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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カントールの対角線論法についておしえてください。)

カントールの対角線論法とは?

このQ&Aのポイント
  • カントールの対角線論法は無限集合における大きさの比較に関する定理であり、無理数の集合が自然数の集合よりも多くの要素を持つことを示しています。
  • 具体的な例を用いて説明すると、無理数の集合と自然数の集合を1対1に対応させることを考えます。しかし、対応させた無理数に対して小数点以下の数字を変更する操作を行うと、新たな無理数が得られます。この新たな無理数は、元の無理数とは異なる要素であり、自然数との対応関係も失われます。
  • したがって、無理数の集合は自然数の集合よりも要素が多いことが示されます。これにより、カントールの対角線論法は無限集合には大小が存在することを示す重要な定理となっています。

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noname#221368
noname#221368
回答No.49

 #46です。たった一夜で、こんなに番号が増えたんですね(^^)。こういう話題に興味を持つ人は、やっぱり沢山いるんなぁ~(・・・違った、数人か)。でも皆さん熱心ですね。やっぱり皆、現在の集合論はどこか異様だと、感じてるのでは?と、勝手に邪推してしまいます・・・(^^)。 >(1)  ★ 今の結論は、「現在の無限集合論は嘘かも知れないが、嘘にしても良く出来た話だ」・・・です。  ☆ 役に立つということのようですね。  それでも わたしの見方からすれば その起源について知っておきたいとは思います。  私の見方からしても、その起源について知っておきたいです。現在の集合論は直観主義の数学などと比較すると、圧倒的に役に立ち、技術として非常に強力です。その「強さ」は、何を受け入れる事によって手に入れたのか?、代償として何を諦めたのか?。役には立たなくても、そのような事をちゃんと知っておきたいと思っています。 >☆ これは 人間の眼から見て《無茶な仮定》なのでしょうが α さんにとっては お茶の子さいさいのわざではないでしょうか? と言うより そういう能力を持った α さんを想定しているのですから。 >実数無限を 実無限と呼ぶ一定のアタイを取るあたかも有限の数として扱うことが出来ると仮定したわけですから。  そういう想定(仮定)はしてないんですよ。 > 実数無限を 実無限と呼ぶ一定のアタイを取るあたかも有限の数として扱うことが出来ると仮定したわけですから。  α さんは可算無限人(我々は有限人)なので、α さんにとって可算無限は有限に見えても、実数無限はやはり彼にとっても我々にとっても無限です。ただしαさんにとって、実数無限は可算無限になります。ポイントはここかな?、と思いました。  自分は、彼の有限(我々の可算無限)とかわかりにくい表現をしましたので誤解が生じたのかな?、とも思いましたが、そうではない気がしました。  実無限を想定したとしても、それは一定の値を取りません。それはあくまで一定の値を取らない無限です。αが有限とみなす可算無限は、我々の有限とは正反対のもので別物です。それは有限の対立概念である、無限に属するものです。  α さんは可算無限の終端が見えるので、そこではα さんも、可算無限と連続無限の比較において、我々が行う有限と可算無限の比較と、同じ「論理」を使うだろうと想定する。その一点に関してしか、数学は言わない。α さんの有限と、我々の有限が同じだなんて、誰が言った?。俺は言ってないぞ、と現在の数学は強弁します(するんですよ)。  以上が、「言葉(概念)の意味において矛盾ではないのか?」と問われれば、そうだと思います。それが現行数学の失ったものだと思います。数え尽くせたと仮定した存在として実無限を指定したのに、一定値を取らないとか・・・。  今回は、論点整理のために、これくらいにします(整理になったのかな・・・(^^;))。 >☆ 経験世界における無限は 無理数のたぐいなのでしょうか。  この経験世界を超えた《非経験の場》という想定 つまりそれとしての無限は むろん想定ですよね。  現実に観測できる無理数は、(それがあったとして)無理数の有限桁数までで、常に有理数です。それでも一つの無理数が「ある」と、論理的に首尾一貫して言うためには(経験的にありそうだから)、全ての議論に先行させて実無限の存在を認める必要がありました。それが無限公理の要請です。  なのでコーシー式の実数論は、(近似規則は与えますが)ある無理数を近似する全ての有理数の集まり(集合)を、その無理数そのものだとみなします。それらの集合達と、無限公理の要請によってあるはずの無理数達の一個一個が、全単射の関係を結ぶからです。この状況を、同一視するという一言で片付けますが、存在論的には、極悪非道かも知れません(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 いくつかマチガイをただしていただきました。ありがとうございます。  そして ご回答をありがとうございます。  そうですね。  今回は うけたまわりました。というかっこうになると思います。  あるいはそれとも たとえば  ★ ~~~~   α さんは可算無限の終端が見えるので、そこではα さんも、可算無限と連続無限の比較において、我々が行う有限と可算無限の比較と、同じ「論理」を使うだろうと想定する。その一点に関してしか、数学は言わない。α さんの有限と、我々の有限が同じだなんて、誰が言った?。俺は言ってないぞ、と現在の数学は強弁します(するんですよ)。  以上が、「言葉(概念)の意味において矛盾ではないのか?」と問われれば、そうだと思います。それが現行数学の失ったものだと思います。数え尽くせたと仮定した存在として実無限を指定したのに、一定値を取らないとか・・・。  ~~~~~~  ☆ ここらあたりのことが 結論になるとおっしゃっていましょうか?  もうそのほかにはないのだと。  無限公理のおかれる座標に 対角線論法がそのまま用いられるとするのならば・そして直線論法は同時に用いられなくてよいということでしたら もう問い求めは済んでいると受け取らねばならないと思います。  あらかじめながら――どうなるか分かりませんが―― 感謝を申し上げます。ここまでおしえていただきありがとうございました。

その他の回答 (62)

