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天保の大飢饉の時、漁師たちは??
歴史に明るくないので、その点を留意した上で回答を戴けると嬉しいです o(^▽^)o 【質問】:天保の大飢饉の時は漁師たちも飢えたのでしょうか? ご回答お待ちしております。
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一般的に言えば、単純には言えない、場所それぞれでしょう。 江戸時代に何度か飢饉がありましたが、収穫量の減少や期間の長さ、飢饉状態になった地域の広がり、減収になる前の状態などからみれは、天保の飢饉が一番ひどいようです。しかし、死者の数は、天明の飢饉の方が多かったようです。なお、飢饉の実態や飢えの状態、死者の数をきちんと同じ手法で調査したものは存在しないので、おおよそのこともわかりません。 http://www15.plala.or.jp/kuni-1/gakusyuu/edo/kikin.pdf また、飢饉と言われる状態が起きていても、その時代のその地方には、食べ物に困らない人も、食べ物がほとんど得られない人もいます。また、流民となって他の地方に移動してしまう人も多いのです。流民は生活苦や借金でその地域にいられなくなり、余所に逃げるのですが、その場合、受け入れてもらえ何とか食事にありつけそうだと思うところに逃げていくのです。都市部では流民が多く移動して来ては困るので受け入れません。そのため都市近郊に流民が行き場所もなく溜まり、ここで多くの人が死亡します。 http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_e.html 農村、山村、漁村、都市部どこでも、食料に困る人、返済できない借金を抱えている人が多い状態になりますが、全員がそうなるのではありません。また、気候でも、虫でも、不作、不漁も、地域によって差が出ます。 食料に困っているA地域に、これを機会に高く売ろうとする裕福な人がいる(B地域)と、B地域の食料が不足し、B地域の貧困者が飢餓になります。これでは、不作がひどくないB地域でも飢餓になるので、他の地域への販売を禁じて飢餓地域が広がらない対策も打たれます。また、不作や気候変動、虫や天災で天明飢饉が起きたときの経験から、飢饉対策も色々考えられ実行されていますので、天保飢饉のときには飢饉の状態はかなり良くなっています。 自然現象や不作、不漁などの結果でも飢饉は起きるのですが、ひどい飢饉は、人の動きや対処法が影響するのです。 天明の飢饉の頃は魚も不漁だったところが多いようです。カネに困ると借金したり持ち船を売ったりして、とりあえず食料を確保し、それも出来なくなれば、夜逃げで他の地域に逃げ活路を求めようとし、逃げていった先で死ぬことも増えます。ただ、これも、天保の飢饉のころは少しましになっているようです。 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no87_08.pdf 千葉県の富津でも、天明の飢饉では打ち壊しがあったものの、天保にはその記載がありません。 http://www.geocities.jp/marusyou03/sub3.htm 米作は、年貢にもなるし、商品価値が高いのですが、この頃の天候では簡単に不作にもなるので、飢饉対策・万一の食料確保でサツマイモやその他の方法も工夫されて行きます。 千葉県の幕張でも、天明(1783~88まで続く)・天保(1833~39まで続く)の大飢饉にも、このあたりで餓死するものは皆無だったそうです。 http://www2u.biglobe.ne.jp/~nakanisi/rekisi.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 通常、天候は荒れるもので、数十年間安定していることの方が珍しいのです。そうしたときに飢饉になって多数の人が死ぬような生活は、普通ならばしていません。 鎌倉時代以降、農業が米作中心になり、金肥(肥料をカネで買う)を使うようになってから、天候不順や虫害で収穫が得られないと、金肥代金などの返済が出来なくなり、土地を担保にカネを借りたり、土地を売るなどの状態が起きるようになったのです。そうすると、不作がひどかったり続くとカネがないために飢饉になります。小さな集落で細々と自給自足している場合は、不作になってもさほど飢饉の状態にはならないことが多いようです。 そういう面から考えると、辺鄙なところにある小さな漁村などは、もともと貧しいレベルですが、その貧しい中で食料がさらに乏しいという程度でなんとか済んでいたのでしょう。 農業にカネを使い目一杯米作で暮らしている地域は、不作時には飢饉になりやすかったのでしょう。 なお、昔の食糧事情は、次のようだったそうです。 