• ベストアンサー

解放感=束縛感?

「逆説的なことですが、自己解放のためには、強力で多くの事柄を要求するコミュニティが必要です。………………自己創造の作業を達成できるという裏付けは、一つの権威、つまり、承認を拒む力を持っているがゆえに、その承認に価値があるコミュニティだけが提供できるのです」。(ジグムント・バウマン『アイデンティティ』) スレッドを開いて頂きありがとうございます。 上記のバウマンの考え方について、みなさんの意見を教えて欲しいです。 自由ってなんなんだとこんがらがってきたのでこんなスレッドを立てました。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#191845
noname#191845
回答No.3

何が逆説的かといいますと、人間は不自由な環境のほうがかえって自由に生きられる。というようなことを言っているのだと思います。 不自由から人間は欲望や野心=目的を抱き、それが生きる原動力になると思います。 自己実現には、目的が必要です。

foosun
質問者

お礼

回答ありがとうございます。たしかに自由だったら目的も何も無いのかも。 鋭い指摘ですね。

その他の回答 (3)

回答No.4

善=悪 愛=憎 美=醜 生=死 神=悪魔 、、正しい=間違い 開放感=束縛感 これら相反する二つのものは、対立し会い、規制し合いながらも、一つの統一体をなすものである。 善=悪 とは。善×悪=一つの統一体。善がなければ悪はない。悪がなければ善はない。 善と悪は、一つの統一体、これを1(いっ)と言います。老子の考え方です。 人を愛する心が人を憎む心であり、神の存在を信じる者は悪魔の存在を信じる。 人を愛する心を滅した者に人を憎む心は起こらないし。 神や霊魂の存在を信じない者が悪魔や幽霊に怯える事はないのです。 表裏一体、表がなければ裏はない、裏がなければ表はない。 表が白、裏が黒のコインは、表が現れている時は、裏は不確定「×1」であり(この ×1 を、老子は   、無、と言っています、ゼロ、とか、無限、という概念はありません、すべての存在は 1(イッ)なのです)  表×1=白 であり 裏が現れている時は 裏×1=黒 となります。 両方が同時に現れる事はないのです。 何故、そうなるのか、それが。この世界の基本的、在り方、起こり方、道(トウ)であるから、となります。 その考え方、道理(とうり)とは 道は道にして常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず。 無を天地の父に名付け、有、を大地の母に名く。 もって無はその檄を現らわさんと欲し、有、その嬌を誇示せんとす。 考えている事は 道=道 ではあるが、それでは、道-道=0 となり、何も起こらない。 存在、となる為には、常でないもう一つの道、が一体となって、 道×(常でない道)=l(いっ)となって、一つの存在となる。 常でない道、とは何か。道の逆数である、ですよね。 つまり 道×(1/道)=1 となって、一つの存在となる。 万物の根源は、根源単為の、有、(嬌、=姿形あるもの、)があった。 しかしそれだけでは、何も起きない、世界が起こる為には、もう一つの。 無(檄=方向性)が一体として付随していなければならない。 有=無 有×無=1 が万物の根源、となるものです。 在るとは方向性があること、とは、西洋思想、カント、もサルトル、も言っていましたが。 最初の方向性、は何か、これは、近づこうとする方向性しかないでしょう。(遠ざかる、では世界は起こらなかった)、それはさておきますが。 名は名にして常の名にあらず。認識の世界においても、基本起こり方は、同様である。 善=善 善-善=0 では意味にならない、 善×(1/善)=一つの認識単為、であり。この(1/善)が悪という名=認識 になる。 善と悪は、一つの認識の表裏であり。善=悪 となる、 善とは、悪とは、ではなく、善悪、とは。愛憎、とは、と考えるのが、東洋哲学、であり。 分離、並存(+)させる、幼稚な足し算思考?をするのが西洋思想、と言えるかも? 私も若い頃読んだ、ヤスパ-スだったかの「哲学入門」とかの中に、哲学書の紹介があり、 その最後に、東洋には、質量ともに、注目するような書はない。とあったのを 真に受け、西洋思想に知恵を求め、疑問、失望、していたものですが、 釈迦と老子を知った時、遠回りをしてしまったと、後悔みたいな思いをしました。 西洋の、心の思想、などを学んでも知恵の足しにはなりませんよ、とは言いませんが(言っている?)。 知恵=心 知恵×心=1   知恵と心は対立物であり、同時には想起しない。 知恵を目覚めさせるためには、心を眠らせなければならない。迷い苦しむのは、心、であり 、知恵が想起している時は、静けさ、安らぎ、にある。というのが、釈迦や老子の基本的な考え方 でもあるようです。 私は、30年ばかり前から読書はしない、自分で考える主義?ですので。ご質問の書、著者、については 知りません。的外れの回答でしょうか。

foosun
質問者

お礼

力のこもった回答ありがとうございます。 すごく示唆的なご意見だと思います。ちょっと考えてみますね。

noname#183245
noname#183245
回答No.2

なるほど。 まず解釈すると。 自由に振る舞うためには、人の協力がいる。 そして、そこにはしがらみもある。 強力なグループに属すれば、自由に振る舞える。 しかし、その分、しがらみによる縛りも大きくなると。 たしかに逆説的ですね。 ぼくはそうは思いません。 今は個の力が強まっています。 それに人間力も問われる。 こういったしがらみがなく、 自由に物が言える組織のほうが長続きしています。 リーダーはやさしいほうがウケがいいし。 この時代は、身分制度があったのでしょう。 派閥とか、組織のしがらみも大きかったのだと思います。 だから、強力なグループに属する=成功みたいな感じだったのでしょう。 日本で言うなら、一流企業に入る=一生安泰みたいな。 この哲学者の時代背景を見事に映し出した文章ですね。

foosun
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自由人ばかりで団結ってできるんですかね。自由な性格の人の集まりには「自由であれ」ってルールがあるような気がします。どう思われますか?

回答No.1

河島英伍の歌、「てんびんばかり」の歌詞に、 「うちの子犬はとても臆病で、ひとりでは街を歩けない 首輪をつけると、とても自由だ 僕を神様だと思っているんだろう」 (引用:河島英伍作詞「てんびんばかり」より) という一節がある。 人は知らない事はできない。 未知のものの潜在において、不安や恐怖によって 自由は阻害される。 その未知という名の自由を、権威や規範といった 先入観によって放棄する事で、未知を予断する 自由が得られるのだ。

foosun
質問者

お礼

回答ありがとうございます。わかりやすいまとめで腑に落ちました。 いつもこのぐらい端的な回答だと有り難いですorz

関連するQ&A