noname#221368
noname#221368
回答No.23

 #19です。まず疑問点に答えます。 >1対1かつ上への対応  1対1対応をご理解されてるのはわかってますし、日常会話では当然のごとく1対1という表現で、「同数」を表せば十分なのですが、数学は「要素3個の集合から、要素5個の集合へにも、1対1対応は可能だよね?(2個余りで)」と言い出す訳です。それで誤解のないように、余りが生じないような対応を別途「上への対応」と言って定義し、「1対1かつ上への対応なら同数」と言いたがります。ただそれだけです。 >実数以上の無限集合  こうい言うとちょっと数学的には危ないんですが、対角線論法の構成手段からすぐに言えることが、一つあります。実数の個数(本当は濃度と言って個数とは区別します。個数の概念は有限だけに有効と考えます)は、自然数全体の集合の、全ての部分集合の個数に等しい、という事です。一般に、集合Aの個数(濃度)がαなら、その部分集合全部の数は、2^α(2のα乗)になり、Aが集合である限り常に、α<2^αを導けます。よって実数全体の集合にも、それ以上に個数の大きい集合が存在する事になり、この階層はまさに、どこまでも続きます。これが、実数以上の無限集合の意味です。  以下、主文です。 >・・・数学は何とこすからい学問であることかと・・・。  そう見えますか(^^;)・・・。近代数学においても無限集合が正式な理論になったのは、カントール以後の比較的最近の事であり、無限に関する数学理論なんて、数学の全歴史においてはほとんど異端扱いであったのが実情です。そのような訳で、無限集合論を数学理論として認めるにしても、過去の資産と整合性を保つように色々と努力され、その結果、技術的定式化が先行して、哲学的にはあざとく見えるかも知れません(素直でない)。でも現行の数学を全体として眺めると、あなたの考えと決定的に違う事は言ってないように、自分には思えます。少なくとも、そういう解釈も「許すように」定式化されてると・・・(やっぱり、あざといのかな?(^^;))。以後は、そのつもりの例であげています。 >一にも二にも 《リストアップが全部できたと仮定する》というその設定に 不備がある。こう結論づけます。 >この事割りを持って じつは その仮定の内容を ほんとうは保留している。仮定したその本人が そういう保留をするという良心を持っているはずなのです。 >なぜなら その保留したことをよくよく考えるなら いま仮定したことがらは 遅かれ早かれ破綻するはずだとも分かっていることを意味します。列挙漏れが出てくるに違いないと 心の底から分かっている。ことを意味します。 >つまり もしそうであるなら この背理法による証明は――仮定の仕方の不備により――まったくの茶番劇です。  仰る通りです。数学における背理法とは、常に茶番劇なんです。何故なら数学における背理法は、ふつう証明のショートカットに過ぎないからです。数学における全ての定理は、前提Aから結論Bを導くタイプ、即ちA⇒Bの論理証明の形しかありません。  そこで背理法を用いる場合、Bの否定~Bを後付けで追加し、~Bなら~Aなので、Aかつ~Aとなり矛盾。よってBでなければならないとやる訳ですが、以上の言い回しはどちらかというと伝統的な慣習で、実質はA⇒Bの対偶、~B⇒~Aを証明したに過ぎません。つまり「矛盾が起こる事を見越して」、~Bを後付けします。  何故こんな事をやるかと言うと、正攻法のA⇒Bでは、場合分けが煩雑になったりして、逆に数学的状況が見渡しにくくなるからです。これが証明の「ショートカットに過ぎない」の意味ですが、ここには論理を扱う上での一種の良心があります。  つまり事の発端を、問題の本質を明確に析出させようという意志があります。正攻法のA⇒Bでは状況を見渡しにくくなる時、そのような場合こそ、背理法を使用すべきケースです。なので、後付けした~Bに予断を挟むな、が背理法という論理を扱う上での良心になります。仮定した通りに推論せよ!、です。  では対角線論法は?というと、上記の記述は全て当てはまるのですが、じつは対角線論法が異様な背理法であるのは事実です。正攻法がないからですよ・・・。  ここで正攻法とは、「有限の手続きによって確認できる手段」の事を指します。しかし実数の自然数によるナンバリングには終わりがないので、有限の手続きによって確認出来ません。この意味で対角線論法は、異様な背理法です。さらに言うと、無限集合論の基本的部分は、有限の手続きによっては絶対に確認できない事を扱っているので、背理法こそが正攻法になります(他に手段がない。あったら有限になる)。このとき問題になるのが、#18さんも仰っているように、否定導出型の背理法が、無限に対しても有効か?という問題です。その解答は、現在の公理系では回答不可能である事をゲーデルが、「有限の手続きを用いて」証明してしまったんです。  数学では、「有限手続きで確認できるもの」しか基本的には認めません。やろうと思えば、枚挙して確認できるだろうと考えるからです。数学って(少なくとも集合論は)、つうじょう考えられてるより、ひどく即物的なんですよ。ただ、可能無限としての可算無限までは、公理なしの実無限として認めても良いのではないのか?という事は、少なからず誰もが思っている事だと思います。それに対しては、常に経験領域で、その任意断面を見る事ができるからです。でもそれすらも、ゲーデルの不完全性定理は、確認不能と言います。  だから背理法を扱う上での論理の良心と、不完全性定理に則る限り、対角線論法に納得できないなら、「有限手続きで確認できるものしか認めない」という現行数学の世界の外へ出ろ!、と現行数学は言う訳です。そうやっても翻訳可能な定式化を、現行数学は選択しているよ・・・、と。  ・・・あざといのかな?(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ででてx3さん こんばんは。ご回答・ご説明をありがとうございます。  (1)  ★ >1対1かつ上への対応  ★ >実数以上の無限集合  ☆ すみません。ありがとうございます。  あと  ● 否定導出法  ☆ についても 明らかにしてくださりありがとうございました。  (2)   けっきょく数学の行き方は:    (あ) 一定の《公理》を決めてそれが一般に(?)受け容れられたなら その公理の内容にもとづき推論をおよぼして行った議論は 真である。  と言っているように思えます。  (3)  そして   ★ 現在の公理系では回答不可能である事をゲーデルが、「有限の手続きを用いて」証明してしまったんです。  ☆ というのでしたら 何だか自己否定をおこなっているようにさえも思われます。  そのように思われることおよびそのことの結果として:  ★ ~~~  だから背理法を扱う上での論理の良心と、不完全性定理に則る限り、対角線論法に納得できないなら、「有限手続きで確認できるものしか認めない」という現行数学の世界の外へ出ろ!、と現行数学は言う訳です。そうやっても翻訳可能な定式化を、現行数学は選択しているよ・・・、と。  ~~~~~     (4)  次のように言うのは ゴリアテ対ダビデならいいのですが ワチカン対異端者の異端者のごとくに言うかたちでしかないようなのですが けっきょくこういうことでしょうか?  つまり   (い) 数学は 〔――まちがっていたらごめんなさい――〕《無矛盾の公理は不完全であり またそのみづからの無矛盾性を証明し得ない》という定理に逆らって あらたな公理を決めそれにしたがうという道を切り拓いた。  と。  (5)  つまり  ★ 無限集合論の基本的部分は、有限の手続きによっては絶対に確認できない事を扱っているので、背理法こそが正攻法になります(他に手段がない。あったら有限になる)。  ☆ というのではなく――つまり背理法が正攻法になるという局面なのではなく―― そうではなく手続きとしての公理の決め方に そうとすれば 問題をまねく要素がある。と思われて来るのですが どうでしょうか?  (6)  すなわち  ★ 実数の自然数によるナンバリングには終わりがないので、有限の手続きによって確認出来ません。  ☆ よって・すなわち   (う)★★(回答No.19) 「0と1の間の全ての実数を自然数でナンバリングできた(過去形である事に注意して下さい)」と仮定すると、その仮定には、数え漏れはない訳です。  ☆ という或る種の公理をさだめた。ということのように思われるのですが まちがっていないでしょうか?  これは 《数え漏れがないことになる》という仮定のほうにこそ 焦点が当たると思われます。  (7)  つまりもしそうであるなら 背理法が正攻法になるといった局面が(または 局面の)問題ではなく そうではなく あくまで初めの公理の設定が問題になっている。ということではないでしょうか?  あらたな公理が設定できたとすれば すでにその時点で あとは背理法を使えば証明できるから めでたしめでたしだという筋書きは決まったということではないでしょうか?  (8)  ★ つまり事の発端を、問題の本質を明確に析出させようという意志があります。  ☆ すなわち この場合の《問題の本質》は 背理法で証明しえたコトガラなのではなく あらたな公理を設定するというコトガラそのものにある。のではないでしょうか?  (9)  ★ 数学では、「有限手続きで確認できるもの」しか基本的には認めません。  ☆ というとき 無限集合については 《限りない手続きの継続によって確認できる》かどうかを問うということになるのだと考えます。そしてそのとき どうして ただちに (6)の(う)なる公理に正当にみちびかれるか? この問いに収斂するのではないでしょうか。  (10)  公理(う)が設定され得たとすれば あとは 対角線論法が待ってましたとばかりに登場して すばやく証明を終えたよと宣言するものと思えます。  (11)  言いかえますと 無限集合論は 数学(ないし現実世界)のひとつの脇道として派生させた領域である。となるのではないでしょうか?  (12)  ★ 数学って(少なくとも集合論は)、つうじょう考えられてるより、ひどく即物的なんですよ。  ☆ とおっしゃるのでしたら 世界の現実に即していると受け取らざるを得ないからです。  (13)  でも どうも公理(う)は 何かズルいあと味がします。と思います。  (14)  論証抜きで言うのですが 複数の無限集合のあいだで 濃度の違いはあるとしても 個数〔があるとすれば〕の違いは ない。と考えるしかないと思うのですが そうは言うものの 《ひとつの脇道》においては 《個数も違いが生じている》という事態になっている。そういう論議が現実におこなわれている。――こう つつしんで 受け取りました。  (15)  もうこれで引き下がらねばいけないと思います。  何かこれだけはということがさらにありましたら よろしくおおしえいただければさいわいです。  たいへんありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ででてx3さん ででてx3さんのお考えに沿って考え直しました。内に省みました。  (1)  まづ 無限の位置づけを 次のように図示します。   (あ)世界の成り立ち ~~~~~~~    α 無限      α‐1:真無限(実無限):非経験の場         :神(《有る無し》を超える場のチカラ)         :これは ただの想定である。      α‐2:可能無限:経験世界における無限という事象    ω 有限 :《有る無し》にかかわる経験事象     ~~~~~~~~~~~~~~~  (2)  もしこうであるなら 問題はここで 可能無限の取り扱いにある。  (い) 真無限は 経験世界を超えていると想定している。      ゆえに 認識しえない。  (う) 可能無限は 経験世界に属する。      ゆえに 認識しうる。  (え) つまり 可能無限は (ω)の《有限》と同じだと見なされる。  (お) つまり 《有限》は 広義と狭義がある。      ・ 有る無しが測定しうるというモノゴトとしての《狭義の有限》と      ・ 有る無しを測定し切ったということの出来ない《広義の有限》    (3)  すなわち 図式(あ)は 見直される。   (あ‐1)世界の成り立ち ~~~~~~~    α 無限:真無限(実無限):非経験の場         :神(《有る無し》を超える場のチカラ)         :これは ただの想定である。               ・想定から概念(属性?・形容句)が派生して来る。       =永遠・不可変性・絶対・全知全能・創造主・       至高の善・愛・慈悲・無・空・・・    ω 有限:《有る無し》ないし《因果関係》にかかわる世界     ω‐1(狭義の有限):有限         :《有る無し》が確定的に測定しうる経験事象     ω‐2(広義の有限):可能無限         :《有る無し》の測定がついぞ確定しえない経験事象         ・《縁起》の事象に それでも かかわっている。   ~~~~~~~~~~~~~~~  (4)  ゆえに こう考え直しました。     (か) 可能無限としての無限集合の要素を数えるというとき その全部を数えきることが出来たと仮定することは 狭義の有限と同じく可能無限が広義の有限として《有限世界》に属するのであれば――属すると見るからには―― うなづけるのかも知れない。  つまり 《強行突破》しても 大きくは成り立つと見なければならないのかも知れません。  それをしないでおくことのほうが ズルイのかも知れません。人間として。  (5)  ただし 対角線論法は すでにこの《数えきることが出来た》と仮定するその仮定の内容に巣食っている手法であって 背理法によるよらないにかかわらず どうもその証明は出来合いの作業であるように思われる。  この見方が 余分かどうかでしょうか? 残る問題は。

