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宮中某重大事件
事件の内容を知っているからこそ「某」を付けたはずで、なかなかうまく言ったものです。 「宮中某重大事件」と誰が、いつ頃名付けたのですか。 あるいは、最初にこの言葉が使われたのは、どのような場面だったのでしょうか。 当時の新聞にこの言葉が出たことはありますか。 話の中では「あの件」とか「例の件」で通じたと思いますので、「某大事件」としたのは書き言葉であったと思います。 大正10年1月ごろから「怪文書」が政界筋に出回ったそうですが、この怪文書にこの言葉が使われていたのでは、と推測しています。 くどくど書きましたが、よろしくお願いします。
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大正10年5月1日の東京日日新聞に、「前略―宮中の某重大事件から山県公の封事問題と―略―宮中の某重大事件は言うまでもなく山県公は発頭人―略」とあります。 同じ東京日日新聞の同年2月13日の記事には、「前略―昨日、全国同盟新聞倶楽部は、衆議院内議員倶楽部に緊急総会を開き、満場一致左の決議をなし、―略―2、宮中に於ける重大事件に関しては、国民の疑惑を一掃するため、この際該事件の経過顛末を速やかに発表すべし。」ともあります。 さらに、同年3月3日のの時事新聞には、「有力者曰く」として、「宮廷重要問題の解決いかん」との語句も見えます。 以上の記事は「大正ニュース事典」に記載されたものからの引用です。 ご存じでしょうが8年6月10日の皇太子妃内定(内定の新聞記事はあります)から、10年2月10日の「婚約変更無し」の発表(この記事もあります)までが基本的には宮中某重大事件の期間となりますが(山県の辞任問題はありますが)、宮中某重大事件に関して同事典に引用されている記事は、大正8年・9年には全くなく、大正10年2月以降に記載があるのみです。宮内大臣の交代についても、宮中某重大事件に関連付けた記事は載っていません。 10年2月10日の宮内省の発表は、「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し世上種種の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更なし」とするもので、宮内省自身が、宮中某重大事件に関して、「世上種種の噂」があるとしているくらいですから、新聞に載せられていなくても、新聞記者の一部や有力者の間では知られていた事柄であったと考えられます。それらの人々の間では直接的な表現をすることを避け、「あの件」・「宮中の某重大事件」・「宮中に於ける重大事件」・「宮廷重要問題」等の言い方をされており、宮内省の発表を受けて、これらの表現が表に出、その中で「宮中某重大事件」と言う呼称が残り、定着しのではないかと思うのですが。なお、この時期に宮内省の幹部であった倉富勇三郎の日記では、「良子女王の事」「良子女王御婚約の事」などの表現を使っています。 ともかく、助詞の「の」は入りますが、「宮中(の)某重大事件」という呼称は当時の新聞に記載はありました。なお、「怪文書」についてはどのような内容・表現なのかははっきりしません。 以上、参考まで。
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- mm058114
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NO4です。 事件が起こったあと・・・ マスコミに政府は 「宮中において重大事件が発生した。この事は指示がある迄記事等発表してはならない!」 と、命令する。 これは、マスコミが嗅ぎつけても、指示ががある迄、事件が起きた事自体、発表してはならない。 と言う一方的な命令で、一般人に漏れない様にする為。 「政府からが一段落したので発表して良い」 と指示が出る。 当時は報道協定は無く、事件解決後も内容は明かされる事は無い。 よってマスコミは、 「某重大事件」が起きたと、新聞、ラジオ等で発表する。 そもそも真相がわからないため複数の高官が辞表を提出するなどの憶測を報じていた。 事件が解決し皇太子と良子女王は3年後の1924年(大正13年)1月26日に結婚した。 つまり、マスコミによって命名された物。 http://d.hatena.ne.jp/kanetaku/20051127 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6/ これで如何でしょう?
お礼
態々調べて下さってありがとうございます。 「マスコミによって命名された」のですね。 将に、この事実を確かめたくてくどくど質問を続けました。 お陰さまですっきりしました。 感謝の気持ちでいっぱいです。
- mm058114
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NO3です。 ゴメンなさい。 宮内省は1921年(大正10年)2月10日に『良子女王殿下東宮妃御内定ノ事ニ関シ世情種々ノ噂アリヤニ聞クモ、右御決定ハ何等変更ナシ』と発表する。 宮内省がこの発表を行った頃には過激派が山縣や時の首相原敬、他の皇族を暗殺するとの噂があり、山縣が皇族に危害が及ぶ前に解決を図ったものである。 この発表があるまで報道が禁止されていた為、新聞は一斉にこの件を宮中某重大事件として報じたが、そもそも真相がわからないため複数の高官が辞表を提出するなどの憶測を報じていた。 事件が解決し皇太子と良子女王は3年後の1924年(大正13年)1月26日に結婚した。 これで回答になってる?
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 「新聞は一斉にこの件を宮中某重大事件として報じたが…」ということは、新聞社がこの用語を使い始めたと解釈できますが、“一斉に”であれば、そうとは言い切れません。 “某重大事件”と呼べば読者は、一層不思議に思うでしょう。 皇室にとっても新聞にこのような表現の記事が出れば不快ではないでしょうか。 「山縣有朋謹慎」とか「宮内大臣辞任」とかに置き換えて報道できるはずです。 当時の新聞を探してみます。 小難しいことを言ってすみません。
- mm058114
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 簡単に言うと、 昭和天皇の后候補に上がっていた久邇宮長子の家系の色盲による問題です。 昭和天皇の強い意向で結婚しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 この事件を「宮中某重大事件」と誰が名付けたのか、ということが知りたいです。
- poomen
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この言葉は「固有名詞」というか「歴史用語・政治用語」です。 内容は、当時皇太子であった後の昭和天皇(裕仁親王)の、婚約者となっていた良子女王(後の皇后)の家系に色盲の遺伝があるらしい・・よって良子女王は婚約を辞退するべきだ、という圧力が政界の一部(主に山県有朋など)からかかった事件です。 結局婚約は履行されて両者は結婚するのですが、これが原因で山県有朋は事実上失脚します。背景には薩摩閥と長州閥の対立があったともいわれています。 そのまま検索をかければ詳しい内容は読めます
お礼
ご回答ありがとうございます。 内容は、いろんな本を読んで知っています。 皇室のプライバシーのことなので質問文を簡単にしました。 本でも今日の新聞でも「宮中某重大事件」という名で扱われています。 いったい誰がいつ頃どんな場面で使い始めたのか、を知りたくて質問しました。
- あずき なな(@azuki-7)
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宮中の重大事件は昔からありましたけど… 崇峻帝暗殺 大化の改新 あ 大正天皇の御落胤事件てのもありましたかね
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 将に、知りたかったことが全て分かりました。 態々調べて下さって誠にありがとうございます。 新聞に出ていたのですね!! 私の推測は外れましたが、気分はすっきりしました。 感謝の気持ちでいっぱいです。