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原首相刺殺事件はなぜ起こったか?

原首相刺殺事件はなぜ起こったのでしょうか? ネットで下のようなページを見つけて http://www.c20.jp/1921/11harax.html 「宮中某重大事件と皇太子訪欧に怒った右翼が原首相に刺客を放った。」 と書いてあったのですが、 皇太子訪欧に、なぜ右翼が怒ったのでしょうか? そもそも上記の解釈で正しいのでしょうか? 当時の事情を書いてある書籍等を教えてくださるのも嬉しいです。

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回答No.1

原敬は首相在任中に極右の団体からアナーキストにいたる、多くの団体や人物による暗殺の対象になっていました。 それは次のような要因が考えられるのです。 1.外交においては、国民の予想したような成果が得られず、軟弱外交というそしりを受けていたこと。 2.内政においては、戦後の不況による生活不安や開明的思想の広がりによる社会改革運動が先鋭化し、弾圧の張本人が原敬であるかのごとく喧伝されていたこと。 3.原敬の率いる政友会が絶対多数を占め、数々の汚職・疑獄事件が発生したこと。 また、原敬と宮中某重大事件との関わりがあります。 1.皇太子(昭和天皇)と久邇宮良子女王との婚約は、大正8年5月に正式に成立していました。 これに対して、「良子女王の母方の島津家に色盲の遺伝がある」として、自発的な婚約辞退を迫ったのが、山県有朋でした。 2.元老会議の意向を、西園寺公望が代表して、良子女王の父邦彦王に申し入れましたが、邦彦王は拒否をし、自ら皇后や元老に意見書を送ったり、国粋主義者杉浦重剛と連絡を取り、右翼を巻き込んで強力な反対運動を展開したのです。 しかし結局は、大正10年2月「御決定は何ら変更なし」という宮内省の発表で落着したのです。 3.原敬は、皇太子の様子を見るにつけ、宮中における皇太子教育の封建的なことに疑問をもっており、改革の必要を感じていました。 元老たちや原敬は、皇太子の人間形成上にとって、宮中から離して民主的な世界を体験させる必要があると考え、皇太子を洋行させることを進めていました。 4.これに対して、大正天皇が病弱のため皇后が反対し、右翼も天皇が病気中に渡欧するのは孝道にもとるなどと反対していました。 原敬は、反対する勢力に抗して強力に推進し、皇太子の洋行を成功させたのです。 5.このことで、原敬は宮中某重大事件や皇太子洋行問題で右翼に対抗する壁として立ちはだかり、右翼最大の障害人物と考えられるようになっていたのです。   6.また、満蒙独立運動の軍資金問題でも、資金提供者の大倉及び右翼の矢面に立っていました。 7.そのうえ軍人の一部からは、軍閥の弱体化、海軍大臣就任などでよく思われていなかったのです。 8.右翼は、皇太子が摂政になってから、皇太子の意見によって皇太子妃問題を解決すればいいという原敬の考えを知って非常な懸念をもっていたのです。 このような経緯から中岡艮一が犯人として登場します。 中岡艮一は、大塚駅の転轍手だったのですが、18歳の青年が何ゆえこのような行動をとったのかは定かではありません。 1.中岡艮一は公判で、政治問題を考えるようになったきっかけとして、大正9年に起こったニコライエフスク事件をあげ、さらに、青島還付問題、満鉄事件、東京市疑獄事件、シベリア撤兵問題、アヘン事件、ワシントン会議等をあげています。 中岡裁判の謎 1.犯行は、中岡艮一の単独犯として処理され、艮一は無期懲役の刑を受け服役した。しかし、凶行の原因、動機または犯人の背後関係等については、裁判所も深く追求せず、しごく手軽に無期懲役の判決がくだったという評も多い。 2.「原は背後関係をもった刺客中岡艮一に襲撃された」と述べている学者もいます。 3.長文連氏は、この裁判について詳細に検証し、その著書「原首相暗殺の真相」(昭和48年)の中で、「右翼が黒幕である」と主張しています。 4.最近では、猪瀬直樹氏が、「ペルソナ 三島由紀夫伝」(平成11年)で、この説をとっています。

noname#24152
質問者

お礼

詳しい解説に感謝いたします。 書籍を教えて頂けた事も、とても嬉しいです。 近代史をもっと良く勉強せねばと思いました。 ありがとうございました。

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