回答No.22

こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ 選択公理  ~~~~~~ 選択公理(せんたくこうり、axiom of choice、選出公理ともいう)とは公理的集合論における公理のひとつで、どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができるというものである。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E5%85%AC%E7%90%86  ~~~~~~ とある   それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができる ですよ。 これができるという保証がない。   無理数という集合から一つずつ元を選び出して新しい無理数という集合を作れる 保証がない。  《無限集合である無理数という集合から一つずつ元を選べ出せる》保証がない。 だから、それを公理として設定する。これが《選択公理》です。 《すべての無理数を取り出せる》保証はないんです。   ~~~~~~~~ 集合論の創始者ゲオルグ・カントールは、選択公理を自明なものとみなしていた。 実際、有限個の集合からなる集合族であれば、そのそれぞれの集合の中から順に1つずつ元を選び出し、それらを併せて集合とすればよいのであるから、このような操作ができることは自明である。 しかし、ツェルメロによる整列可能定理の証明に反論する過程で、ボレル、ベイル、ルベーグ、ラッセルなどが選択公理の存在に気付き、新たな公理であることが認識されるようになった。確かに、無限個の集合からなる集合族の場合、上のような操作を想定しても「順に選び出す」操作は有限回で終了することはないのだから、このような操作を行えるかどうかは必ずしも明らかではない。   ~~~~~~~~ 『確かに、無限個の集合からなる集合族の場合、上のような操作を想定しても「順に選び出す」操作は有限回で終了することはないのだから、このような操作を行えるかどうかは必ずしも明らかではない。』 です。 有限集合の手法が無限集合で通用する保証はどこにもないんでげす。 なので、《選択公理》を暗黙のうちに仮定しているNo8の証明で矛盾が起きたのは、   《すべての無理数を自然数でナンバリングできる》の仮定が《偽》のためなのか、   《すべての無理数を取り出せる》の仮定、つまり《選択公理》が《偽》のためなのか が分からない。 《選択公理》が正しいならば、《すべての無理数を自然数でナンバリングできる》という仮定が《偽》ってことなんでげす。わたしの理解では。《すべての無理数を自然数でナンバリングできる》にも《選択公理》は既に溶け込んでいるのではと。。。。 そして、《選択公理》を認めると、非常に奇妙な結果が得られる。   この公理を認めると、一つの球を有限個に分割してそれぞれを集めて元の球と同じ体積の球を二つ作ることができるという、常識では考えられないことが起こる(バナッハ=タルスキーのパラドックス)。 数学の無限たって、こんなものです。いばんじゃね~、数学です。 ~~~~~~  でもただし 選択公理は どうも《集合》を扱うからには やはり経験事象の世界であると思います。 ~~~~~~ Wikipediaの説明に 「実際、有限個の集合からなる集合族であれば、そのそれぞれの集合の中から順に1つずつ元を選び出し、それらを併せて集合とすればよいのであるから、このような操作ができることは自明である。」 とある通り、《選択公理》は有限集合という経験事象からの類推に過ぎません。 経験事象を無限の世界にあてはめただけです。 ~~~~~~  数えられる(または 可能無限)というのは 1,2,3,・・・∞ と数えて行ってその ∞ にさらに 1を足すことができる。ならば まったく経験事象である。ということだと見ます。 ~~~~~~ みたいのは、ちょ~危険です。 数学カテなら、うるさい人、数学的厳密さにこだわる人に間違いなく「∞は数じゃねえだろうが」と噛みつかれます。 「それは自然数に最大数があるってことか?」 「足したり引いたりできるんか?」 とイジメられます(笑い)

bragelonne
質問者

お礼

 ふーう。  ねむりねこさん こんばんは。まづは ご回答をありがとうございます。  (1)  分かりやすいところから。  ★ 数学カテなら、うるさい人、数学的厳密さにこだわる人に間違いなく「∞は数じゃねえだろうが」と噛みつかれます。  ☆ ぢゃあ 任意の数 n ならいいんですか?  (2)  ★ ~~~~    ☆☆ でもただし 選択公理は どうも《集合》を扱うからには やはり経験事象の世界であると思います。  Wikipediaの説明に  「実際、有限個の集合からなる集合族であれば、そのそれぞれの集合の中から順に1つずつ元を選び出し、それらを併せて集合とすればよいのであるから、このような操作ができることは自明である。」  とある通り、《選択公理》は有限集合という経験事象からの類推に過ぎません。  経験事象を無限の世界にあてはめただけです。  ~~~~~~~  ☆ あぁ。そういうことですか。  ぢゃあ 今回の無理数の集まりを数え尽くすことが出来るか? という問題と同じようですね。  あっ。わたしが前から思っていたことを書いたのは:  ★ 経験事象を無限の世界にあてはめただけです。  ☆ これは このばあいの無限の世界は 可能無限であるゆえにやはりそれも大きく《経験事象》であるということです。ゆえに あてはめることをこころみるはずだと。  (3)  その問題ですが  ★ ~~~~  《選択公理》が正しいならば、《すべての無理数を自然数でナンバリングできる》という仮定が《偽》ってことなんでげす。わたしの理解では。《すべての無理数を自然数でナンバリングできる》にも《選択公理》は既に溶け込んでいるのではと。。。。  ~~~~~  ☆ むむ? まさしく カントールが用いた証明方法は 対角線論法をほどこす前に《すべての無理数を自然数でナンバリングできた》と仮定したことですよね?  だったら やっぱしその場合の結論は 活きているということなのでしょうか?  つまり   ○ ~~~  1. すべての無理数を自然数でナンバリングできたと仮定する。  2. 対角線論法によって あらたに《まだナンバリング出来ていなかった無理数》が得られた。  3. よって (1)の仮定が《選択公理》によって真だとすれば 無理数の集まりは 自然数によって数え切れないという結果が得られる。  ~~~~~~  と。そうなんですか?  (4)  またまたと言いますか 前々からと言いますか 次のような問いをわたしは持ってしまいます。  ☆☆(No.16お礼欄) ~~~   ★ ~~~~~~~~~   正確には、個数・濃度という観点から見ると、   無限集合には、いくつかの種類があるということです。   ~~~~~~~~~~~~   ☆ 階層ないし濃度としていくつかの種類がある。かも知れないが 個数においては 違いはない。と成らなければウソだと考えるのですが?   ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 自然数も 無限であるゆえにです。どうなんでしょう?  