http://www.pref.iwate.jp/~hp2088/park/kikaku/49th_inochi_tabemono.html 旧藩時代から明治~昭和の戦前まで、農村部では白米だけの食事は晴食(はれしょく)のときなどに限られ、日常的には、量の不足を補うために米にムギ・大豆・根・海草などを混ぜて炊いた「かて(糧)飯」が主体でした。 大正7年に内務省が行った全国主食物調査では、岩手県の村落部では「米・麦・粟(あわ)・稗(ひえ)ヲ主食トシ大根カテヲ四季用イル地方ト、特ニ冬季間麦ノ代用ニ用ウル所トアル。米・栗・稗・麦ニ蕪(かぶ)・大角豆(ささげ)ヲ入レタ粥(がゆ)」と記されています。町の商家でも昭和期まででも麦かてが普通の食生活でした。 かてには麦、粟(あわ)、稗(ひえ)などの穀物の他、大根や海草のめのこが用いられていました。 稗(ひえ)・粟(あわ)は土質を選ばず、肥料も少なくて済み、冷害にも強く、また30~40年は保存が可能と言われるなど多くの利点があり、米や麦がよく獲れない地帯では主要な作物として利用されていました。 それでは、凶作の年はどのような物を食べたのでしょうか。作物の生育期間の低温や日照不足によって不作となる凶作年は、米だけが不作となるのではなく、麦や稗などの他の穀物も不作となることが多くありました。こうした場合に備えて、家毎に蕎麦(そば)や稗(ひえ)、干し大根などを井楼(いろう)(大箱)や梁上(りょうじょう)(まげ、焚き火の上)に貯蔵し、凶作時の備えをしていました。 食料が不足した初期の段階では、まず備蓄を取り崩したり、増量(かて飯)による穀物の節約、家畜飼料の食用化、ダイコンなどの緊急増反などで、食い延ばしを図りました。さらに食料が欠乏し、かて飯も食べられなくなる中期段階になると、ふすまやぬか、カボチャなどの葉、木の実や山菜などで飢えをしのぎました。厳しい冬を何とか乗り越えても、次の年の蕎麦(そば)や大根などの作物が収穫できるまでの春先から夏にかけてが最もつらい期間となり、山菜や野草のほか、末期段階では食べられるものは何でも採取し、松の皮やウルシの実までも食べて命をつなぎました。 http://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_19/vol19_2b.htm
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- mekuriya
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答えはyesです。 そもそも海産物だけでは栄養は取れない。脳、筋肉、白血球などのエネルギー源になるのはブドウ糖だけです。たんぱく質や脂質は脳、筋肉、白血球のエネルギー源にはならないってことです。海産物は概して炭水化物には乏しいので腹がふくれたところでしかたありません。しかも海産物は概して保存性に乏しい。米俵にして何年でも保存できる米とは比較になりません。だから少しでも保存性を高めようと乾鮑、干し貝柱、干物といった加工技術が工夫されましたが、それでも米ほどは保存がききません。江戸時代は道路事情も悪いので現代とは流通事情が比較にならない。舗装されていないし、橋もトンネルも整備されていない。整備されたところで冷凍車もチルド車も冷蔵庫も何もないのです。同じ岩手県の沿岸部から内陸部に運ぶだけでも大変な苦労があったのです。栄養が足りない上に、主食にするほど漁獲量があったわけでもない。漁業だって気象変動の影響を受ける不安定な生業です。米の不作が同時に不漁を意味するわけではないけど、農民が飢えるのなら漁民だって飢えるのです。「ニシン来たかとカモメに問えば わたしゃ立つ鳥波に聞け」 また漁民は無税だというのは全くの間違いです。漁業年貢という年貢が漁民にも課されました。舟税、人頭税が課された例もある。港湾の使用料とか漁業権に税金が課された例もある。それは万事、大名個別の政策であって、全国に共通する税制があったわけではないが、漁民にも様々な名目で税が課された事実は否定できません。稲作が不調で年貢が思うように集まらないと、その分臨時に特別税が漁民にかけられるということもあって、天保の大飢饉ほどの大飢饉になって漁民が無傷なんてことは全くありえないことです。御用金だと、運上金だと冥加金だのと、わけのわからない臨時特別税が課されてみぐるみはがされるのです。 三閉伊一揆というのがあります。南部盛岡藩は領地を33の通り(行政区画)に分けて年貢を徴収していましたが、そのうち3つの野田、宮古、大槌通の農漁民が隣の仙台藩に盛岡藩の非道を訴えたというのが三閉伊一揆です。野田、宮古、大槌通に課された御用金が他の地方より重かったんです。岩手県野田村というのは漁業しかないような村で、三陸鉄道が通る太平洋に面した村です。余談だけど一揆勢が掲げた旗印が「小○」というものです。「こ」+「まる」=「困る」という洒落なんです。 農民は収穫して蓄えた米が尽きれば飢えるし、漁民は魚・魚介類を売って購入して蓄えた米が尽きれば飢える。そこには何の違いもない。
お礼
