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Credo,quia,absurdumについて

タイトル中のラテン語を普通は 不合理ゆえに吾信ず と訳しますね。平たく言えば「不合理だから(だからこそ)私は信じる」ということでしょうか。 この「不合理だから信じる」については、手持ちの辞典等では (1)逆説[英paradox]-1)一般に認められている見解と背反する、あるいは少なくともそう見える見解、奇をてらって人を驚かすために大した根拠もなく逆説が語られる場合もあるが、神の経験は尋常の言語では表現できぬと考えて、それを逆説をもって語る宗教的思索家の場合もある。教父テルトゥリアヌス(Tertullianus)の「不合理なるがゆえに信ず」という言葉などはその例。2)は略 岩波小辞典「哲学」44p (2)不合理なるがゆえに信じる[ラ credo quia absurudum est]-〈(キリスト教の)信仰には理性にたよるよりもキリストのオシエと権威に信頼をおくことが必要だ〉〈不合理な、リクツに合わない事柄をマルノミに信じてこそ、合理的なコトばかり信じるよりも大なる信仰が得られる〉という意味の、信仰第一主義を示す命題。《合理的に考えてもどうせ分からないのだから、グズグズリクツをこねずに頭から信じこむほかはない》という長いモノにはマカレロ的敗北主義を意味するものではない、とキリスト教神学では説明する。(この命題は2世紀中頃に生まれたテルトゥリアヌスTertullianusの語と、17世紀以降考えられ、またアウグスチヌスの言葉ともされた。しかし二人の著作をあらっても、こうした文句は見出されない。もっともこうした考えを示す箇所はある)増補改訂「哲学・論理用語辞典」三一書房 226-7p とあります。 もっと調べればいいのでしょうが、思うに、この文言のキモは「信仰は合理を超えたところにある」という解釈でよろしいのでしょうか。 すれば、当方のように「信仰から遠い存在」者には逆立ちしても「信仰」を理解することはできぬ、と考えるべきでしょうか。 また、このことについて解説してある著作などをご紹介いただければ有難いです。

みんなの回答

noname#91529
noname#91529
回答No.4

(「神の存在証明」・「思弁」・「二律背反」等の伝統的言葉を含め)、 キリスト教的伝統からすると学術的論理を超えた範囲に「信仰の対象」が存在するという意味で解釈するべきでしょう。 決して「経験合理性を超えるもの」ではありません。 (この議論自体を肯定すること自体が、信仰の対象・信条でもある) credo quia absurdum (RのあとのUは除いてください)について 元の言葉は、「起こりえないことでも信じることができる (credibile est, quia ineptum est」。この言葉は、キリスト教者の心情・信条を代弁するため、生涯哲学者として生き抜いたテルトゥリアヌスが、自身の弁明書簡「キリストの聖なる肉(カルネ)」のなかで、述べた言葉。当時、迫害されていたキリスト教の信者たちの社会的地位を獲得する為、多くの作品を書き残した。基本的にキリスト再誕の奇跡を実際に見たものがいれば、目撃者によって知覚された現象が真実であるという立場をとり、それを貫いている。 プラトン学派の不可知の真実(phantasm・新プラトン派の幽体離脱も加味)とアリストテレスを継承する哲学者達の形而上なるもの(tametataphysika/ metaphysic )を意識して、 不可思議な現象の可能性を強調し、表現されている。問題は、トーマス・ブラウン卿(17世紀の科学者キリスト教神秘主義・Thomas Browne)が、この言葉を誤って引用(certum, quia impossible est:信の対象とは、「不可能」という属性をもつ) 。さらには自己解釈(credo以下の引用)した。よく非論理的キリスト教の近年になって理論的背景となることがある。いまアメリカ教条主義者の間でトーマス・ブラウンの人気が高いということも興味深い。(進化論の反駁・・・もどき) ttp://www.tertullian.org/articles/sider_credo.htm

never-ness
質問者

お礼

回答を有難うございます。質問を締め切るためにお礼欄を使用させていただきます。 お示しの文中、「学術的論理を超えた範囲」という個所と「経験合理性を超えるもの」ではない、という部分の整合についてよく分からりません。(仰りたいことのおおよそは理解したつもりですが) この質問は当方にとってずっと疑問に思ってきたものです。再び思索を深めていきたいと思います。またお世話になることがあるかもしれません。そのときはよろしくお願いします。

noname#194289
noname#194289
回答No.3

言葉だけの問題ですが、信ずるというのは納得するというのと違うと思います。理解できないがどうもそうらしいというような時に信ずるという言葉が使われるように思うのですが・・・

never-ness
質問者

お礼

回答有難うございます。質問を締め切るためにお礼欄を利用させていただきます。 「信じる」はそれが「何であるか」より優先するということでしょうね。参考になりました。 ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.2

