname#233772
回答No.2

山本五十六は若い頃にハーバード大学に留学した経験があって、アメリカの国力を肌で感じて知っていました。だからアメリカと戦争をやって勝てるわけがないことを分かっていたので、開戦には反対していました。 しかし軍人ですから、国家の意志として開戦が決定されたら従わざるを得ません。だから真珠湾を奇襲してアメリカの太平洋艦隊を潰しておき、東南アジアの油田を確保したら、半年~1年くらいで和平交渉をして戦争をやめようという算段をしていたのです。 しかし緒戦で連戦連勝してしまったものだから、軍の上層部が判断を誤ってしまいました。 「まだまだいけるんじゃね?」と思ってしまい、和平交渉に乗り出さなかったのです。 結果、つぶしたはずの太平洋艦隊はたちまち復活して、執拗なまでの報復を受ける羽目になったわけですね。 山本五十六は軍人として任務を全うしようと務めただけで、彼自身が好戦的な人物というわけではありません。

america2028
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  • oska2
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回答No.4

>山本五十六は最後まで戦争を非難していた反対派だったが指揮を任されて嫌々開戦したって本当ですか? 表向きの情報では、その通りですね。 が、終戦間際で「戦争責任を問われる事を恐れた海軍が、陸軍に責任を押し付ける目的で造った逸話」との説もあります。 >戦争反対なのに作戦を考えるのが好きだったってことは戦争大好き人間だったのでは? 戦争反対でも、職務上「最善を尽くす」のが司令官の務めです。 戦争反対だから、負け戦を前提に作戦を練る事はありません。 余談ですが・・・。 戦争については、個々の立場で判断が異なるのです。 沖縄戦についても、左派系沖縄地方新聞・沖縄教育委員会の見解と本土の見解は異なりますよね。 「本土日本は、沖縄を犠牲にした」 これが、おきんわ自治政府の基本的考えです。 日本陸軍の命令で、多くの非戦闘員が犠牲になった。日本陸軍兵士に、多くの琉球市民が殺された。 ところが、沖縄自治政府。左派系報道機関・左派系教育委員会は「意図的に、重要な歴史を抹殺」しています。 牛島満中将自決前の言葉は、「沖縄県民は、よく戦った」 この発言は、意図的に沖縄自治政府で抹殺されています。 また、ペリーが琉球王国に来た時は「友好的だった」と沖縄の正しい歴史に記載があります。 が、ペリー艦隊は「武力で、首里城に入城」して「沖縄本島及び周辺海域を測量」しています。 徳川幕府が開国しなかった場合、琉球を武力で占拠する!のが目的でしたからね。 ところが、沖縄の正しい歴史は「ペリーは、友好的だった」(笑) 山本五十六に関しても、色々な事実があります。 ただ、「アメリカと戦闘しても勝算は無い」と認識していたのは事実らしいです。

回答No.3

>山本五十六は最後まで戦争を非難していた反対派だったが指揮を任されて嫌々開戦したって本当ですか? 少し違いますが大筋ではその通りです。 山本五十六さんはアメリカやイギリスを実際に視察した経験が有り、海外列強国と日本の国力の違い(特に工業力の差)を自分の目で見て来ました。 そのため「いま戦ったら必ず負ける」と分っていた数少ない日本軍人の一人でした。 開戦時点で満州などの大陸をある程度抑えていたので、そこからの資源で国力を高めて米英と戦える力を蓄えてからでなければ戦ってはいけないと主張して開戦派の強行グループと対立していました。 他にも多くの政治家や戦況を正しく判断できる軍人など山本と同様に開戦反対派の人達がいましたが、神国日本は必ず勝つという何の根拠も無い戦争やりたい派の軍属グループに次々と暗殺されていました。 山本五十六さんも強硬派の暗殺リストに名前が載っていた一人だったのですが、暗殺される前に前任の引退のタイミングで海軍大将に昇進、そして開戦が決まりました。 工業力の差を分かっていた山本は「1年間は暴れてみせる」と言って仕方なく開戦に同意します。 山本の作戦はアメリカ機動艦隊の拠点の真珠湾を先制攻撃で叩いて太平洋の制海権を握る。 その間にアジア一帯に領土を広げて有利な状態で和平条約を結ぶ。 手に入れたアジアに国々から石油や鉄鉱石などの資源を手に入れて国力を高める。 そして資源力と工業力で欧米などの列強国と肩を並べるまで国力(工業力)を高めてから再び欧米と戦うという青写真を描いていました。 >戦争反対の割に奇襲攻撃や・・・ 頭が良かったから反対していた。(戦争を非難していたのでは無く「まだ早い」と考えていただけです) あの時点での開戦に反対していただけで、もっと国力を上げてからでなければ戦うのは無謀だと主張していただけです。(山本さんも、いずれは戦うべきと考えていた) どうしたら互角に戦えるのかを緻密に考えていた。 だからどうしても戦争が避けられないとなった以上は限られた戦力で何処まで戦えるか、どうしたら日本が負けずに済むかという緻密な作戦をたてていたのです。 日本の将来を思う昭和初期の日本軍人ですので戦争が嫌いという事ではなかったと思います。 だからと言って戦争大好き人間だったかどうかは極身近な戦友か身内でもない限りは知るすべは無いと思います。