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どんなに寒くても、行きますか?
- いくら寒くても、私は行きます
- どんなに寒くても、私は行きます
- たとえ寒くても、私は行きます
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辞書を引くと「いくら」(副)=「どんな」とありますから、大雑把には同じと言って良いと思います。 が、私はほんの少し違うように感じます。 1.「いくら」寒くても行きます。の方は、ある程度推量のたつ寒さのように思います。 2.「どんなに」寒くても行きます。 「どんなに」は「どんなだ」の連用形ですが、「どんな」の意味として強いのが「不測の事態」のニュアンスだと思います。 つまり、経験則上の程度問題として自信を持った(裏を返すと自分にとって限界値がないかのように対象をやや過小評価し、それを客観性として信じている)上で述べるのが「いくら」で、経験則上予測がつかないこと(例で云う寒さの種類・付随事象事故等)も含めて何をも凌駕し強調(覚悟)した上で述べる時に「どんな」を使うと思います。 3.「たとえ」の方は事象の有無(強い仮定法)と捉えて良いと思います。(URL参照) もう少し長いセンテンスの方が差が出やすいのではないでしょうか。 1’.今から貴方がいくら努力しても、オリンピック選手に勝つのは無理だ。 2’.今から貴方がどんなに努力しても、オリンピック選手に勝つのは無理だ。 3’.今から貴方がたとえ努力しても、オリンピック選手に勝つのは無理だ。 1’はシンプルな度合いや程度に言及している(経験則上の客観的事実)のに対し、2’はやや努力の幅も否定する少々感情的な強調が見えると思います。(感情の種類は不明) よって、少なくとも1及び1’の発言者はある程度意見を出す上で発言の対象(寒さ・オリンピックスポーツ)について博識であると自負しているように思えます。 1と1’の発言者は自負の有無について不明ですが行う忍耐・努力の種類に自分の想像を上回るどのようなものがあったにしても兎にも角にも自分の気持ちを伝えたいように思えます。 なので、私は「いくら寒くても行きます」という例文を見て違和感を覚えました。 ローカルな場所を目指している(北海道がいくら寒くても行きます)か、寒さ事態の範囲を想定出来る状態(血糖値が下がってますがその為にいくら寒くなっても行きます)か、身内との発言であれば普通に使いますが、パブリックな場所(Webや書籍)では発言者が絶対的客観性を持てる創造主である小説や詩を除いて、寒暖差の経験に自信を持つ人物は少ないからです。 ところが一文ではなく二文、もしくは登場事象の背景がわかっている状態で構成する場合は「いくら」を使った方がしっくりくる場合もあるように感じます。 (1)「いくら寒くてもその場へたどり着く覚悟を持っていた。しかし、鼻の中も睫毛も凍り、息をするにも針を飲むような痛みを感じ始めた頃、その覚悟は吹雪の宙に散った。」 →客観的(と過信した経験上の推測に基づく)覚悟が無様に砕け散った。 :主人公はある程度大人に見える。 (2)「どんなに寒くてもその場へたどり着く覚悟を持っていた。しかし、鼻の中も睫毛も凍り、息をするにも針を飲むような痛みを感じ始めた頃、その覚悟は吹雪の宙に散った。」 →元々の見通しが感情(情熱)に基づくものだった。 :主人公は少々幼稚、もしくは純心・激情家に見える。 (1)の方が読み物としてはすっと入ってくると思います。読み手よりも恐らく寒さの見識において信頼出来る主人公なのでしょう。共感は出来ないかもしれませんが、「寒さの度合い」と「挫折」についてフォーカスが当たっています。読み手は「(こういう人の覚悟を折る程とは)どれほどの寒さだったのだろう…」と想像します。 (2)は「どんなに」って「そもそもどれだけの覚悟と情熱だったの?」「(強調するほどの)たどり着かないとならない事情があったの?」「普段どれくらい我慢強いの?」「極寒について経験はあったの?」という表現が前後に説明として(1)よりも欲しくなりませんか? 以上です。
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- erabell
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No.1です。 寒さ事態→寒さ自体 1と1’の発言者は自負の有無について→2と2’ でしたね、すみません。
お礼
リョウカイです。 わざわざありがとうございます。 (^^)
お礼
ものすごく、わかりやすかったです。 1と2の違い。 自分では思いつけませんでした。ですからご説明を読み、そうかと思いました。 とても助かりました。 ご回答、どうもありがとうございました!