回答No.21

あっ、すんません。No20、間違っている。頭がまだ酔っ払っている。(今日の三時まで飲んでいた。。。。) 《実数》→《無理数》 です。 【誤】 実数 【正】 無理数 訂正、よろしくお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 了解しました。  あっ。実数も 無理数をふくむということで それほど読むほうも 混乱したわけではないと思います。

回答No.20

弱ったな、本当に。 ☆☆☆☆☆☆☆ 一つの解釈  われわれの使う無限という概念は、多義である。 無限  1 自然数無限  2 実数無限  この他いっぱい。それこそ無限の意味がある 自然数無限も実数無限もともに無限ではあるが、その意味の一つにしかすぎない。 こう考えれば、問題がないと思うんですが。。。。 無限は《非思考の場》でしょう。 でも、われわれが考えられるのは、経験的事象。無限の影、幻のようなものを仮りに無限と呼んでいるにすぎない。有限の否定概念、Not有限を無限と呼び、有限の延長の中で無限をとらえているだけ。これ以外、人間の思惟は及ばない。 概念設定された無限と真実在としての無限(イデア的なものですけれど)とは違う。 概念設定された無限が論理破綻をきたすからこそ、無限ではないのでしょうか。 bragelonneさんの哲学的立場と矛盾しないと思うんですけれど。むしろこの方がbragelonneさんの《非思考の場》と合致すると思うのですけれど。 無限は無根拠だから無限ってことで駄目ですかね。 だからこそ、神は無限であり、無限は神である。 ☆☆☆☆☆☆ 「0.1121……は、そこにある」とすると、「ナンバリングをされたどの無理数とも○○行の小数○○桁の数字が異なる」ことと矛盾する。矛盾!! 「0.1121……は、そこにない」とすると、0.1121……は無理数ではない。矛盾!! いわゆる「ここに書いてあることは嘘である」などの《嘘つきのパラドクス》と同じ。 この矛盾回避のためには、「仮定《無理数を自然数でナンバリングできる》が間違い」とする以外ない。 じゃ、駄目ですか? ☆☆☆☆☆☆ 本当は、カントールの対角線論法を使ったわたしのNo8の証明から帰結できることは、 「(すべての実数は自然数でナンバリング)かつ(すべての実数を取り出すことができる》」 が間違い、《偽》『False』であること。 で、この命題が《偽》でためには 《すべての実数は自然数でナンバリングできる》 《すべての実数を取り出すことができる》 のどちらか、あるいは両方が《偽》であらねばならない。 なので、《すべての実数を取り出すことができる》が《偽》であるならば、 《すべての実数は自然数でナンバリングできる》が《真》か《偽》かは分からない。 《すべての実数は自然数でナンバリングできる》のかもしれない。。。。 でも、数学では、《すべての実数を取り出すことができる》と考える。「原理的には可能だ」とする。 だから、《すべての実数は自然数がナンバリングできる》が間違いということになる。 このあたりのことは、もう人間には分からない。 「神のみぞ知る」の世界なんです。 「bragelonneさんの疑問はごもっとも」なんです。 《選択公理》。。。。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E5%85%AC%E7%90%86 さらなる地獄へご案内します(笑い)

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  今回は ぶらじゅろんぬ講師が ご進講におよびます。よ。  ★ 無限は《非思考の場》でしょう。  ☆ それは 《真無限=実無限》なる《非経験の場》のほうです。その《場》を受け容れての《わが心の庭》です。  真無限のほかの《無限》は ぜんぶ《可能無限》ではないのですか?  ★ ~~~  無限  1 自然数無限  2 実数無限  この他いっぱい。それこそ無限の意味がある  ~~~~~  ☆ すなわちこれらの無限は 可能無限であり ぜんぶ《経験事象》に属します。  つまり  ★ でも、われわれが考えられるのは、経験的事象。無限の影、幻のようなものを仮りに無限と呼んでいるにすぎない。  ☆ ですよね。でも 可能無限を  ★ 影・幻のようなもの  ☆ というのも おかしいと言わねばならない側面があるはずです。なぜなら   ○ √2 あるいは π  は 無限ですが 経験事象に属しますから《非経験》ではありません。ということですよね?     *  ★ 有限の否定概念、Not有限を無限と呼び、有限の延長の中で無限をとらえているだけ。これ以外、人間の思惟は及ばない。  ☆ ですから――たぶん いまは ねむりねこさんにしては あとで何だったのかと思うほどこんがらがっているのではないかと思うのですが―― こうです。   ○ 有限の否定は 無限ですが そこには一方で 有限と同じ経験世界に属する可能無限と そして他方で 経験世界を超えた《非経験の場》としての実無限とがあります。  実無限は けっきょく想定です。仮りにそうだとするというかたちで 受け取っていることになる概念です。  ひとつには 《無限》だとか《神》だとかの言葉をじんるいは持ってしまったので それらの定義が必要ゆえに それには《想定》による定義になるという意味です。ひとは《永遠》に生きることなど出来っこないのに 《永遠》という言葉を持ってしまっています。  もうひとつには 確かに《想定》による定義が ふさわしいと思われることには    ○ 無限――特には 実無限――は 存在する。  というふうに 公理風に規定し定義するとすれば それは あとでやっかいな問題が生じる。と考えられるからです。  《実無限》は じっさい人間にはそれが存在するとも存在しないとも分からない。どこまでも行っても分からないという幽霊話〔としての存在? ないし 非存在〕であると考えられるからです。  《非経験の場》は 《有るとも無いとも人間には 分からない》のですし その存在ないし非在について人間が《分かるか分からないかが分からない》しろものであると捉えられるからです。        *    上の段落の内容を見積もって次のように じつは 書かれていました。  ★ ~~~~  概念設定された無限と真実在としての無限(イデア的なものですけれど)とは違う。  概念設定された無限が論理破綻をきたすからこそ、無限ではないのでしょうか。  bragelonneさんの哲学的立場と矛盾しないと思うんですけれど。むしろこの方がbragelonneさんの《非思考の場》と合致すると思うのですけれど。  無限は無根拠だから無限ってことで駄目ですかね。  だからこそ、神は無限であり、無限は神である。  ~~~~~~  ☆ 可能無限と実無限とを峻別するというひと言だと思いますね あとは。  あっ。《イデア》は きらいです。これは 好悪の問題ですけれど。その観念を振り回す結果になることが少なくないからです。    *  ★ ~~~~  でも、数学では、《すべての実数を取り出すことができる》と考える。「原理的には可能だ」とする。  だから、《すべての実数は自然数がナンバリングできる》が間違いということになる。  このあたりのことは、もう人間には分からない。  「神のみぞ知る」の世界なんです。  「bragelonneさんの疑問はごもっとも」なんです。  ~~~~~~  ☆ ううーむ。次の項目で 少し感じたところを触れます。  ▲ (ヰキぺ:選択公理) ~~~~    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E5%85%AC%E7%90%86  § 5 歴史  選択公理は、それ自身もまたその否定もほかの公理からは証明できないものであること、すなわち独立であることが示された(クルト・ゲーデル、ポール・コーエン)が、これは公理的集合論における大きな成果であろう。  ~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ▲ 選択公理は、それ自身もまたその否定もほかの公理からは証明できないものであること すなわち独立であること  ☆ これは 《非経験の場》を言っているかに見えます。《分かるか分からないかが分からない》ってやつです。《ひとり満ち足りている》という意味での《独立》です。  でもただし 選択公理は どうも《集合》を扱うからには やはり経験事象の世界であると思います。  このあたりは――神の定義にかかわって無限を考えて来ただけのわたしにとっては―― なじむには遥か遠くにある何ものかに映ります。残念ながら どういう  ★ さらなる地獄へご案内します(笑い)  ☆ になるのかが分かっていない状態だと言わざるを得ません。  そしてまた  ★ ~~~~   本当は、カントールの対角線論法を使ったわたしの No8 の証明から帰結できることは、  「(すべての実数は自然数でナンバリング)かつ(すべての実数を取り出すことができる》」  が間違い、《偽》『False』であること。  ・・・・  ~~~~~~~  ☆ につきましては 話について行きますが いま積極的に発言する用意はないようです。この段落の初めの議論として受け留めてよろしいでしょうか?  なお 集合をあつかうなら それは経験事象だというのは 数えられる(または 数えられると見なされる)場合には 経験世界のものごとだと捉えるという意味です。と考えますが?  数えられる(または 可能無限)というのは 1,2,3,・・・∞ と数えて行ってその ∞ にさらに 1を足すことができる。ならば まったく経験事象である。ということだと見ます。      *  カントールを超えて 《無限》論ないしけっきょく神学のもんだいになって来たのでしょうか? あるいは ここでは控えるべきでしょうか。(成り行きを見守ります)。  

