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神とはなんでしょう?
『自然』や『生命』に『神』を思う人あれば 現象に『運命』や『意志』を感じ『神』を見る人あり 『ラブラスの魔』のごとき『神』を幻想する人もあり 『集合的無意識』の中に『神』を見いだす人もあり 『神』といってもいろいろあります 『神』とはなんでしょう? 有神論の方は『神とは現象に対してどのような存在なのでしょう?』 無神論の方は『人間はなぜ神を幻想してしまうのでしょう?』 という質問として受け取ってください
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- JidousyaGaisya
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言語獲得以前の謎の象徴化の為に古代人達が創造した概念です。
- ttrree
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どちらかといえば無神論者です。現在のところ自分がもっている考えは、”「神」とは、最初は現象の原因に対するただの呼び名であり、長い時間をかけてそれらがあらゆる事象をつかさどる超常的な存在を想像させるようになり、最終的には現在のように生きるべき規範を示す概念となった”というものです。以下に順に説明していきます。 文明が興る初期段階から想像していきます。 人間が自主的にものごとを考え始めるようになったとき、さまざまな自然現象を見てとても不思議に感じたことと思います。ただ、彼らはおそらく、結果としての現象には必ず原因がともなうはずだと思ったのではないでしょうか? しかし、今のように科学が発達していたわけではないので、その特定はできなかったでしょう。そこでとりあえず、そのわからない原因について「カミ」あるいはその語源となる呼び名をつけたのだと思います。 昔の人はえらいもので物事を後世に伝える際、覚えやすいように物語形式で伝えることが多々あったそうですが、このとき、自然災害の話などを盛り込む際には「カミ」を登場させる必要がでてくるわけです。そこで「カミ」には、物語を盛り上げる要素としてその土地の風土や習慣に合わせた性質(意思を持つなど)が付与されたと思われます。 こうして性質を得た「カミ」は長い年月をかけた伝聞による歪曲を経て、あがめられる対象としての「神」になったと考えられます。 その次の段階は、「国家」という大きな単位での集団を考える必要がでてきます。その大きな集団におけるリーダーの一部が、支配力の増大を目指すための戦略として、「神」という概念の利用を思いついたのではないでしょうか? 代表としてはファラオなどがそれです。この戦略のメリットは、王が崇めるべき対象と同列となることで支配に対する疑問を薄れさせ、絶対的な忠誠を引き出しうることです。 こうした多神教のゆがみに気づき、それを克服すべく、信じるに足る規範を示そうと立ち上がったのが一神教の宗教的指導者たちではなかったかと考えられます。なぜ一神教だったかというのは、その指導者たちの起源がそのような宗教を信じる民族にあったからではないかと考えています。 宗教により、人間が人間として良い生き方をするための規範をしめすこと、「生き方」という誰をもいまだに悩ませひきつける問題に一定の答えを提示しえたことで、特定の一神教が絶大な支持を集めるに至ったのではないかと考えています。 以上のことを踏まえて「神」を幻想する理由として考えられるのは、現在の宗教におけるその概念に超常的な存在としての性質が色濃く残ってしまっているために、理解の範疇にない事柄やどうしようもない状況においてそれらを無意識に想起してしまうことがままあるのではないかと考えられます。人間はある程度の知識がつくと、何かわけがわからないという状況にものすごく不安を感じてしまう生き物だとおもいます。だから、何に対しても理由付けや解決の糸口をしめしてくれる概念に助けを求めてしまうのではないでしょうか。
- namujibunn
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2度程 悟り(神の存在)に近づいた経験があります。 (社会的視点から見れば、精神病の末期:過去 現在 未来の全ての物事が自分の思い通りになると勘違いできる状態を実感しました。) 1年ですっかり 普通の人間に戻りましたが、いろんな真理に気がつきました。 神とは、何でもできるけど、絶対になにもしない存在です。 通常時の 私たちが信じている、あらゆる宗教の 神や仏は、神の一つ前の状態です。 人間を、何かの視点からみて、救おうという 欲望をもってしまっています。 だから、すばらしい宗教とすばらしい宗教の間でも、 戦争が発生するのです。 神は 数字の0の概念と同じような 存在だと聞いた事がありますが、 悟っていた時は、なるほど、同じだ!! と思っていましたが、もうなぜ同じなのか覚えていません。
