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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:文語文を現代語訳していただけませんか)

文語文の現代語訳と大槻氏と岡澤氏の見解について

このQ&Aのポイント
  • 文語文を現代語訳する方法として、大槻氏と岡澤氏の見解について詳しく解説します。
  • 大槻氏の見解は岡澤氏とは異なり、一部に重大な誤解があると指摘されています。
  • 具体的には、大槻氏の主張が「は」の意味に関するものであり、岡澤氏の主張が主語を示すものであるとされています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.3

 2番回答者です。  会社でコーヒーを飲みながら、蛇足めいたことを書かせていただくわけですが、  いま私は交通事故の賠償請求訴訟を、JA共済らを相手にして行っています。  本人訴訟なので、自分で訴状や準備書面を書いているわけなのですが、こういうものを書いていると、書いているうちにどんどん興奮したり、思い出すことがあったりして、例えばA、B、Cと主張を書いてきて、Dで相手の言葉に対する反論を書こうとして「しかるに」とか「ところが」と書いた瞬間に、べつな主張を思い出して、Dも、さらにEもこちらの主張を書いてしまう。  結局、「しかるに」「ところが」の次に書くはずだった相手への反論を書かないでしまったりすることがよくあります。  しかし、「しかるに」「ところが」という言葉は残るわけで、つじつまが合わなくなるのです。  (で、数日おいて読み直す作業をしますが、自分で書いた文の間違いは、頭の中で修正しながら読んでしまうので、なかなか気が付かない場合が多い)  そういう体験をしているので、その著者も、書いているうちに方針が変わってしまったのだと思うのです。自覚なしに。  「謬見にして」の次にも、大槻氏に対する批判を書こうと思っていたのに、ついうっかり岡澤氏への批判を書いてしまった、書いているうちに興奮して岡澤氏は大槻氏よりももっと悪い、という展開になってしまったということだろうと推測しています。  これは文法の学者だろうがなんだろうが、気分の問題なので、当然ありうる話であろうと思って著者に同情するしだいです。  決して、文法学者の文法知らず、ということではなかろうと思います。  

hakobulu
質問者

お礼

再びありがとうございます。 > 「謬見にして」の次にも、大槻氏に対する批判を書こうと思っていたのに、ついうっかり岡澤氏への批判を書いてしまった、書いているうちに興奮して岡澤氏は大槻氏よりももっと悪い、という展開になってしまったということだろうと推測しています。 : 大いにあり得る状況ですね。 同感できます。 > 決して、文法学者の文法知らず、ということではなかろうと思います。 : 了解です。 お忙しいところお時間を割いていただきありがとうございました。    

その他の回答 (4)

  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.5

良いと言っていないじゃん。 読点以降が結論ならば、それは、岡澤氏はなお劣る、ですよね。 私は馬鹿であるし、君は…… で、君は私に劣ると結んだら、論理矛盾しますか。 文意を曲解しなければいいのでは? 係らなくいいと思うのですが。 要するに、岡澤氏が劣るで結ぶ一文ですが、その一文に二者を登場させたいだけの構造です。ズラズラ続けずに全部、単文にしたらいいのですが、そこは表現者の自由ですし、学者持ち回りの文体にはめただけの機械的作文でしょう。福沢からの引用箇所は同類の雛形ではありませんか。どちらもパラパラの内容を一文に合体させています。 理科用語の転用は良くないけど、波長というのですかね、それが合わない読者には余計分かりにくくなる悪文体です。 係り強迫観念になられていませんか。 質問者さんはもっと伸び伸び読解される人ですよね。 漢文調を相手にしてもその平常心の方が妥当なのではありませんか。 桃太郎が発端ですよね。気づけば、赤鬼大槻、青鬼岡澤にたどり着いた感じですが。 意外にも質問者さんが一番几帳面だったという事実ですかね。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >私は馬鹿であるし、君は…… で、君は私に劣ると結んだら、論理矛盾しますか。 : するんじゃないですかね。 「私は馬鹿であるが、君は私より劣る」でしょう。 このように言うと前半は従属節になるので後半が骨子であることが明確になる。 「私は馬鹿であるし、君は私に劣る」は、前半と後半を並列、あるいは対比したい意図があるわけですが、対比の一方の要素である後半部に、並列の要素(私)と対比の要素(君)を無理やり詰め込んでしまっているため矛盾が生じ不自然になる。 こういうことではないかな、という気がしますね。 並列・対比というのは、たとえば、 「君は馬鹿だし性格も歪んでいる」のように使うのだと思います。文語だと、 「君は馬鹿にして性格も歪みおり」とでも言うんですかね。 「し」や「にして」の解釈の問題だけでなく、どこまで意味を広げることが可能か、という個人的な感覚の問題も関わってきそうです。 桃太郎が始まりですが、ここは重要な箇所ではありません。 読み飛ばしても良かったのですが、ちょっと気になって質問してみた次第です。   