noname#221368
noname#221368
回答No.19

 以下は、無限集合論の解釈の一つに過ぎない事、また個人的意見が多く含まれている事を、最初にお断りしておきます。 >経験世界に収まるものは、真無限でも実無限でもない・・・。  数学はそういう立場を取ります。ほとんど言葉や文章にされる事はありませんが、そこには「有限の経験世界=現実」という暗黙の前提があります。よって標準的な無限集合論における無限の「厳密な」定義は、   ・無限とは有限でない事.   (1) となります。経験世界では枚挙不可能なものとして、無限は定義されます。何故なら、全部見れたら有限だからです。この言葉の遊びのような虚しい一文が、数学における無限の「厳密な」定義なんですよ(普通は)。  しかし(1)では、可能無限にもなり得ます。そこで数学は、次のように「独断」します。   ・無限集合は存在する.   (2) と・・・。(2)を無限公理と言い、言ってしまえば数学の独断です。これは現在の標準的公理系からは証明できない事がわかっています。また物理的現実として無限が観測された事もありません。観測できたら、(1)から有限だからです。その意味で(1)は、妥当なものだと思えます。  (2)をもし認めると、経験世界には収まらない実無限は存在し、例えば、可算無限を数え尽くせる存在を認めた事と同じになります。何故(2)を認めるかというと、有限集合を日常的に数え尽くした後に使用する普通の論理は、可算無限を数え尽くせる存在にも同様に適用できるだろうと、想定できるからです。  現行の無限集合論の多くの論理はじつは、有限世界の(我々の)論理をそのまま無限世界へ拡張した外挿になっています。その意味で現行の無限集合論は、(それしか知らない)有限世界の論理で、誰も見た事もない無限世界を判断しようとした、試論なのかも知れません。  そのような立場では、有限の我々では無限に続く無理数のナンバリングも、可算無限を数え尽くせる存在では、彼の意味で(枚挙可能という意味で)やり終える事が可能かも知れない、という事になります。だから、「0と1の間の全ての実数を自然数でナンバリングできた(過去形である事に注意して下さい)」と仮定すると、その仮定には、数え漏れはない訳です。例えば1000個のものが含まれる集合の要素を、1~1000の数字でナンバリングしたのと同じ、とみなす訳です。有限の1000個の集合に対して、対角線論法が成り立つ事はありません。また有理数の集合(可算無限)に対してもそうです。  ところが実数以上の無限集合に対しては、可算無限を数え尽くせる存在が数え尽くせたと仮定すると、どうしてもナンバリングできないものを構成する具体的手段が見つかってしまう、という点が重要です。具体的手段と言っても無限に続くので、普通の意味で具体的ではないですが、そこに目をつぶると、見終わったはずなのに「必ず観測漏れがある」事になります。ここまでの前提を全て認める限りにおいて、「可算無限を数え尽くせる存在が、実数を数え尽くせると仮定してじはいけない」が、対角線論法の結論です。矛盾になるからです。  対角線論法は、たった一つの反例を示すだけですが、たった一つでも反例があれば前提を否定できる事が、論理の力です。なのでもし、対角線論法に納得できないのであれば、その前提である(1)や(2)、すなわち現行の集合論の世界観(?)を検討しなおす必要に迫られます。その最たるものは、   ・1対1(正確には、1対1かつ上への)対応なら、同数である.   (3) だと思います。(3)は余りにも有限的で、無限で成り立つ証明なんてなかろうと思えます。実際、自然数全体と偶数全体が同数(同濃度)という、初見では受け入れ難い結果を生じさせます。  自分は現行の集合論を、有限論理の素直な外挿であり、しかも実際に役に立つので受け入れていますが、そうでない立場は今でも「あり」なんです。今では余り注目されませんが、直観主義の数学などがそれに当たります。そこでは標準集合論の言葉で言うと、   ・全ての無限を可算無限に抑える公理系(全ての無限は、自然数でナンバリングできる). なとが、数学として可能なのがわかっています。ただし生産性が低いので、現在では余り注目されてないと思います。  結局、誰も見た事ない無限に対しては、誰も確定的な事は言ってない訳です(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ヱーベーリエンの ででて^3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  分かったように思うと同時に 数学は何とこすからい学問であることかと・・・。  ★ 結局、誰も見た事ない無限に対しては、誰も確定的な事は言ってない訳です(^^;)。  ☆ いえいえ。それは 真っ赤なウソでしょう。  ★ 「0と1の間の全ての実数を自然数でナンバリングできた(過去形である事に注意して下さい)」と仮定すると、その仮定には、数え漏れはない訳です。  ☆ ということほど 《確定的な事を言っている》ことはありません。しかも それは ウソです。  その仮定は 出来たと仮定するときに 自己欺瞞があるのに気づくのではないでしょうか? 冷や汗ものなはずです。胸の動悸がおさまらず遅かれ早かれその仮定は――人間であるなら――あきらめるものとわたしには思われます。  ほんとうは 永遠に無理数の個数を数え続けることになると分かっているはずなのに どうして《出来た》と仮定してしまってよいのか? と。良心の呵責に悩み 三週間は寝込まなければならないほどの心の病いに落ち入るのではないでしょうか?  数学とは 何とこすからくずうずうしく出来ていることか!      *  分からないところがあります。  (あ)  ★ ・1対1(正確には、1対1かつ上への)対応なら、同数である.   (3)  ☆ 《かつ上への》がよく分かりません。たとえば 1対2の対応というのがありえて つまり そのばあい 《2》をひとまとまりとしての《1》と見なすということでしょうか?  (い)  ★ 実数以上の無限集合  ☆ 《実数以上》の意味が分かりません。無理数を含む数という意味でしょうか?  (う)  ★ ~~~~  直観主義の数学などがそれに当たります。そこでは標準集合論の言葉で言うと、   ・全ての無限を可算無限に抑える公理系(全ての無限は、自然数でナンバリングできる).  なとが、数学として可能なのがわかっています。  ~~~~~~~  ☆ この立ち場は  ★ 有限論理の素直な外挿としての集合論  ☆ とけっきょく同じであるように思えるのですが どうでしょう? つまりは どちらも可能無限をあつかっているという点においてです。  《可能》という文字を 経験的に認識しうるという意味に どちらも読み替えているように思われます。それが ふつうだとも思いますが。      *  物言いがあります。  (え)  ★ 「可算無限を数え尽くせる存在が、実数を数え尽くせると仮定してじはいけない」が、対角線論法の結論です。  ☆ 永遠に数え続けるという場合があり得る。ので 対角線論法に頼る必要はないのではないか?   つぎも同じ主題です。  (お)  ★ 経験世界では枚挙不可能なものとして、無限は定義されます。  ☆ でも《限りない》という場合(つまり 可能無限の場合)には 枚挙可能だと見ることも可能ではないでしょうか? 子から孫へ孫からひ孫へと永遠に数え続ければいいわけです。数えられると言う立ち場もあり得るのではないでしょうか?  (か)  ということは 実無限とは何ぞや? の問題になるはずです。  なんでこれを 公理として措定するのか?  《仮りに想定する》という手口もあるのではないか?  (き)  すなわち  ★ ~~~   ・無限集合は存在する.   (2)  と・・・。(2)を無限公理と言い、言ってしまえば数学の独断です。  ~~~~~~  ☆ というところですが まづ《集合》は数えられる要素の集まりだとすれば けっきょく可能無限を超えることはないはずです。  (く)  ですから    ○ 《無限》つまり実無限を 人間は 想定する。    ○ 経験世界における因果関係から自由な《非経験の場》として想定すると。  というかたちで 無限を導入すると思うのですが どうでしょう?   (け)  ★ ~~~~~~  現行の無限集合論の多くの論理はじつは、有限世界の(我々の)論理をそのまま無限世界へ拡張した外挿になっています。その意味で現行の無限集合論は、(それしか知らない)有限世界の論理で、誰も見た事もない無限世界を判断しようとした、試論なのかも知れません。  ~~~~~~  ☆ これはけっきょく 無限を扱うと言っても すべては可能無限である。つまりは 経験事象である。ので 経験事象としての有限なることがらを 可能無限の問題にあてはめる。ことになるはずだし それしかないのではないかと考えます。    実無限は 神です。  (こ)  かくして 無理数の無限集合と 自然数の無限集合とは 一対一に対応する。のではないでしょうか?  ・1対1(正確には、1対1かつ上への)対応なら、同数である.   (3)  と。つまり すべては 《可能無限》というひとつの概念であり数であるコトにおさまるのでは?