- tonarinotororor
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私は、有神論者でもないし無神論者でもありません。 神と言う存在が、人間に何のためにあるか?で答えたいと思います。 各宗派によって神の教義は違います。 しかし、各宗派はそれぞれの教義を100%信じているでしょう。 そして、その信じている教義と違う考え方(宗派)は、 間違っていると思っています。 神の存在とは、何と勝手で曖昧なのでしょうか? 結論からすれば、神が存在するしないは、 証明するような次元の事柄ではありません。 神がいると思う人は、様々な現象を神の力と信じて、 そうでない人は、様々な現象をただの出来事として受け取るので、 その人の心の在り方一つで、いたりいなかったりする程度の次元の話ですから。 しかし、それでも人々は神を必要と(信じる)しています。 それは、人はいつも正しい心でいたいと願う良心(本能)から生まれた願いだと思います。 心は、同じ事柄でもそれが環境や状況によって、 ときに正しく思えたり、悪に思えたりする曖昧でとても弱いものです。 自分自身の力で、絶対の心を持って生きていくことは、悟り(空)を得ない限り無理です。 ですから、人は正しい心の教えを、人間ではない絶対の神に求めようとするのだと思います。 神はこの世に存在していませんから、その教えは人の心とは違い永遠に変わることはありませんから。 神の存在とは、人間が正しい心でいたいと願う、絶対の思いの現実化だと思っています。
15です > それともフォトタキシスやスコトタキシスなど > 光に関する『本能』が『神の幻想』の基盤になっている > ってカンジの考えでしょうか? プラトンが、虫やプランクトンや花の種に魂があると認めれば、生得性はここにしかないでしょうね。ほかのイデアを想起するような連中じゃないから。 心がタブラ・ラサか、生得的に悟性をもっているか、という生物側の設定の違いが、科学論争の源流なんだけど、 大事なのは、神の幻想は知覚・経験より先に、あるいは悟性より先にあって、たとえ幻想でも先に存在するって点ではないかな。 経験論では、永遠無限の存在として神を先行条件としますよね。ただし私たちが存在する限りと限定をつけて。 見たことないから居ないというレベルの話であったことは、哲学上はないからね。 経験論を否定するライプニッツでも、悟性は知覚できないとしたうえで、神をもともと知っているという先行性については崩さない。 プラトンの、知ってるけど忘れてるだけ、という論理は、事実上無敵ですね。 で、神の幻想か、神の実相か、あるいは、先行条件として存在の条件に与えられる神(無限性)でもいいのだけど、 生物環境的には、光の関与の仕方・機序は、神と相似形だなと思うワケ。
- hakobulu
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#11です。 「神(の幻想)」と「神と名づけても良いほどの不可知的摂理」という2種類の捉え方があるように思います。 後者を否定できる人はいないと思いますが、 前者の存在を信じる人を有神論者と考えます。 おっしゃるように、神話などに見られるような「>『神』というのはもっと深層の心理が現出したもの」でしょう。 ですから、科学的に考えてみれば本来は比喩的な存在でしかないはずです。 具体的に何の比喩かと言えば、 いわゆる超自我の代替物と考えて良いのではないか、という気がします。 超自我は基本的には善悪を司るとされる精神作用ですが、本質的には広義の規制に関与していると考えてよいと思います。 本能と自我は(色々問題はありますが)一応手に入れることはできても、しかし、人間は自由一辺倒では不安になるようにできている生き物のようで、超自我的規制も無意識に求めるでしょうし、同時に自己さえ超越する善を為したいとも思慮することもある動物です。 つまり、圧倒的な抑圧をむしろ求めたのではないか、ということです。 本能や自我とのバランスという意味でそれは必須のものであったでしょう。 これは、圧倒的な力に自分を委ねることで、自我による決定・選択の苦渋から逃れるためではないかという気がします。 自己内の超自我規制が正常に働けば神は必要なかったはずです。 肥大化した自我は自身をも滅ぼします。 超自我との兼ね合いが必要ですが、その水準が自我の大きさに追いつかない場合、 つまり、あらゆる意味で欲求・欲望が強すぎる時、神が必要とされたのでしょう。 よくは知りませんが、おそらく宗教の本義は「許してくれる神」であろうと思います。 自己心理が下駄を預ける先として、まさにおっしゃるように「幻想」としての神が必要だったわけでしょう。 幻想では脆すぎますから、必然的に人格化(神格化)されざるを得なかったのだと思います。 その「弱み」に付け込んで利用しようとする人もいたでしょう。 「>むしろ懐疑論的に根本原理に『意志』を見いだしたのかもしれない」人々などは、その立場になることが多かったのではないかという気もします。