 ★ この文言のキモは「信仰は合理を超えたところにある」という解釈でよろしいのでしょうか。  ☆ 《合理を超えている》ということは 基本的に一般的に 経験合理性を容れているという意味です。と同時に その人間の能力の及ぶ範囲に限られるものではないという意味です。  《信じる》という心の志向性は 《考える》を超えています。思考によって得られる知解を信じても 仕方ありません。それは 二重手間ですし 余分の強調です。つまりはまた アイドル(イドラ・偶像)視するものですが これは 趣味の問題です。哲学思想の問題ではありません。  具体的に わたしたちは一般に 仏教を信じるあるいはキリスト教を信じると言ったりします。けれども 《おしえ・教義》は 人間の想像力によって表象され 人間の言葉で表現されたものです。つまり《考える》にとっての純然たる対象です。それを信じるのは 二重手間です。  つまり もしわれわれ人間が 何かを信じるということが 正当にも あるとすれば それは その対象が 分からないという場合に限ります。あるいは 分からないかどうか これが 分からないという場合です。非対象と言いきることもできない。表象し得ない対象 それを もし 神と表わすとすれば この神というのも 信じる対象を 人間の言葉で代理したものであるに過ぎません。代理物やその想像物を しかも わたしたちは 信じるのではありません。わたしたちは  ★ 逆立ちしても「信仰」を理解することはできぬ、と考えるべきでしょうか。  ☆ そのとおりです。経験合理性による思考とその理解は 叶わぬというのが 正解です。ですが そういうときには  ★ 「信仰から遠い存在」者には  ☆ ではなく そうではなく すでにわたしたちは 一人ひとりが 自己の内面において その主観においては 真実の心の志向性を抱いているというのが 実態であり 正解です。  教義・教祖・教団を持つかたちの集団としての宗教は まったく別ですが 個人の信仰というものは 誰もに ふつうに 存在しているということになります。《宗教として〈信仰〉を持つ》というのが 人類最大の誤解であり この誤解においてある人は かれらこそが 《信仰から最も遠い存在》者なのです。  この誤解から自由になれば 人は 一般に だれもが それぞれ 信仰者であるはづですよ。人がどう思おうとどう言おうと 個人にとっての真実が 存在する限りでは それは 信仰という事態であると言うべきです。  長くなりましたが ご批判も 自由に どうぞ。

never-ness
質問者

お礼

回答を有難うございます。質問を締め切るためにお礼欄を利用させていただきます。 と申しますのもこの質問をめぐって当方は長い間考えてきましたがいまだ一定の結論に達していません。これからも(今後も)お示しいただいた考え方を参考に<信じる>とは何かについて思索を深めて参りたいと思います。 また機会があればお教えいただくこともあるかもしれません。 ありがとうございました。

回答No.1

 門外漢からの書き込み。  これは、中学のとき同級生がいうのを聞いたことがありました。  そのときは、理屈がないから、信ずるのだとしか理解していませんでした。  1. 判断と認識、そして決定(おなじことでしょうが)には理屈なく直截きまってしまうこともある。そして時にはあとから、理屈が見つかるか、くっつくこともあり、そうならないこともあり、だんだん生活の中で根をおろして、実在化していくものもありました。(あってきました━変な日本語)  2. 信仰という認識もある。信仰は認識である。といえると存じます。そこには誤謬も時にはありうるが、自分の欲望、執着、偏見、狭隘をとれば、それほど間違いはない。いえ正しい。  3. 三途の川でなく、理屈の河をわたることは認識のためには必要な場合もある。  4. 私の景仰する教えの参考にしているものに禅宗がありますが、その一つに臨済があります。  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4035774.htmlにおいてANo.1さんが臨済の「直踏」ということばの意味を教えてくれています。  これは、いろんな宗教でも通じる大事な話だと私は存じます、ご参考になるといいですね。

never-ness
質問者

お礼

回答ありがとうございます。質問を締め切るためにいったんお礼を申し上げます。 回答を何回か読ませていただきましたが正直申して回答者さんが何を言いたいのかよく分かりませんでした。 当方の質問に暫しの間キーボードに向かわれた好意に感謝します。 今回の質問内容は当方にとっては小さくない問題です。また、こちらの考えがまとまった時点で再質問させていただきます。

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