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カントールの対角線論法とは?
- カントールの対角線論法は無限集合における大きさの比較に関する定理であり、無理数の集合が自然数の集合よりも多くの要素を持つことを示しています。
- 具体的な例を用いて説明すると、無理数の集合と自然数の集合を1対1に対応させることを考えます。しかし、対応させた無理数に対して小数点以下の数字を変更する操作を行うと、新たな無理数が得られます。この新たな無理数は、元の無理数とは異なる要素であり、自然数との対応関係も失われます。
- したがって、無理数の集合は自然数の集合よりも要素が多いことが示されます。これにより、カントールの対角線論法は無限集合には大小が存在することを示す重要な定理となっています。
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#46です。たった一夜で、こんなに番号が増えたんですね(^^)。こういう話題に興味を持つ人は、やっぱり沢山いるんなぁ~(・・・違った、数人か)。でも皆さん熱心ですね。やっぱり皆、現在の集合論はどこか異様だと、感じてるのでは?と、勝手に邪推してしまいます・・・(^^)。 >(1) ★ 今の結論は、「現在の無限集合論は嘘かも知れないが、嘘にしても良く出来た話だ」・・・です。 ☆ 役に立つということのようですね。 それでも わたしの見方からすれば その起源について知っておきたいとは思います。 私の見方からしても、その起源について知っておきたいです。現在の集合論は直観主義の数学などと比較すると、圧倒的に役に立ち、技術として非常に強力です。その「強さ」は、何を受け入れる事によって手に入れたのか?、代償として何を諦めたのか?。役には立たなくても、そのような事をちゃんと知っておきたいと思っています。 >☆ これは 人間の眼から見て《無茶な仮定》なのでしょうが α さんにとっては お茶の子さいさいのわざではないでしょうか? と言うより そういう能力を持った α さんを想定しているのですから。 >実数無限を 実無限と呼ぶ一定のアタイを取るあたかも有限の数として扱うことが出来ると仮定したわけですから。 そういう想定(仮定)はしてないんですよ。 > 実数無限を 実無限と呼ぶ一定のアタイを取るあたかも有限の数として扱うことが出来ると仮定したわけですから。 α さんは可算無限人(我々は有限人)なので、α さんにとって可算無限は有限に見えても、実数無限はやはり彼にとっても我々にとっても無限です。ただしαさんにとって、実数無限は可算無限になります。ポイントはここかな?、と思いました。 自分は、彼の有限(我々の可算無限)とかわかりにくい表現をしましたので誤解が生じたのかな?、とも思いましたが、そうではない気がしました。 実無限を想定したとしても、それは一定の値を取りません。それはあくまで一定の値を取らない無限です。αが有限とみなす可算無限は、我々の有限とは正反対のもので別物です。それは有限の対立概念である、無限に属するものです。 α さんは可算無限の終端が見えるので、そこではα さんも、可算無限と連続無限の比較において、我々が行う有限と可算無限の比較と、同じ「論理」を使うだろうと想定する。その一点に関してしか、数学は言わない。α さんの有限と、我々の有限が同じだなんて、誰が言った?。俺は言ってないぞ、と現在の数学は強弁します(するんですよ)。 以上が、「言葉(概念)の意味において矛盾ではないのか?」と問われれば、そうだと思います。それが現行数学の失ったものだと思います。数え尽くせたと仮定した存在として実無限を指定したのに、一定値を取らないとか・・・。 今回は、論点整理のために、これくらいにします(整理になったのかな・・・(^^;))。 >☆ 経験世界における無限は 無理数のたぐいなのでしょうか。 この経験世界を超えた《非経験の場》という想定 つまりそれとしての無限は むろん想定ですよね。 現実に観測できる無理数は、(それがあったとして)無理数の有限桁数までで、常に有理数です。それでも一つの無理数が「ある」と、論理的に首尾一貫して言うためには(経験的にありそうだから)、全ての議論に先行させて実無限の存在を認める必要がありました。それが無限公理の要請です。 なのでコーシー式の実数論は、(近似規則は与えますが)ある無理数を近似する全ての有理数の集まり(集合)を、その無理数そのものだとみなします。それらの集合達と、無限公理の要請によってあるはずの無理数達の一個一個が、全単射の関係を結ぶからです。この状況を、同一視するという一言で片付けますが、存在論的には、極悪非道かも知れません(^^;)。
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- NemurinekoNya
