• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?)

友のために自分の命を捨てる・・・愛

このQ&Aのポイント
  • 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
  • 聖句から分かるところによると、友のために命を捧げることは最も偉大な愛だとされています。
  • イエス自身も友のために命を捧げることを実践し、その行為は愛の表現とされています。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#194087
noname#194087
回答No.5

質問題から、三浦綾子さんの「塩狩峠」を思い出しました。 峠を逆走する機関車を、身体ごととめて自死した主人公の生き方は、 「友のために命を捨てる愛」だったんじゃないでしょうか。 「友」は特定の友ではなく、全ての隣人でしょうか。 主人公はクリスチャンで、実話をもとに書かれた小説のようですね。 小説の冒頭にある、聖書の言葉が印象的でした。 一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、 もし死なば、多くの果を結ぶべし。 (新約聖書 ヨハネ伝 第12章 24節) 麦で思い出しましたが、 子供の頃、義農作兵衛の話(四国)を聞いたことがあります。 江戸時代の飢饉で、餓死者多数。 作兵衛も餓死寸前でしたが、枕袋の麦種は食べずに残しました。 翌年、その麦種が蒔かれ、多くの命が救われたという話です。 宗教家でも哲学者でもなく、キリスト教的にどうなのかわかりませんが、 このような自死は、残された者のなかに生きているような気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 dr24 さん こんばんは。はじめまして。ご回答をありがとうございます。  ふたつの実例を出していただきました。  ◆(三浦綾子:塩狩峠) ~~~~~    http://www.zusi.net/meisaku/siokari/miura.htm  塩狩峠(北海道和寒町)は天塩と石狩の国境にある険しく大きな峠である。    明治四十二年二月二十八日の夜、急坂を登りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめた。偶然、乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄がとっさの判断で、線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた。長野は殉職、乗客は救われた。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~  (1‐3) ・・・はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか?  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ありましたね。はっきりとした実例であるようです。  うたがうとすれば――哲学は何ごとでもうたがうことから始まりますから―― もし列車がそのままあとずさりして行ったらどうなっていたか? やがて来る次の列車と衝突してしまうでしょうか?  長野氏も生きて欲しかったのですが ほかに方法はなかったでしょうかねぇ。なかったのでしょうねぇ。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~   (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)  ~~~~~~~~~~~  ☆ という疑いあるいは公理も もはやかすんでしまうということでしょうか。  もうひとつの実例があるのですね。  ◆(ヰキぺ:作兵衛) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E5%85%B5%E8%A1%9B  享保の大飢饉で松山藩は深刻な飢饉に見舞われた。特に筒井村の被害は甚大で、多くの餓死者を出た。  作兵衛も父と息子を亡くし、自身も飢えて動けなくなってしまった。  村人は作兵衛が麦の種もみを俵に詰めて枕にしているのを見て、それを食べることを勧めたが、作兵衛は聞かず、「農は国の本である。種は農の本である。わずかの日生きる自分が食べてしまって来年の種をなくすわけにはいかない」と、言い残して飢え死にしてしまった。  村人たちは作兵衛の残した種籾で次の年を乗り切ったという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 作兵衛も生き ほかの村人たちも生きる方法を模索しなければならないでしょうね。基本は。  どうなんでしょうね。  (お茶をにごすかたちにて すみません)。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄のあと したためます。  dr24 さん あらためましてこんにちは。  さて ここでは質問者は――質問者の役目を果たすためだと思っているのですが―― 言ってみれば悪魔の役を引き受けてさらに問い求めをつづけたいと思いました。  (あ) 《塩狩峠》の主人公の長野政雄は キリスト者だったようですが かれはそのように《後退し始めた客車を身を投げ出して 止めようとした》のは 聖句《友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》を知っていて その言葉どおりを実行したか?  (い) 《線路の上に身を投げ出せば 列車は止まる》と考えたか? そう思って実行したか?  (う) 線路の上に 列車を止めるによい石を見つけてそれを置くといったことは考えなかったか? ほかの方法はなかったか? 考える時間がすでになかったか?  (え) まさかかれが 《身を投げ出して列車を止めることが出来れば 死んだとしても おれは災害を防ぎ皆を助けることが出来るからには 英雄である。へっへ。》などと思うことはないだろうが 果てさて その最後の瞬間にかれ長野政雄は いったい何を思ったか? 何を思ったとあなたは考えるか?  (お) 列車が止まって被害をこうむらずに済んだ乗客らは この結果を見知って どう思ったか?  (か) 松山藩筒井村の作兵衛たちは 飢饉に際して そこら中にある食べられるものはぜんぶ食べるということをこころみたか? 魚は獲れなかったのか? 田んぼや川の蛙でも田螺でも 草でも森の木の皮でも 食べることをこころみたか?  (き)  ▲ 《村人は作兵衛が麦の種もみを俵に詰めて枕にしているのを見て、それを食べることを勧めたが・・・》  ☆ というように とうぜん 人びとは《共生》を図ったはずである。もう なすすべはなかったか?  (く) ★ ~~~~~~   江戸時代の飢饉で、餓死者多数。   作兵衛も餓死寸前でしたが、枕袋の麦種は食べずに残しました。   翌年、その麦種が蒔かれ、多くの命が救われたという話です。   ・・・   このような自死は、残された者のなかに生きているような気がします。   ~~~~~~~~~~   ☆ 単純に尋ねるのですが 《残された者たち》は それぞれどういう思いを持ったのでしょう? 《負い目》を感じることは なかったか?  (け) 負い目を感じることになると誰かさとく前もって予測した場合には 作兵衛をして 殴ってでもけんかをしてでも その種籾を食べるようにさせた。か?   (こ) 自分も生きおまえも生きるという道を模索するのが 絶対命令であるかないか?