bragelonne
質問者

補足

 ででてx3さん お早うございます。お礼欄では勝手なことを書いたかと思いますが やはり納得いかないと なお考えました。  まづ たぶん対角線論法のもんだいではないのだと考えるようになりました。  一にも二にも 《リストアップが全部できたと仮定する》というその設定に 不備がある。こう結論づけます。  0から1までのあいだの無理数の集まりをぜんぶリストアップしたと仮定するときには 同時に 実際にはその列挙は 限りなくつづくものであるのだがという断り書きを持っているはずです。  この事割りを持って じつは その仮定の内容を ほんとうは保留している。仮定したその本人が そういう保留をするという良心を持っているはずなのです。  なぜなら その保留したことをよくよく考えるなら いま仮定したことがらは 遅かれ早かれ破綻するはずだとも分かっていることを意味します。列挙漏れが出てくるに違いないと 心の底から分かっている。ことを意味します。  つまり もしそうであるなら この背理法による証明は――仮定の仕方の不備により――まったくの茶番劇です。  早晩 矛盾が現われる。ほら現われた。それなのに 見てみろ 背理法による証明が出来たと言っている。  もしこうなら 数学は 人間として卑劣である。学問としても 成り立っていない。こう捉えざるを得ません。  ☆☆(お礼欄) ~~~~  (こ)  かくして 無理数の無限集合と 自然数の無限集合とは 一対一に対応する。のではないでしょうか?  ・1対1(正確には、1対1かつ上への)対応なら、同数である.   (3)  と。つまり すべては 《可能無限》というひとつの概念であり数であるコトにおさまるのでは?  ~~~~~~~~~~  ほかの件でおぎないです:    ・ 無限集合は 集合と言うかぎりで 可能無限であり 経験事象だと言わねばならないと考えます。    ですから    無限集合は存在する.   (2)  は ふつうに経験則による規定だと思います。  ・ 無理数の無限集合の世界に 有理数の無限集合の世界における定理を投影するかのごとく当てはめるのは けっきょくとうぜんのことだと見ます。  どちらも 経験事象であるからです。    ・ 対角線論法は 《永遠に数え上げて行かねばならない(=つまり これは 保留事項である)集まりの要素を 一たんその全部につき数え上げることが出来たと仮定する》この仮定を前提するなら 成り立ちます。当てはめることが出来ます。  けれども この仮定には保留事項があります。保留事項に留意するならば 対角線論法は お呼びではありません。  ですから 問題は 数学としての《人間性》にある。こう帰結します。  もしこうであるなら それに目をつぶるわけには行かない。こう考えますが どうでしょう?

  • bokeyu
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回答No.18

> 対角線論法は 有効なのですか?    このひとつです 問い求めることは。 aだとすると矛盾が出る、故にaでない。 否定導出型の背理法ですが、対角線論法が有効なのかというより、これが有効かどうかの問題でしょう? 実無限を否定する構成主義論理でも否定導出型の背理法は認めています。

bragelonne
質問者

お礼

 ぼけゆさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ a だとすると矛盾が出る、故に a でない。  ☆ つまり   ☆☆(趣旨説明欄) ( c ) ここに(0と1の間の)すべての無理数がただ1つの列にリストアップされていると仮定します。  とすると 矛盾が出る。つまりは リストアップされていない無理数が現われる。ゆえに《全部をリストアップした》という仮定は マチガイである。  つまり   (あ) 無理数の全部をリストアップすることは出来ない。  と帰結されるということでしょうか?  ★ 否定導出型の背理法ですが、対角線論法が有効なのかというより、これが有効かどうかの問題でしょう?  ☆ ええええええっ?  上の帰結(あ)が有効かどうかの問題なんですか?  ★ 実無限を否定する構成主義論理でも否定導出型の背理法は認めています。  ☆ ですか。  《構成主義論理》や《否定導出型とその背理法》について知らないのですが ひとつ言えることとして確信があるのは   (い) 《実無限》は 肯定も否定もすることは出来ませんし する必要がありません。   (い‐1) 実無限は 人間としては それを想定するのみです。   (い‐2) あるいは 肯定したり否定したりしても 人間がそうすることによって《実無限》に何か影響が出るなどということは一切ない。   (い‐3) 経験世界における因果関係から自由であるところの《非経験の場》として想定するのみだと捉えます。  ですから たぶん《構成主義論理》にも《否定導出型の背理法》にもなじまないと考えるのですが 間違っていましょうか?  ふたつの主題があったと思うのですが 残念ながらチカラおよばず しっかりと捉えることが出来ませんでした。おわび申します。  でも ありがとうございました。