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説明不足でした。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ ★ ~~~~ bは無理数だから、リストアップされたあるa(n)と等しくならなければならない。 でも、bとa(n)はn桁目が必ず異なっている。 bと等しいa(n)は存在しない。 ~~~~~~ ☆ この《 b と a(n) は n 桁目が必ず異なっている》ところの b に対してすでに初めに a(n) または a(n') を対応させてリストアップしたはずなのではないでしょうか? 自然数 a は有限ではないのですから。 ~~~~~~ a(1)、a(2)、a(3)、……は、0から1の間にある無理数です。 無理数は無限小数であらわされます。 それで、自然数の番号はa(1)、a(2)、a(3)、……の()の中に入っているんですよ。 つまり、「これで0から1の間にある無理数は全部リストアップされ、番号がつけられた」ということになります。 で、ご紹介したカントールの対角線論法を使うというわけです。 たとえば、 番号 変換前 変換後 1 0.2351…… → 0.1351…… (変換前の小数1桁目が「1」じゃなく「2」だから「1」に変換) 2 0.3849…… → 0.3149…… (変換前の小数2桁目が「1」じゃなく「8」だから「1」に変換) 3 0.8713…… → 0.8723…… (変換前の小数3桁目が「1」だから「2」に変換) 4 0.9452…… → 0.9451…… (変換前の小数4桁目が「2」だから「1」に変換) という感じで変換します。 で、変換した奴の対角線部分を抽出して、b = 0.1121……という小数を作る。 このb = 0.1121……は変換前のどれとも一致しない。 1番目の0.2351とは小数1桁目が「1」なので一致しない。 2番目の0.3849とは小数2桁目が「1」なので一致しない。 3番目の0.8713とは小数3桁目が「2」なので一致しない。 4番目の0.9452とは小数4桁目が「1」なので一致しない。 変換したbは、n番目の変換前の無理数a(n)と小数n桁目で絶対に一致しない。対角線が一致しないように作ってある。 「どうだ、エヘン。無理数の集合は、自然数の集合の個数より多いんだ」とカントールは言ったわけです。 かわいそうに、《無限》の開拓者カントールは、この後、精神を病みます。
お礼
さらなるご説明をありがとうございます。 ★ ~~~~ で、変換した奴の対角線部分を抽出して、b = 0.1121……という小数を作る。 このb = 0.1121……は変換前のどれとも一致しない。 ~~~~~~ ☆ ここですよね 問題は。 ここで変換を経てあらたに得たという無理数 b = 0.1121…… これは すでに初めに――《全部リストアップされた》というのなら―― 拾い上げられていたのではないでしょうか? という疑問なんですけれど。通りませんか? あるいはつまり ★ つまり、「これで0から1の間にある無理数は全部リストアップされ、番号がつけられた」ということになります。 ☆ というリストアップとナンバリングが けっきょく永遠につづいている。というのが 実際の情況なのではないでしょうか? リストアップは どこまで行っても終わらない。それと一対一に対応して 整数による番号づけもつづいている。ということではないでしょうか? 《全部リストアップした》という仮定がまちがいではないでしょうか? 《仮りに全部リストアップした》としてみる場合 そこに漏れた無理数がもしあったとしたら それは《リストアップが仮りのものだったから》ということになるはずです。 《仮りに全部》という仮定について それは《全部》ではなかったとなります。つまり《仮りに》だったという前提に合います。 或る無限と別の無限を比べて 数量で対応させるなら 一対一で対応するはずです。一つづつ拾い上げて行くだけですから。そしてそれが 無限につづくというだけだと理解します。とはならないのでしょうか?
補足
お礼欄のあとに書いています。 ★ a(1)、a(2)、a(3)、……は、0から1の間にある無理数です。 ☆ これについて誤解していたようです。 つまり a も b も無理数なのですね。 でしたら c なら c という記号で 番号づけのための自然数を表わすとして わたしからの物言いの文章を受け留めていただければさいわいだと思います。失礼しました。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> No.10 お礼欄 ★ まさに「実無限を仮定している」わけです。 ☆ というところは 分かりません。むしろここに《実無限》を持ち出すということが理解できません。 有限の場に実無限がおさまるとは とても思えません。 <<< 。。。やはり「無限に続く平行線」ですね(笑) 「無理やりにでも押し込む」ということを仮定(想像)できないとするなら、bragelonneさんも本質的には「否定神学」派なのでしょうね。。。 関連して、こちらも面白いです。(無限分割と関連しています) http://ja.wikipedia.org/wiki/0.999...