その他の回答 (22)

回答No.2

ブラジュロンヌ様 おはようございます。 私自身はこの聖句を読むとき、キリストが神であったことに救いを感じます。 現実世界の中で、人間がこのような行為すれば、その友人だった人は、生きるということに対しどんな負担がかかるでしょうか?後追い自殺するかもしれません。 しかし、友のために死んだ、キリストが確かに存在したと考えれば、私も、その生き方を見習わないといけないと思っています。 また、先の、利他とは?で投稿しました、戦争の話しに戻りますが、戦後の焼け野原から日本がこんなに豊かになったのは、ひとえに、死んだ戦友の鎮魂のために、建設的で利他的な行為における、年配の方々のたゆみのない努力だったのでは私は思っております。戦死した友人の方々の分まで私は生きなければならないと。 そんな方々からバトンを渡された、戦争を体験せず、物質的な豊かさをあたりまえのように感じている私は、小さいことであれ、日本人として何をすべきか考えさせられます。 遠藤周作は、「沈黙」の中でこんな言葉を書いてます。 「キリストは美しいものや良いもののために死んだのではない。美しいものや良いもののために死ぬのはやさしいが、みじめなものや腐敗したもののために死ぬのは難しいと私はその時はっきりとわかりました。」46ページ 考えさせられますね。 また、時間があるときに投稿いたしますので、よろしくお願いいたします。

bragelonne
質問者

お礼

 あめんほてぷ2000さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  さて第二ラウンドのごとくですが しっかりと着実に問い求めてまいりたいと思います。  そしてここでも 質問者は天の邪鬼に成り切ってすすめます。  ★ ~~~~~  現実世界の中で、人間がこのような行為すれば、その友人だった人は、生きるということに対しどんな負担がかかるでしょうか?後追い自殺するかもしれません。  しかし、友のために死んだ、キリストが確かに存在したと考えれば、私も、その生き方を見習わないといけないと思っています。  ~~~~~~~  ☆ ここにおける推論の過程と言いますか どういう思考が成されているかと言いますか あるいは要するに論点となる主題と言いますかが けっこう多いですね。一筋縄で結論に到ったとは思えません。  (あ) ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~    (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか?   ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この要素をまったく捨て去るわけではないのだとおっしゃていると受け取られます。友が自分のために命を捨てたのかと知った人間は  ★ 後追い自殺するかもしれません  ☆ というのですから。  つまり《友のために命を捨てた》人は そのような事後の成り行きについて知っていてよいはずです。分かるはずです。けれども 知っていながら その《後遺症》の予期を振り切ったというその考えは 何だったのでしょう?  (い) ★ しかし、友のために死んだ、キリストが確かに存在したと考えれば  ☆ ということは どういう内容を持っていて 前項の《後遺症の振り切り》をもたらしたのか?  (う) キリスト・イエスが たとえば  ▲ (アウグスティヌス:はりつけの死なるパラドックス) ~~~   キリストは殴られることによって殴る者に勝ち   苦しみを受けることによって苦しみを知らない者に勝ち   愛することによって〔――殴った者たちへの恨みから自由であったことによって――〕勝ったのである。    (アウグスティヌス:詩編講解 第117編〔12〕 林明弘訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というようなかたちで《この世に対する勝利》を成就したのだとすれば  (i) すでにこの勝利は 普遍的に成っている。と捉えらえる。《わたしは すでに勝利している》。  (ii) のだから 磔のようなかたちで《友のために命を捨てる》ことは もう要らなくなっている。のではあるまいか?  (iii) 一般的にも《苦しみを受けることによって苦しみを知らない者に勝つ》というそういう事態としてキリストに倣いて進むことは ありがたいことに もう要らないのではないか? 基本的には。  (え) ゆえに あとに遺された友が負い目を感じ後遺症に悩む必要のないようにしなければならないという考慮と自覚は 《友のために命を捨てる》人にとっては 大事なのではないか? 必ずしも――聖句があるからと言って――キリストにそのまま倣うことは ちょっとした軽はずみなのではないか?  ★ ~~~~~  遠藤周作は、「沈黙」の中でこんな言葉を書いてます。   「キリストは美しいものや良いもののために死んだのではない。美しいものや良いもののために死ぬのはやさしいが、みじめなものや腐敗したもののために死ぬのは難しいと私はその時はっきりとわかりました。」46ページ  考えさせられますね。  ~~~~~~~  ☆ (お) 遠藤周作は ひとことで言えば 神を《想像をとおして》ではなく そうではなく《想像において》受け取っているし 思っている。こう考えます。悪口です。  (か) たとえば 次のような物言いを持ちます。   まづ こうです。  【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6981757.html  ☆☆(その趣旨説明欄) ~~~~~~~  ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。   ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ( b-1 ) 《原罪をあがなってやったなどと言うはずがない》というごとく   ○ キリスト・イエスは 美しいもの・良いもののためにであるにせよ みじめなものや腐敗したもののためにであるにせよ 誰かのために・友のために命を捨てたのではない。ただそういう解釈をも生むことのある事件が起きそういう事態が起きただけである。  (き) つまり もしイエスが おまえたちのために十字架にのぼったのだと言ったとしたなら それ以上に恩着せがましい発言も行動もない。のではあるまいか?  (く) つまりは たとえ《友のために命を捨てようという心づもりを持った》としたら そうだとしてもその人間は その心がそれこそ無縁慈悲のごとく利己や私情から自由であればあるほど そのような《ためにおこなう》ということは 微塵も出さないしその思いすらもうなくなっているはずではないか?  (け) そういう人間は ただただ死んで行くだけなのではないか? それによって友がすくわれたとしても そのような思わくはみじんも見せないし 見せないどころか これっぽっちもその心にはない。はずだ。  (こ) 遠藤は 或る観念の世界にキリスト・イエスの像を描いてそこに閉じ込めたかたちで 読者に見せたいと思っていなかったか? そこには キリストはいない。はずだ。そうではないだろうか?

