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個性は群衆精神の問題なのか?
- バウマンの説によると、個性は結局群衆精神の問題であり、群衆からの強制的要求だという。
- アイデンティティの本質は自分と同質な他者と群れることにあるとバウマンは主張している。
- 他者に認められるなら、アイデンティティの中身はどうでもいいのかもしれない。
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質問者が選んだベストアンサー
似たような表現で、小林秀雄の言葉で次のようなものがありました。 「社会のあるがままの錯乱と矛盾とをそのまま受納する事に堪える個性が強い個性である。」 かっこいいのでそのままノートに書き写してしまいました。 ついでにこんなことも言っています。 「社会は殻に閉じこもった厭世家や人間廃業者等を少しも責めない。その癖いつも生身を他人の前に曝している様な溌剌とした個性には、無理にも孤独人の衣を着せたがる。」 世の不条理にどれだけ堪え、受けとめられるかが強き個性であるといっているようです。
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- ノーバン(@nobound)
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No.6です。お礼ありがとうございます。 「Xへの手紙」 (新潮文庫)の92頁です。1日経て結局、個性って「出る杭は打たれる」ということだと、おぼろげに理解しました。
お礼
教えて頂いてありがとうございます。 なるほどそういう理解もありますか!バウマンはヨーロッパの学者ですから、多分出る杭は打たれるのって日本だけじゃなく世界共通なんでしょうね。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
アイデンティティと混同されやすいものにアトリビュートというものがあります。 質問者さんがバウマンを読みとったうえでアイデンティティの本質という言葉を出されているのかどうか、わたしにはわかりませんが、おっしゃるような「金持ちな私」「会社員の私」「モテる私」「哲学の知識をたくさん持っている私」「~~な私」は、アイデンティティという考え方にふさわしいものではなくて、いずれもアトリビュートです。アトリビュートは、外的な力によって変化可能です。 図式化すれば、外からの自己規定はアトリビュート、内からの自己規定はアイデンティティであるということが出来ます。 しかし誤解しないために一応歴史を踏まえると、前近代には、生産共同体における生と、神との距離における自己という捉え方がなまなましいわけで、現存在つまり現場世界と関わる実存を了解しているかのような自己というのは、近代の思想的産物です。 ヘーゲルが対象というアプローチを取って自己というものを考えて踏み出していたところに、19世紀の資本経済・都市経済が、群衆および消費者というカテゴリを産んだので、人は群衆に属する外からのあれこれの性質の塊かつ物象的存在になったとともに、内から現象学的な措定によって自己を問われるような破目に陥るんですね。また、そういう存在を個人と呼んでいるわけです。 キャラクターという概念が個人と結びつくのもそこにおいて起きた事象で、様式が混淆しており選択的であり可変的です。 19世紀にはもはや出生地域と家業がすなわち個性を示すとばかりは言い難くせいぜい一面的な事項でしかありません。しかし17世紀には確かに、出生地域と家業はその人となりを表わす一枚岩のコミュニケーションツールでした。そして、念を押しますが、そのような生産共同体の人の集団を、どんなジャンルの史学者も「群衆」とは呼びません。わたしも精神医学と療法史の歴史学者ですが、群衆は都市経済の成立した都会に誕生したもので、やがて民衆運動のような広がりを持ちはしますが、群衆のなかの個人もその個性も、物象的であるという特徴を備えています。つまり選択的な対象、可変的な対象であり、値段が付くのです。 群衆の利得をつかさどる力学に要請された選択性、可変性、および交換価値性がはたらくのは、おしなべてアトリビュートなのですが、しばしば人のアトリビュートとは非常にアイデンティティに接近したものになります。後述しますが、アイデンティティのもっとも本質的な部分とは、自己における意識の持続と対象志向性にあります。それゆえ、文化や歴史の積み重ねが、価値の持続を与え志向性を授けることがあり、とりわけ人種問題にはこのことが難しい影を投げかけます。ユダヤ人などもそうですが、民族というアトリビュートそのものにアイデンティティを問うことになるからです。 蛇足ながら精神医学では、アイデンティティとは下記のことを指します。 文字通りの自己同一性であり他者との分別です。 ふつう、疾患や障害や錯乱でなければ、意識することのないものであり、もちろん探したり求めたりすることはありません。 ・自分の身体が他者のものではなく、質量を持ち、位置や方向を備え、空間を占有していること。 ・自分の記憶が他者のものではないこと。 ・主観があり、中心に自分がある感じがすること。話している自分は他者でなく自分であるとわかること。 ・これらが持続していること。