確かに炭水化物を抜くと体重が落ちますね。蛋白質のみを取っても頭へエネルギーが行かなくなるので意味がないのですね。 >>漁業だって気象変動の影響を受ける不安定な生業です。 今が豊かすぎるので季節に関係なく魚介類が取れるイメージがあったのですが不漁の時期というのが頭になかったです。 細かく大量に説明してくださり本当にありがとうございました。筆ベタですので上手く返せませんがとても面白かったです。
- Streseman
- ベストアンサー率24% (131/542)
基本的には、漁師というのは、百姓ですw 分かりやすく言えば、江戸時代の漁業は農業との兼業が一般的です 専業化していません したがって、大飢饉などでは漁師も飢えることはありえますが、漁業が盛んではない地域ほど悲惨ではないように考えてられていますが、飢饉より津波被害で家屋が・・という事情も多かったようです 本件は、あくまでも東日本地域の話であって、西日本についてこの限りではありません それは、西日本の漁民は海賊兼業という事例もあって、『漁師&海賊』 という存在もそれなりにいるので、大飢饉とは無縁だった可能性もありえるので
お礼
清盛の中でも飢えた漁師が海賊をしていましたね。兎丸でしたっけw ご回答ありがとうございました☆
- oska
- ベストアンサー率48% (4105/8467)
>天保の大飢饉の時は漁師たちも飢えたのでしょうか? 【回答】農民ほど飢えていない。 農民の場合、年貢がありますよね。 年貢は、豊作だろうが不作だろうが決まった量を納める必要があります。 ですから、農村部では備蓄米はありません。 不作=飢餓=娘の奉公なんですね。 ところが、漁師・漁民は「一定の納付」が原則ありません。 不漁だと、納付は少ないのです。 米野菜が買えなくても、海産物(魚・貝・海草)で飢えを忍んでいますよ。 余談ですが・・・。 天保の大飢饉と一言で言っても、各藩・天領で大差があります。 某藩では、備蓄米を放出してたので農民を含む餓死者が出ていません。 わざわざ、他藩に救いを求めて移動した住民もいます。 某藩では、何ら対応をしなかったので一揆が多発しています。 ※某藩は、質問者さまでお調べ下さい。
お礼
よはり指導者で対応が違うのですね。地域にも依るのでしょうが…今度その某藩を調べてみようと思います。ご回答ありがとうございました★
- shirokuro1533
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【質問】:天保の大飢饉の時は漁師たちも飢えたのでしょうか? 【回答】はい。飢えていますね。 ご想像はされておられるでしょうが、漁民といった人々は、漁に出て魚を売りそのお金でお米を買うといった感じですから、飢饉になれば米価は高騰するわけですね。先ずその問題が第一点。 そしてご承知かとも思いますが、ご指摘の天保飢饉はさらに状況は悪く、この飢饉の主なる原因は気候の寒冷化でありましたから、米作はもちろん回遊魚の往来を待ち捕獲するといった当時の漁法では、天保年間の飢饉などにおいては、海水温の低下など従来のように魚が回遊はしてくれなかったようですから、勢い凶作と連動して不漁にもなってゆく。といったことであります。 漁民にとっては米価高騰と不漁のダブルパンチということですね。 いずれにせよ、飢饉とよばれる大型の凶作については、農業に関しては平野部よりも中山間地域。そして漁業を生業とする人々など、気象変動の影響を受けやすい場所にて生活をしていた人々から先に、苦しい生活を強いられたということですね。
お礼
歴史を全くやっていなかったので税=年貢=年貢米=米が思いつきませんでした…。売らなければお米を買えないのですから漁師の方が間接的に手に入れる形ですので大変ですね。 >>回遊魚の往来を待ち捕獲するといった当時の漁法 海に潜れば何かしらの魚介類がいると思ったのですが、そうでもないのですね 詳細なご回答本当にありがとうございました★
- poomen
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大学の紀要です。やはり漁村も飢えにおそわれていたようです www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no87_08.pdf 私も以前は魚を捕ればさほど飢えないと思っていたんですけどね。
お礼
リンク先見ました。文献を見つけて下さり本当に感謝しております。ご回答ありがとうございました★
お礼
今でこそ飽食の時代と言われていますが、たった数百年前の食糧事情は酷かったんですね。映画を見ていると農民がヒエや粟を栽培している様子が描かれますが肥料が少なくて済むのが理由だったのですか!というより江戸時代に肥料が売られており農民が買っているというのが新鮮だったです。というより何かの本で読んだのですが農民は自分たちの排泄物で肥料を作っていた記されていたのですが、普段から食べていなかったので出るものも出ないという結論に行き着くのでしょうか… ご回答ありがとうございました☆