noname#183245
noname#183245
回答No.1

愛は不合理なものです。 たとえば、そこらへんの人のために命を捨てますか? ぼくなら、捨てません。 やはり、自分がいちばんかわいいものです。 でも、エゴは自己防衛のためには必要なことです。 もちろん、他人を苦しめてまで、自分のしあわせを 手に入れるのはどうかと思いますけど。 愛はこうした合理的なことを超越します。 その人のためなら、命を捨てていいと思えるのですから。 あなたがおっしゃるような重荷とか、 死後のこととか、当事者はそんなこと 考えるヒマがないでしょう。 知りたければ、あなたが当事者になる他ありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ぽえにくすいーう゛るさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  愛は不合理なものです。  たとえば、そこらへんの人のために命を捨てますか?  ぼくなら、捨てません。  やはり、自分がいちばんかわいいものです。  でも、エゴは自己防衛のためには必要なことです。  もちろん、他人を苦しめてまで、自分のしあわせを  手に入れるのはどうかと思いますけど。  愛はこうした合理的なことを超越します。  ~~~~~~~  ☆ 直後のご投稿の次のくだりが 思い合わされました。    ◆(あめんほてぷさん:回答No.2) ~~~~   遠藤周作は、「沈黙」の中でこんな言葉を書いてます。  「キリストは美しいものや良いもののために死んだのではない。美しいものや良いもののために死ぬのはやさしいが、みじめなものや腐敗したもののために死ぬのは難しいと私はその時はっきりとわかりました。」46ページ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしはやはり天の邪鬼であるようです。このご見解に対して反論してみようと考えます。  (あ) ★ たとえば、そこらへんの人のために命を捨てますか?  ☆ あめんほてぷさんにしても ぽえにくすさんにしても結論としては この問いに対して 言わば適宜性があるなら 《はい そうします》という答えが用意されているということでしょうか?  (い) ★ ~~~~    愛はこうした合理的なことを超越します。    その人のためなら、命を捨てていいと思えるのですから。    ~~~~~~~~  ☆ ということは 《意志行為》であるということだと受け取りますが その意志の発動にあたってそのようなエゴイズムに反する内容――つまりいのちを捨てること――をえらぶというコトについての説明は どうなっていましょうか? 《不合理なる愛》として――理由や行為の説明なしに――発動するということでしょうか?  (う) 同じ問いですが    ★ その人のためなら、命を捨てていいと思えるのですから   ☆ というとき その思えるのは 理屈抜きにでしょうか? そういう感覚が生じてそれに意志は 阿吽の呼吸にて したがうということでしょうか?  (え) ★ ~~~~   あなたがおっしゃるような重荷とか、   死後のこととか、当事者はそんなこと   考えるヒマがないでしょう。   ~~~~~~~~~   ☆ 《考えるヒマがない》ことと《理屈抜きとしての不合理さ》とは 別だと思います。後者は 考えた結果 いわゆる大義名分はないのだがという結論を得たあとの行動であるように見られます。  前者は わるく言えば《衝動的な行動》に落ち入っていないでしょうか? 落ち入っていてもよいということでしょうか?     回答No.2のご見解についても 食い下がってみたいと思いますので 参照ねがえればありがたいです。

関連するQ&A