お礼
回答ありがとうございました。アトリビュートという考え方があるんですね。バウマンの本には一度も出てこない言葉です。そもそもバウマンは、アイデンティティもアトリビュートの一種だと考えているようです。 もちろんアマガッパさんの言うようにアトリビュートがアイデンティティになる事もあるでしょう。 もしかしたらアイデンティティとアトリビュートを明確に区別することは難しいのかもしれませんね。
- alterd1953
- ベストアンサー率20% (239/1173)
alterdです。思想というより哲学といった方が良いかもしれませんが 主に、フロイトに始まって、老子、ウィトゲンシュタイン、フッサール ニーチェ、ラッセル等の影響を受けてますが これらを、まともに語れる人と実際に出会ったことはありません。
お礼
なるほどー。私はフッサールやウィトゲンシュタインみたいな抽象的な話は苦手ですw
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
>結局、他者に認められるならアイデンティティの中身なんか実はどうでもいいのではないでしょうか? もしそうだとしたら、自分と同質な他者を求めるというより 他者と同質になることだけを求めてるってことになりませんか。 中身は何でもよくて、群れることのみを目指すならとっくに一つにまとまってるでしょうね。 自分探しは自分の中を探さないと見つけられません。 他者の中にあるものを見て自分を探そうとすれば、いつまでも見つからないと思います。 書いてることは当たり前なことですが、人(自分以外)の中に自分を見出すことを やってることに気がつかないとスタートしないでしょう。 自分と向き合って、自分の中を覗き込むことです。 同意したいなら何故同意したいのか、反対したいならなぜ反対したいのか。 その根拠まで、自分を理解することではないでしょうか。
お礼
>>もしそうだとしたら、自分と同質な他者を求めるというより他者と同質になることだけを求めてるってことになりませんか。 必ずしもそうなるとは限らないと思いますよ。 回答ありがとうございました!
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 もしその文脈で考えるなら こうなります。 すなわち 《アイデンティティ》とは 人が社会における共同生活の中で他者もしくは集団の要請に従うというかたちで《群れる》ことを余儀なくされるという前提で考えるなら その群れるとき他者からの要請をどのように受けとめ どのようにその要請に従ったか これが 《わたしがわたしである》ことの証明になる。 たとえば 人びとの織り成す社会力学上の要請に従ったばあいでも 従う振りをしているという場合もあります。振りの仕方にも 人それぞれのクセ(エートス)から基本的な考えまでいろんな要素に応じて 違いが出て来ています。 アイデンティティと言うのであれば そのような《わたし性》は 言われるところの《群衆精神》のあいだにあっても まだなお有効でありましょう。
お礼
非常に重要な論点だと思います。ありがとうございました。
- alterd1953
- ベストアンサー率20% (239/1173)
プルーストは同じようなことを 「思想を共有する人間は、結局、同じ人間である」と述べていました。 私も賛成します。 ただ、私は芸術的にも思想的にも少数派ですので アイデンティティの中身には徹底的にこだわります。 ですので、誰に認められるかは非常に重要であり 今まで、群れられる程の人数がいたためしはありません。 そして、その事を別に不幸とも思いませんし 確固たるアイデンティティを持って生きていることに幸せを感じています。
お礼
回答ありがとうございました! alterdさんの少数派の思想というのは、具体的には何なのでしょうか?差し支えなければ教えてほしいです。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
この問いの本質は、「価値」が相対的なもの(他律的= 他人の評価に依存=唯物論)か、絶対的なもの(自律的 =自己の評価によって他も存する=観念論)かの相違に つながります。
お礼
回答ありがとうございました! 深い言葉だと思います。ぜひその本、読んでみたいです。何て本でしょうか?