回答No.16

弱りましたね。。。。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  証明が納得いかなくても その定理は真だということで受け容れることになっていましょうか? ~~~~~~ 納得の意味にもよりますけれども、 数学では論理的に過ちがなければ、つまり、論証の過程に過ちがなければ、その結論、その定理は真であるとみなします。 それがどんなに常識に反するもの、たとえば、無限は一種類ではない、ということでも、受け容れます。認めます。それ故に、これは「カントールのパラドクス」と言われました。常識に反するからです。 ☆☆☆☆☆☆  ★ ~~~  これとほぼ同種の問題に、  ラッセルのパラドクスがあります。  ~~~~~  ☆ これは 公理を前提に置くことで解決されたとあります。同種ではないのではないでしょうか? ~~~~~~ ラッセルのパラドクスとカントールのパラドクスの構造は、基本的に同じです。 どちらも《べき集合》の濃度が関係するからです。 実数(無理数も)の濃度は、自然数の部分集合のすべての集合を集合の要素・元を持つ集合、自然数のべき集合の濃度で定義できます。 そして、べき集合の濃度は、かならず、もとになった集合、実数の場合は自然数の集合、の濃度より大きい(カントールの定理)。 そうだとすると、自分自身を含むすべての集合の集まりの濃度は、自分自身の濃度よりも大きい。 これがラッセルのパラドクスです。 基本構造は、カントールのパラドクスとラッセルのパラドクスは同じということです。 べき集合というのは、たとえば、 {1, 2}という集合の場合、 空集合φ、{1}、{2}、{1、2} が部分集合なので、そのべき集合は {φ、{1}、{2}、{1、2}}となります。 元の集合{I、2}の元の個数、つまり濃度は2。 これに対して、そのべき集合の元の個数、濃度は4となり、もとの集合よりも大きいことになります。 いかなる集合の場合においても、このことが成立することを、カントールは1対1の対応をもとに証明しています。 このことからも、自然数の集合の《無限》の濃度と、実数の集合の《無限》の濃度が違うことが証明されます。 そして、実数のべき集合の濃度は、実数の濃度よりも大きい。 さらに、そのまたべき集合の濃度は。。。。 またまた。。。。 つまり、無限(集合)の濃度は、それこそ無数にあるということです。 たぶん、カントールの対角線論法よりも、べき集合を使って、無限集合には階層があると言った方が分かりやすいんでしょうね。実数とか無理数といった数学的概念を使う必要がありませんから。 自然数のべき集合は、自然数よりも、個数がいっぱい、濃度が大きいで、事が足りますんで。 こちらの方が分かりやすいんじゃないでしょうか。素朴実在論的ですし。 わたしなら、こう説明しますね。 で、 無限(集合)の濃度を一つだけとすると、困ったことが起きますよ。この矛盾回避のために、納得はいかないでしょうが、すこしおまけしてもらって、濃度を増やしてみませんか(笑い)。 数学でいう《無限》は、哲学や宗教でいう《無限》の概念とは異なります。 元、要素を有限個持つ集合(有限集合)ではない集合を無限集合と呼ぶに過ぎません。 なので、正確には、個数・濃度という観点から見ると、 無限集合には、いくつかの種類があるということです。 まぁ、無限の切りわけです。それ以上でもそれ以下でもありません。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  ☆ これは おかしい。だって あたらしく得た無理数 0.1121…… は 《全部リストアップした》の中に入っていなければおかしい。もし  ★ 列挙されたはずのどの無理数とも対角線の小数の部分で異なり、そこの中に存在しないことになってしまう。  ☆ というのなら それはただ拾い損ねただけのはずです。いかに《仮定》だと言え 《全部》というのは そういう意味でなければおかしいです。 ~~~~~~ これは弱ったな。 b=0.1121……なる数は、全部リストアップされた無理数の中に入っていない。 したがって、b=0.1121……は無理数ではないと結論される。b=0.1121……は絶対にリストアップされているa(n)のn桁目で違うんだから。(n=1,2,3,……) しかし、b=0.1121……は無理数じゃないか。リストアップされた無理数の中にあるはずだ。 でも、ない。 おかしい。矛盾だ。 ってことはだ、仮定がおかしいということになるんじゃないか。 自然数のナンバリングをして無理数を列挙すると仮定したことが間違っているんじゃなかろうか。 きっとそうだ。 としかお答えようがない。 これで、納得してもらえませんか? 背理法を使った証明とは、そういうものだとしかお答えしようがないもので。

bragelonne
質問者

お礼

 いえ。こちらが 弱りました。  ご説明をありがとうございます。  ○ 対角線論法は 有効なのですか?    このひとつです 問い求めることは。  ねむりねこさんご自身が 納得されたその内容を できるだけ一般の人間に分かるようにおしえて欲しい。  パラドックスであるのに その定理が真であると納得行ったという専門家の人びとのその納得の中身を できるだけやさしくおしえて欲しい。  これだけのことです。  いまの場合は 《無理数の集まりのほうが 自然数の集まりよりも――どちらも無限ではあるが―― 大きい》という定理について 対角線論法は その証明にとって有効であるのか? これです。  ヰキぺにその証明の仕方が載っていますが その数学的手続きは分かりません。ので 出来ることなら やさしく説明して欲しい。これだけの問いです。  ★ ~~~~  ・・・  ってことはだ、仮定がおかしいということになるんじゃないか。  自然数のナンバリングをして無理数を列挙すると仮定したことが間違っているんじゃなかろうか。  きっとそうだ。  ・・・  ~~~~~  ☆ ということになれば 対角線論法は ダメだという意味に取れますが どうなんでしょう?  数学と哲学との違いなどについても触れて説明をこころみてもらっていますが そしてたとえば  ★ ~~~~  つまり、無限(集合)の濃度は、それこそ無数にあるということです。  たぶん、カントールの対角線論法よりも、べき集合を使って、無限集合には階層があると言った方が分かりやすいんでしょうね。  ~~~~~  ☆ といったところなど 分かったように感じもしたのですが 考えてみれば やはりなおどうもおかしいと思います。  いくら《階層に違いがある》と言っても 無限であるのなら 二つの無限のあいだに 大きさも濃度も やはり違いはない。としか考えられません。限りなくつづくかたちで互いに一つひとつが対応するはずだからです。そうでなければ 有限の数のあいだでくらべているに過ぎないと考えられませんか?  つまりは もしたとえ階層の有無や多寡によって濃度に差があると表現することが数学において役に立つとしても 数としては ふたつのあいだに差はない。すべて一対一に対応しているはず。となります。そうでなければ 無限ではないのではないでしょうか?  それとも 数学は こういった考えとは別の仕方で考えるということでしょうか?  ★ ~~~~  正確には、個数・濃度という観点から見ると、  無限集合には、いくつかの種類があるということです。  ~~~~~~  ☆ 階層ないし濃度としていくつかの種類がある。かも知れないが 個数においては 違いはない。と成らなければウソだと考えるのですが その考え方のどこがおかしいかを 最後になるかと思いますが おしえていただければありがたく存じます。

回答No.15

>>> No.13 お礼欄  経験事象の内におさまるものは 《真無限》ではありません。実無限ではありません。    と どうしてならないのでしょう? <<< やはりそう来るでしょうね。。。 で、《真無限》とはいったい何なのでしょうか? bragelonne さんの哲学では、「仮説」を立てることは禁じられるのでしょうか? 「はじめに《真無限》ありき」という考えを述べ立てておられるのと同じです。 それはまさに「実無限」ありきと「証明為しに」述べ立てる「肯定神学」と、どう異なるのでしょうか? 「○○だと仮定してみたら、××だからダメだよね」とすることが受け入れられないのは、どうしてでしょうか? 他の思索というものを排除するところには「狭義の哲学」しか残らないのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ で、《真無限》とはいったい何なのでしょうか?  ☆ 《真無限=実無限》についての定義をかかげます。何度でもかかげます。  ちなみに  ★ bragelonne さんの哲学では、「仮説」を立てることは禁じられるのでしょうか?  ☆ と言っていますが 以下にかかげる定義が 《仮説》です。  そのような仮説は いづれにしても みなで検証して行くということでしょう。  肯定神学だとか否定神学だとかのレッテル貼りは いいところでやめましょう。  ○ (神とは何か?――《真無限》について――) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

