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受動詞を使った文は、なぜ受動態と呼ばれないのか。
受動態とは、能動態文の目的語が主語になり、元の主語が助詞「に」などで表される表現だと思います。 (1) 先生が生徒を教える。(能動態文) (2) 生徒が先生に教えられる。(受動態文) ところが、同じように目的語が主語になり、元の主語が「に」などで表される文章でも受動詞による場合は受動態とは呼ばれません。 (1) 先生が生徒を教える。(能動態文) (3) 生徒が先生に教わる。(受動詞による能動態文) 「受身動詞」(教えられる)と「受動詞」(教わる)の違いがなぜ、構文が同じなのに受動態文と能動態文の違いになるのでしょうか。それとも、受動態とは助動詞「られる」によって、目的語が主語になる場合をいうのでしょうか。この場合は、受身動詞の「教えられる」は受動詞の「教わる」とは違って、一つの動詞ではなく、動詞に助動詞「られる」が後置していると考えられます。つまり、「られる」は接尾辞ではなく、あくまでも助動詞として機能していると考えられます。 日本語文法などでは、「られる」を接尾辞とする考え方があります。しかしながら、「られる」は新しい単語を形成する接尾辞ではなく、あくまで助動詞として機能していると思います。
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- Biolinguist
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>「教えるー教わる」は自他交替ではありません。 確かにどちらも他動詞です。 しかし、目的語が主語になる語彙的操作という点で同じものです。 内項(目的語)を外項(主語)にする語彙的操作です。 (ちなみに、主語を隠す統語的操作が受動態です) 田中先生が 太郎に 英語を教えた。 太郎が 英語を (田中先生に) 教わった。 太郎が 英語を (田中先生に) 教えられた。 ×英語が 太郎に (田中先生に) 教わった。 ?英語が 太郎に (田中先生に) 教えられた。 語彙的操作なので不自由です。 他に 神が 太郎に 子供を 授けた 太郎が 子供を (神から) 授かった。 太郎が 子供を (神から) 授けられた。 子供が 太郎に (神から) 授かった。 子供が 太郎に (神から) 授けられた。 同じ三項動詞でも「教える」と「授ける」では振る舞いが違います。 語彙的操作だからです。 統語的な受動態とは異なるのです。
- Biolinguist
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こういうのは自他交替といいます。 自動詞と他動詞の交替です。 典型的には //e// と //ar// の交替ですが、実際にはいろいろなタイプがあります。 集めるー集まる(atum-e-ruーatum-ar-u) 立てるー立つ(tat-e-ruーtat-0-u) 壊すー壊れる(kowa-s-uーkowa-re-ru) 教えるー教わる(osi-e-ruーosow-ar-u) このようにパターンが一定しないところが受動態との違いです。 もう一つ、「不自由さ」も特徴です。 「教える」は三項述語なので、 ・太郎が花子に英語を教える ・花子が太郎に英語を教わる というペアができますが、英語を主語にはできません。 ×英語が 太郎に 花子に 教わる ×英語が 太郎に 花子を 教わる ×英語が 太郎を 花子に 教わる このような不自由さも受動態との違いです。
- widey
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>「生徒が先生に教わる。」の場合は、動詞「教わる」の動作の主体が主語の「生徒」なので、述語「教わる」を能動態と言います。 ご返答ありがとうございます。 > 生徒が先生に教えられる。(受動態文) 「教えられる」でも動作の主体は「生徒」と言えますよね。 難しいところですね。 ふと思ったのですが、 (2) 生徒が先生に教えられる。 (3) 生徒が先生に教わる。 は「手話」ではどのように区別するのでしょうか。区別できるのでしょうか。私は手話が出来ませんが、面白いと思います。これは別の問題ですけど。
補足
そうですね。 「教えられる」を一つの動詞とするならば、「教わる」の場合と同様に動作の主体は「生徒」になるので、「生徒が先生に教えられる。」は能動態文ということになります。 したがって、この文を受動態文とするには、「教えられる」が一つの動詞ではなく、「教える」という動詞に助動詞「られる」が後置し、主語の「生徒」は動詞「教える」の動作の対象で、「られる」は受動態を作る助動詞としなければなりません。 したがって、日本語文法の中にある「『られる』は接尾辞で複合動詞『教えられる』を形成している」という考え方ではなく、「『られる』は『教える』という動詞に後置して受動態を表わす」とすべきだと思います。
- widey
- ベストアンサー率21% (13/61)
「能動態」の定義を示してください。 そうでないと「生徒が先生に教わる。」が何故能動態になるか、分かりません。
補足
「生徒が先生に教わる。」の場合は、動詞「教わる」の動作の主体が主語の「生徒」なので、述語「教わる」を能動態と言います。 (精選版 日本国語大辞典)【能動態】 文法で、ある動作作用について述べるとき、その動作作用の主体であるものを主語に立てた場合に、述語がとる形式。 (デジタル大辞泉)【能動態】 文法で、ある動作・作用について述べるとき、その動作・作用の主体を主語に立てた場合に、その述語の動詞がとる形式。
- MT765
- ベストアンサー率57% (2080/3618)
素人考えなのですが「教える」は先生がすることで「教わる」は生徒がすることなのでそもそも違う言葉ではないでしょうか。
補足
「られる」を接尾辞とする考え方では、それによってつくられた複合動詞の「教えられる」は、受動詞の「教えられる」と同じ構文で同じような意味を持っています。 (2) 生徒は先生に「教えられる」。 (3) 生徒は先生に「教わる」。 つまり、「教えられる」も「教わる」も一つの動詞だとすると(1)と(2)の文の構造は同じということになります。ところが(1)は受動態で(2)は能動態とされているので、(1)と(2)の文は違う構造と考えざるを得ません。つまり、「考えられる」は一つの動詞ではなく、(1)の文は動詞と助動詞を伴った構文で、(2)の文とは構造が違っていると考えるべきだと思います。 結論的には、「られる」は複合動詞を作る接尾辞ではなく、助動詞の機能を果たしていると考えられます。
補足
「教えるー教わる」は自他交替ではありません。 「教える」も「教わる」も他動詞です。 違いは「教わる」は行為の方向が主語に向かうという「受動詞」なのです。受動詞からは受動態をつくれません。 「先生は日本語を教える」(他動詞表現) 「生徒は日本語を教わる」(他動詞表現)