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哲学的人類補完計画

ゼーレによる人類補完計画が失敗してしまったようなので新たな補完計画を考えてみました。 人の精神を単純に「意志」と定義した場合、意志を人格たらしめているのは概念つまりイメージとの一体化ではないでしょうか。 ・私は男 ・私は日本人 ・私は社長 ・私はキリスト教徒 意志がイメージと一体化することによって「私」を名乗ることができるのではないでしょうか。 この一体化によって生成されるのが自我でありそれに伴う心の壁、ATフィールドですね。 意志はその後、単なる一体化だけでは不完全で心もとない為、物や知識を所有しながらそれをステータスとして自分自身を飾り始めます。 ・私の家 ・私の財産 ・私の知識 ・私の経験 そして記憶を使い時間軸上である程度の連続性を持たせたものがアイデンティティーと言えるでしょうか。 概念との一体化、所有権の主張、記憶を担保としたアイデンティティーの連続性が「意志」という視点から見た「私」の構造と言えると思います。 そこで本題ですが、個々の不完全な心を互いに補完しあうのが人類補完計画であるならば、哲学的な手法による補完は「非一体化」ではないでしょうか。 自我の始まりは一体化であったはずです。 一体化がなければ自我は生成されず心の壁がなければ壁の内側にある心の隙間は存在しません。 イメージから自由になれば心が傷を負うこともなくなります。 実体のない心には傷つくべき部分などなく、傷ついたのはイメージのほうです。イメージと一体化しているがために心が傷ついたように感じるのではないでしょうか。 また、意志とイデオロギーを一体化させなければ、たとえ「私は〇〇教徒」と名乗る他人ともトラブルになることはないでしょう。 心の壁が起こす問題からも自由になることができます。 一体化をしなければ自我は成立せず、心の壁も生成されませんから壁の内部にできる心の隙間もできません。 非一体化によって人間として生きながら心の壁を取り除くことができますからゼーレよりうまいやり方だと思います。 実現可能な人類補完計画と思いますがどうでしょう。

みんなの回答

noname#168383
noname#168383
回答No.3

エヴァンゲリオンですか・・・ パチンコでしか知らないので、中身はしりませんが、毎回あのパチンコする時(といっても気晴らしに年に数回行くか行かないか位ですが・・・)使徒とかいう言葉出てきてそれが敵になってますよね?あれってキリスト教信者からクレーム来ないのかな?と毎回思うのですが?あのアニメ西洋とかで放送できたりするのか?作者暗殺されそうなアニメだよあれ! ・・・・まあ個人的な感情論はここまでにしておいて >そして記憶を使い時間軸上である程度の連続性を持たせたものがアイデンティティーと言えるでしょうか。> まずアイデンティティー自体不確実な定義見たいですね。エリクソンが初めに言いだしたと記憶してます。確か高校の倫理の教科書に載ってたの思い出しましたよ。 しかしながら一貫性という意味では理解したつもりですが、一貫性を求めない生き方をしてもアイデンティティーと言えるんだろうか?という疑問を個人的にはもちますね。 よく若年層とかで屯してたり、雰囲気が似てたり、見た目がある系統に属しているというのをよくコンビニとかで見かけるけど、ああいうのはアイデンティティを強引に作ってる感じがする。 エリクソンが言うにはそのようなアイデンティティは何れ崩壊するそうです。 ではそのようでないアイデンティティというのはなんぞや?と言われると全く分からないのですが、恐らく個人がまともな秩序の中で自然に生きていくという感覚そのものなのではないかと思う訳です。 なので若年層のそのようなアイデンティティは何れ個人個人に置いて不自然になっていくので崩壊するという事が言えると思いますし、葛藤を引き起こす人も無意識的だろうが意識的だろうが出てくると思います。 私自信その中で自然に生きて来た方なので異端児扱いされたのを覚えていますが今となって見れば、自分はそれでよかったんだと思える位に気持ちは回復してます。(当時はキツかったけどね) 元いじめっ子の人が大人になって人を虐めなくなったり、元虐められっ子が大人になって虐める側に変貌したりする人がいるというのはそのせいなのではないかと思う。 とまあ理解できる範囲で述べましたが、【まともな秩序の中で自然に生きていく=アイデンティティ】というのが??です。こういうのはそのまま「まともな秩序の中で自然に生きていく」とうものであってしかも時間軸の上で変化するんでしょ?だったらそれの何処が一貫性があるのか意味が分からないです。 なので個人的な見解では最終的には意味が分からないし学者自信確定しきれていない定義なのであまりその言葉を【まともな秩序の中で自然に生きて】いっている人に適用すべきではないと思いますね >そこで本題ですが、個々の不完全な心を互いに補完しあうのが人類補完計画であるならば、哲学的な手法による補完は「非一体化」ではないでしょうか。 自我の始まりは一体化であったはずです。 一体化がなければ自我は生成されず心の壁がなければ壁の内側にある心の隙間は存在しません。 イメージから自由になれば心が傷を負うこともなくなります。>  これは言えてると思います。 >また、意志とイデオロギーを一体化させなければ、たとえ「私は〇〇教徒」と名乗る他人ともトラブルになることはないでしょう。 心の壁が起こす問題からも自由になることができます。>  これは恐らく ・その性質が良い場合がある ・その性質が悪い場合がある ・その性質が良し悪し以外の性質を発生させる場合がある の3パターンに分かれると思う。 つまり用途用途という話です。 しかしながら『イデオロギー』というまた難しい言葉しってますね?倫理の教科書以来ですよ『イデオロギー』っていう文字を見たのはw ええ・・・・っと『イデオロギー』=『主義主張』で良い訳ですよね?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 概念というのは案外不確かなものですよね。 攻殻機動隊なんかを見ていると現代の生死の概念が通用しない時代がそのうちくるとな思ってしまいます。

  • lpgjr
  • ベストアンサー率0% (0/12)
回答No.2

実現は不可能だと思いますが、賛同致します。悟られるということは、悟られていないという状態が存在し、悟るためには、悟っていない状態が必要なはずです。ですので、人類皆全の人が同時に悟るという状態は不可能であると私は考えます。だから人であり、それ以上でも以下でもないように感じます。我々が失望しない限り、人類はまだまだ進化すると考えています。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 結局、個人的平和が訪れない限り社会的平和は訪れないと私は思います。

回答No.1

>個々の不完全な心を互いに補完しあうのが人類補完計画であるならば、 >哲学的な手法による補完は「非一体化」ではないでしょうか。 人の意識は、肉体に付属した感覚器官に依存するゆえ、 どんなに社会性が発達して自他の利害が共通しても、 短絡的意識(虚栄心、拝金主義etc.)に留まっては、 自己中心的な利己主義に陥る。 思想の一環としての、自己の社会生命性の自覚化に おいてこそ、「互いに補完し合う」事が可能なのです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ごもっともです。 ただ、そのレベルの補完であれば現時点で実現できていますね。

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