- tenntennsevengoo
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マリーの部屋の場合 超心理学的もしくは 意識領域からの逆ベクトル 指令だと思われます。 つまり物理→意識 の方程式が崩れている状態だと思われます。 その崩れの隙間になぜかマリーがいたのです。 未知の意識→マリーの意識←物理 したものだと思われます。 意識の座は物理の領域のみだと思っている人は多いですが 自分は違うと思います。 異次元(物理外次元)→意識←物理 となっているのではないかと思っています。 つまりマリーの主体性が異次元とつながっているのです。 それと伴って脳が変化したと考えれば説明がつくとおもわれます。
- corkwood
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脳のからくりを知っている存在。
- tenntennsevengoo
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神を感じる部分が松果体ではないか? といわれている人がいるので書きますが 松果体の可能性もありますが 基本的には側頭葉てんかん時や前頭連合の働きのバックアップ,上頭頂葉後部などが神を感じる場所じゃないかと いわれています。 http://homepage2.nifty.com/aquarian/RecentBooks/Rctbk040707.htm http://neurotheism.org/j/book.htm しかし神を感じているときは色々な脳の部位を使っているので 一概とこれとは判っていないらしいです。 http://www.kenko-trendy.com/nakazawa/001459.html
哲学カテには面白い人がたまにいるので来ちゃうんだな。 13の方の続きからだと手間が省けます。13のかたごめんなさいね。 そこで、太陽光を感受する細胞(分子)が、脊椎動物にも、節足動物や軟体動物にも、植物にも、深海の原始的生物にも、 ほんとにありとあらゆる生き物たちに、本来的に備わっているということに話を運びますが、 植物の光合成は、代謝の一環なんだけど、生物の生息する環境を代謝させながら、光をエネルギーに変えるはたらきをする。 脊椎動物が持っている松果体。 光を感受し、夜、機能を開き、ホルモンを調律する。チャクラと同じもののこと。 光を感受する器官は、神を感じる器官にとてもよく調和するね。 植物の光合成から回転をかけられている生物たちのエネルギー放出って、 光からエネルギーへの流れであるであることをとおして、 1つの生のあいだで、じつに様々な変化を記録している。 他所でも言ったことがありますが、死がないといわば記録の書き込みが終了しない。死は命の一部になっている。 人間が創造した話のなかでは、神が、いってみれば光として関与する物語もある。創造神話はたいていそう。 またエネルギーを先送りするところなのかに、神が宿っていることもある。豊饒や土着の神様もそう。 記録にかかわる物語もある。これは、夜の神や時の神や運命の神で、姉妹ですね。 まあ、答えにはなっていないのですけれども、生き物の一生は、こうしてみると、ずっと神とともにあるという筋書きではありますね。
補足
遅レス失礼 つまるところ『神は光によって世界に干渉している』 という考えってことですかね それともフォトタキシスやスコトタキシスなど 光に関する『本能』が『神の幻想』の基盤になっている ってカンジの考えでしょうか? 後者であるなら、『神の幻想』は社会を形成する為の心理であって あっても大脳旧皮質以降、かなり後の方で獲得されたと 考えている僕はいままで持たなかった考えで とても面白い仮説と感じます
補足
レス遅くなって失礼 なるほど、すでに『神の幻想』を自然科学的に 解明しようとする動きはあったのですね しかし『マリーの部屋』の問題を 解決できない限りは『哲学的ゾンビの神』を 生み出してしまうだけのようにも思いますし 『神の幻想』についてはそれがヒトが生きるにおいて どのような役割をしてきたのかという部分にこそ 見るべきところがあるのではないかと考えてます