  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.4

文脈が分かりませんが、たぶん、文語の知識不足ではなく、論理性だと思います。そして頭の中で話を作り替えずに現代語訳する文意の保全ではありませんか。日本人は情緒を挟みすぎて合理的に完結しないから議論が不得手です。 最後のところは、大槻氏の方が良いと書かれていない。 論理的におかしいと解さざるを得ずと解すべからざるかな。 われ十有五にして学に志す。 天網恢々疎にして漏らさず。 これを順接や逆接にするのは解説文(現代語訳)です。文語は書き下し文の文体です。にしてを而に変えたらどうなりますか。 而が而であるように、にしてはにしてなのです。質問者さんの要求は而が論理的におかしいというお願いです。日本人がやりがちです。中立的でいられない日本民族です。 味気ない漢方薬を飲み込みやすくする手心は読み手の頭の中の自由であって、主客転倒して原文に求めてはダメでしょう。 どのように読点を打ちながらそこまで来た文章なのかその傾向が回答者には見えませんが、現代人的には岡澤氏の前に読点がないのが難点です。脱せずの後の読点を岡澤氏の前に持ってきて一気に読んで終えば腑に落ちませんか。 インテリ日本人の小姑根性を幕末の頃から指摘し続けては個人個人の対等性と独立精神を勧めてやまない人物の著述を引用しますが、 「この国は人民の掛り合いにして、しかも金主の身分たる者なれば、なんとして国の盛衰をよそに見るべけんや、たしかにこれを引き請けざるべからず」(学者安心論。福沢諭吉) 俳句をよく知る質問者さんには常識でしょうが、 「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」(奥の細道。松尾芭蕉) ↑「だからの構文」に又なりますかね。何かと係らならくていいと思います。月日と年、大槻と岡澤。男らしく分立させられています。 質問者さんが何餅を好きか知りませんが、文語体は、英語よりパラパラしていると炒飯に思います。ベタつく日本米の炒飯です。とろろイモ納豆系は漢文調と馬が合わないのではありませんか。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ちょっと意味不明な箇所が多くてよく理解できなかったのですが、 >最後のところは、大槻氏の方が良いと書かれていない。 : 「大槻氏に比して数歩を譲らざるべからず」は大槻氏のほうが良いということだと思いますが。 >これを順接や逆接にするのは解説文(現代語訳)です。文語は書き下し文の文体です。にしてを而に変えたらどうなりますか。 而が而であるように、にしてはにしてなのです。質問者さんの要求は而が論理的におかしいというお願いです。日本人がやりがちです。中立的でいられない日本民族です。 : 素養がないせいだと思いますが、ここもおっしゃっている意味がよくわかりませんでした。 要するに、大槻氏の説は「謬見である」という事実を示しつつ、大槻氏のほうが良い、と言っていることが論理的におかしいのではないか、と思ったわけです。 #1さんは(わたしの判断によれば)拡大解釈、#2さんは間違い、という解釈をなさっているわけですが、回答者さんは、このままでも論理的な(文法的な)矛盾はない、というお立場ですか。 >脱せずの後の読点を岡澤氏の前に持ってきて一気に読んで終えば腑に落ちませんか。 : この故に大槻氏のこの「は」を以て「だに」等と同一視せられしは重大なる謬見にして、岡澤氏が之を主語を示すものとせられたるは確に翻訳文典の臭味を脱せず大槻氏に比して数歩を譲らざるべからず。 ということですね。 まあ、それもひとつなのだと思います。 ただ、「(に)して」が接続詞である以上、「~であり、しかも」という意味の係っていく先が必要でしょう。 これがどこに係っているのか、という質問です。 「謬見にして」というのであれば、「数歩を譲るべからず」に係るのは不自然ですし、「謬見にして翻訳文典の臭味を脱せず」という意図であれば、「脱せず」で句点を打つべきでしょう。 そういった意味で、この原文のままでは不完全ではないだろうか、ということです。 >「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」(奥の細道。松尾芭蕉) ↑「だからの構文」に又なりますかね。何かと係らならくていいと思います。月日と年、大槻と岡澤。男らしく分立させられています。 : 「月日は百代の過客であり、しかも行きかふ年も又旅人である」 のようにわたしは解釈していました。 分立と言っても、あくまで「時」という要素で共通の基盤が無いと不自然なわけで、 「月日は百代の過客にして終日のたりのたり哉」とは言わない(言えない)のではないか、ということです。 『にして=であり・・・しかも』には、  「月日は百代の過客である。[だから=ゆえに]行きかふ年も又旅人なのである」という【含意】があるんじゃないですかね。 まあ、鑑賞専門の素人なので自信はありませんが。 むろん、「彼女は成績優秀にして美人である」という表現もありますから、この含意はあくまでシチュエーション次第で、という意味です。 ただ、「謬見にして」⇒「べからず」という構文である以上は、「だから=ゆえに」という含意は必然ではないか、と考えるわけです。 他に挙げるとすれば、「これはわたしの持ち物にして、盗むべからず」などといった例でしょうか。   