回答No.14

こんにちは。 No12のお礼欄の質問に答えます。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~~  ★ つまり、「これで0から1の間にある無理数は全部リストアップされ、番号がつけられた」ということになります。  ☆ というリストアップとナンバリングが けっきょく永遠につづいている。というのが 実際の情況なのではないでしょうか?  リストアップは どこまで行っても終わらない。それと一対一に対応して 整数による番号づけもつづいている。ということではないでしょうか? ~~~~~~~ 《リストアップ》という言葉に、たぶん、番号がつけられる、つまり、《可付番》であるということが暗黙に含まれているのでしょう。一行、二行という感じで番号がつけ列挙することができる。。。。 我々が具体的にイメージできるのは、これだけ。 だから、われわれは、そう思い込んでいる。。。。 ではあるが、 自然数の番号をつけて無理数をすべて列挙できると仮定して、無理数を列挙してみよう(背理法)。 だとすると、 列挙されたはずなのに、対角線論法であたらしく作った0.1121……なる無理数は、列挙されたはずのどの無理数とも対角線の小数の部分で異なり、そこの中に存在しないことになってしまう。 これはおかしい。仮定が間違っている。 となります。 ですから、 ~~~~~~  《全部リストアップした》という仮定がまちがいではないでしょうか? ~~~~~~ に質問に対しては、YESです。 《自然数の番号をつけて》無理数のすべてをリストアップできると仮定したことことが間違っている。 その仮定が間違っている。 そして、 0~1の間にある無理数の個数は、少なくとも、自然数の個数よりも少なくないのは明らか。 なので、無理数の個数は、自然数よりは多い。 無理数の集合の個数の《無限》と自然数の集合の個数の【無限】は異なる。 無理数の《無限》の方が自然数の【無限】より大きい。 無理数や実数の《無限》個をヘブライ文字のアレフであらわし、連続体の濃度と呼び、 自然数や整数の【無限】個をアレフ・ゼロ、可付番の濃度と呼びます。   アレフ・ゼロ < アレフ で、自然数や実数の集合も無限集合なので、アレフ・ゼロとアレフは無限集合の濃度の一つに過ぎません。 ~~~~~~  或る無限と別の無限を比べて 数量で対応させるなら 一対一で対応するはずです。一つづつ拾い上げて行くだけですから。そしてそれが 無限につづくというだけだと理解します。とはならないのでしょうか? ~~~~~~ 原理的には、一つづつ拾い上げて行くことは可能ですが、 無理数のすべてに自然数の番号をつけることはできない。 です。 「自然数の集合とは異なる別のある集合と1対1対応させて、一つずつ拾い上げることは拾い上げる」ことは原理的には可能です。でも、それは自然数の数の集まり、集合ではない、ということです。自然数ではナンバリングの個数が足りない。。。。 この辺は、もう、常識を越えています。ですから、カントールの考え方は当時の数学界にはすんなりと受け容れられなかった。無限は一つしかない。絶対に、カントールの考え方はおかしい。。。。 ~~~~~~~  或る無限と別の無限を比べて 数量で対応させるなら 一対一で対応するはずです。一つづつ拾い上げて行くだけですから。そしてそれが 無限につづくというだけだと理解します。とはならないのでしょうか? ~~~~~~~ これはYESです。 でも、自然数の集まりと無理数の集まりとは1対1対応ではない、です。 ☆☆☆☆☆☆ 参考までに、 これとほぼ同種の問題に、 ラッセルのパラドクスがあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 ☆☆☆☆☆☆ この種の数学的問題は、数学カテのほうが適しているんではないですか。 わたし、もともと数学カテにいたんで、構わないんですけれども。 でも、数学カテ、結構、激しい言葉が飛び交うからな。 「小学生からやり直せ」とか、「数学以前に国語の問題だ」とか。。。。 なんで、こっちに引っ越してきたですか? 同じような問題に答えるのに飽きちゃったからですかね~。 基本的に、投稿者に中高生が多くて、似たような質問が多いんですよ、数学カテ。 毎度毎度、似た問題を解くのに飽きちゃった。 それに、わたしが解かなくても、他の誰かが解いてくれますから。。。。 「なら、いいな」とやめちゃいました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご説明をありがとうございます。  ★ 《リストアップ》という言葉に、たぶん、番号がつけられる、つまり、《可付番》であるということが暗黙に含まれているのでしょう。  ☆ 分かりました。  ★ ~~~~  自然数の番号をつけて無理数をすべて列挙できると仮定して、無理数を列挙してみよう(背理法)。  だとすると、  列挙されたはずなのに、対角線論法であたらしく作った0.1121……なる無理数は、列挙されたはずのどの無理数とも対角線の小数の部分で異なり、そこの中に存在しないことになってしまう。  これはおかしい。仮定が間違っている。  となります。  ~~~~~~  ☆ これは おかしい。だって あたらしく得た無理数 0.1121…… は 《全部リストアップした》の中に入っていなければおかしい。もし  ★ 列挙されたはずのどの無理数とも対角線の小数の部分で異なり、そこの中に存在しないことになってしまう。  ☆ というのなら それはただ拾い損ねただけのはずです。いかに《仮定》だと言え 《全部》というのは そういう意味でなければおかしいです。  それとも すでにそうではないかと言っていますが リストアップは いつまでもどこまでも永遠につづいているということではないですか?  ですから 対角線上にひとつの数を取り上げ 別の数に換えて行くという手続きは けっきょく リストアップの作業が永遠につづくのと同じように延々と続けなければならない。ということではないでしょうか?     *  そうして  ★ 《自然数の番号をつけて》無理数のすべてをリストアップできると仮定したことことが間違っている。  ☆ というご見解について どう考えても受け容れられません。  無理数が 列挙として永遠につづくなら それに一対一で対応させるところの自然数も同じく永遠につづくはずです。  そうとしか考えられません。  ★ 0~1の間にある無理数の個数は、少なくとも、自然数の個数よりも少なくないのは明らか。  ☆ いかにねむりねこさんの確信に満ちた言明であっても こればっかりは 受けつけられません。無理数が限りなく取り上げられるにつれ そのつど自然数が一つひとつ対応して番号づけされていくはずです。  無限とはそういう意味ですよね?  つまり 無理数も 自然数も ともに無限です。     *  ★ ~~~  原理的には、一つづつ拾い上げて行くことは可能ですが、  無理数のすべてに自然数の番号をつけることはできない。  です。  ~~~~   ☆ なぜでしょう? 拾い上げるたびに 自然数がひとつ増え その番号がつけられる。いたって単純なことではないでしょうか?  ★ 自然数ではナンバリングの個数が足りない。。。。  ☆ どうしてですか? 無限ですよ。  ★ この辺は、もう、常識を越えています。  ☆ まさか!? ではないのでしょうか? そんなんで数学が成り立つのでしょうか?  ★ ですから、カントールの考え方は当時の数学界にはすんなりと受け容れられなかった。無限は一つしかない。絶対に、カントールの考え方はおかしい。。。。  ☆ ほかの人は別としてです。  証明が納得いかなくても その定理は真だということで受け容れることになっていましょうか?     *  ★ ~~~  これとほぼ同種の問題に、  ラッセルのパラドクスがあります。  ~~~~~  ☆ これは 公理を前提に置くことで解決されたとあります。同種ではないのではないでしょうか?     *  ★ でも、自然数の集まりと無理数の集まりとは1対1対応ではない、です。  ☆ なぜでしょう?

回答No.13

おそらく、No.10での(再提示の)リンク先やNo.11では納得しないでしょうね。。。 >>> No.10 お礼欄 ★ まさに「実無限を仮定している」わけです。  ☆ というところは 分かりません。むしろここに《実無限》を持ち出すということが理解できません。  有限の場に実無限がおさまるとは とても思えません。 <<< であれば、無理数を想像することができないでしょうから、とりあえず有理数の実無限で話をします。 ケーキ(あるいは、0と1の間)を三等分するとします。 1/3=0.33333333333333333333333333333................... となります。 1/3は0.3よりも大きく、0.4よりも小さい 0.33よりも大きく、0.34よりも小さい 0.333よりもおおきく、0.334よりも小さい と、3が無限につづくことで、その数を挟み込む両側の数も無限に1/3に近づきつつ、無限に数を増やしていきます。 1/3ひとつだけで、その数とその数を挟み込む数について、「可能無限」ですが、無限個の個数が入り込むことは分かったはずです。 それぞれの無限につづく少数点以下の数について、「可能無限」ではなく「実無限だと仮定」すると、0と1との有限の長さの間に「実無限」が入り込むことを「仮定」できるはずです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご説明をありがとうございます。  ★ それぞれの無限につづく少数点以下の数について、「可能無限」ではなく「実無限だと仮定」すると、0と1との有限の長さの間に「実無限」が入り込むことを「仮定」できるはずです。  ☆ 《仮定》であってすらも 理解不可能だと考えます。  そんな例証の以前に 《実無限》とは何かという定義から始めなくてはならないのではないでしょうか。  経験事象の内におさまるものは 《真無限》ではありません。実無限ではありません。    と どうしてならないのでしょう?

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