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

 貴殿の言わるるがごとく解さざるべからず。  それ(おかしな文になるという解釈)でよろしいかと思いますよ。  あえて言えば、 (1) 『重大なる謬見にして』の「にして」は、「なるも、」の間違いと考える。 (2) 大槻氏の から先、脱せず、までを 『 』 でくくってしまい、『 』内は大槻氏の発言、「大槻氏に比して数歩を譲らざるべからず。」は著者の感想と解釈する。  2番目は少しく無理筋ですが(1)以外の方法で筋を通そうとすると、それくらいしか思いつきません。  たぶん、(1)だろうと思います。    

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >それ(おかしな文になるという解釈)でよろしいかと思いますよ。 : そうなんですか。 ただ、筆者が文法学者なのですが。^^ (1)(2)ともに、おっしゃることはよくわかります。 (1)の場合は、岡澤氏批判が筆者の眼目。 (2)の場合は、両成敗+感想。 ということですね。 文法学者の書いた文だけに迷うところです。 私的には(2)が筆者の眼目であるが、岡澤氏との比較も一文に盛り込もうとしたための勇み足ではないかな、という印象ではあります。   

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.1

次のように受け取ってはいかがでしょう。 「このように述素に影響を及ぼすが故に係助詞である「は」を、大槻氏が「だに」のような副助詞と同一視しているのは重大な謬見であるし、(ましてや)岡澤氏が(未だに)主語を示すものであるとしているに至っては、いかにも翻訳文法式のバタ臭さのレベルに止まっている限りにおいて、大槻氏に比して(さえも)数歩も遅れてしまっているのだ。」 大槻氏の方は、あくまでも山田氏の陳述説に至る視点から<して>の、その副助詞との混同という「重大な謬見」であるというレベルにおいての⇒「にして」であって、その後に続く岡澤氏説は、この昭和4年においてなお、40年近く以前の明治初期の英語文法の反復焼き直しの域を出ておらず、その意味では「重大なる謬見<にして>」という言い方さえ不要であり論外なのだ、と。 それなのに、その一世紀以前の亡霊が、今なお日本語学習者からの問いが繰り返されており、この日本での伝統的な係助詞の意味や役割の説明に手古摺らされているという…まさに今なお昭和4年現在なのでしょうか。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「~にして」は「~であって、しかも」といった意味だと思います。 「彼は選手にして監督である」といった使い方。 ですので、「ましてや」は相当の拡大解釈になると思いますが、事実として矛盾することにはならないようですね。 しかし、この「にして」は欲張りすぎな気がします。 どちらも謬見であることと、その範囲での両者の比較をひとつの文にまとめようとして、わかりづらい文にしてしまった。 そんな印象も受けます。 kine-oreさんの解釈だと、大槻氏の同一視が重大なる謬見であることは霞んでしまいますが、岡澤氏批判が骨子の文だ、とおっしゃるわけですね。この意図だと、 この故に大槻氏のこの「は」を以て「だに」等と同一視せられしは重大なる謬見なるが、岡澤氏が之を主語を示すものとせられたるは確に翻訳文典の臭味を脱せず、大槻氏に比して数歩を譲らざるべからず。 と書いてもらうとわかりやすかったかもしれませんね。 重大なる謬見と言っているので、どちらも批判したくて、でも、両者の比較にも触れておきたい。 これを一文にまとめようとしたがためにわかりづらい文になってしまったのかな、などと私的には感じました。 ですから、 この故に大槻氏のこの「は」を以て「だに」等と同一視せられしは重大なる謬見なり。岡澤氏が之を主語を示すものとせられたるは確に翻訳文典の臭味を脱せず、且つ、大槻氏に比して数歩を譲らざるべからず。 などとするとすっきりするのかな、などと考えたりしています。 筆者の真意はわかりませんが、お陰さまで輪郭は摑むことができました。 昭和4年の文なのですか。 しかし、わたしも若いとは言えない年代ですが、昔の文章は味わいが深いですね。 なんとも言えない気品というか、情趣が漂っているような印象を受けます。 意味がわからないのに、こんなことを言うのはおかしいですが。^^    

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