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「無理やりにでも押し込む」ということを仮定(想像)できないとするなら ☆ そういう仮定があるとは知りませんでしたが もし仮定がありえたとしても どのように《実無限》が 最終的な議論の結果においてもかかわっているのか。これを明らかにして初めて その意味があるというものです。 ★★ まさに「実無限を仮定している」わけです。 ☆ が もしそうだったとして どういう意味をになったか? これを明らかにして全体の理解が得られる。というものだと思っています。 ▲ (ヰキぺ:0.999...) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/0.999... § 3.1 分数を用いた証明 筆算を用いると 1/3 のような、整数の単純な割り算が循環小数 0.333... となる。ここで 3 は終わることなく永遠に続く。 この小数を用いて、0.999... = 1 を即座に証明することができる。 3と3の積は各桁に 9 を生ずるので、 3 × 0.333...は 0.999... に等しい。 一方、3 × 1/3 は 1 である。 したがって 0.999...=1 である。 この証明の別の形として、1/9 = 0.111... に 9 を掛けることもできる。 ~~~~~~~~ ☆ これは おかしい。 1/3 = 0.333... この等式は 便宜上の記載法である。 その便宜式に 3なら3を 両辺に掛けるという作業をほどこすのが まちがいであるはずだから。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> No.7 お礼欄 考えてみれば ( c ) ここに(0と1の間の)すべての無理数がただ1つの列にリストアップされていると仮定します。 ということで この《(0と1の間の)すべての無理数》というのは いくら無理数と言えども 0と1とのあいだにおさまるとすれば 有限の数になるのでしょうか? でも 0と1のあいだに 限りなく無理数はならぶのでしょうか? <<< 「○○、でも、○○、でも、○○、」と、無限に続くかもしれないですね(笑) 「仮定します」と書いてある以上、仮定しているわけです。 「無理」にでも「0と1のあいだに 限りなく無理数はならぶ」と仮定しているわけです。 まさに「実無限を仮定している」わけです。 No.4でリンクしている 第7節 カントールの実無限という考え方 http://swansong3478.web.fc2.com/002400kanntorunojitumugenn.html を参照してください。
お礼
ご説明をありがとうございます。 たぶん 《仮定する》と言うところは おっしゃるとおりと思います。 ただ そのことが ★ まさに「実無限を仮定している」わけです。 ☆ というところは 分かりません。むしろここに《実無限》を持ち出すということが理解できません。 有限の場に実無限がおさまるとは とても思えません。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> No.6 お礼欄 ★ 現に、神の証明に利用されたカントールの集合論にしても、さまざまな問題点が指摘されてきました。 ☆ それでは 《神の証明》という議論は 成り立っていないということでしょうか? つまり カントールの集合論を利用した証明は 無意味ということでしょうか? 無意味なものを この質問の前身の質問において 回答として提出されたのでしょうか? <<< いいえ、2重の意味で勘違いをされておられます。 1.前身の質問にて「哲学するサラリーマン」氏のサイトを引用したのは、「実無限・可能無限」という概念に対して「肯定神学・否定神学」を比喩的に表そうとしただけです。「実無限」---「平行線定理ありき」--- 「肯定神学」という結びつきについて触れているので引用しただけです。 「神の存在証明」については、「無限」を扱っていた様々な方々が行おうとして(ある意味)失敗しています。ゲーデルもその一人で、「結論を事前に信じている人にとってのみ、論理的なものになるだろう」といった内容とのことです。「ゲーデルの哲学」・不完全性定理と神の存在論、高橋昌一郎著、講談社現代新書、p.219。まさに「肯定神学」を地でいっているようなものです。 2.上記のことと、数学基礎理論の発展史とは無関係です。 体系と矛盾(パラドックス)と、数学理論との関係については、「ゲーデルの不完全性定理」とも深く関係するところです。 詳しくは wikiであれば http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%80%A7%E5%AE%9A%E7%90%86 本であれば、 ゲーデルと20世紀の論理学3 不完全性定理と算術の体系 田中 一之 編 ISBN978-4-13-064097-8, 発売日:2007年03月上旬, 判型:A5, 264頁 http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-064097-8.html ゲーデル「不完全性定理」、林晋、八杉満利子 訳、岩波文庫 等を参照されるといいでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ いいえ、2重の意味で勘違いをされておられます。 ☆ でしたら この質問は すでにそのときの前身の質問から切り離して 趣旨説明欄での記述にのみしたがって問うこととします。
- NemurinekoNya
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作り変えた無理数の少数○○位のの数字が、リストアップされたどの無理数とも少数○○位の数字が必ず異なっているからです。 カントールの対角線論法を使うと、そのように作り変えることができるんです。 口で説明するの面倒だから、証明しちゃいます。 【証明】 たとえば、無理数に自然数の番号が与えらると仮定して a(1) = 0.b(1,1)b(1,2)b(1,3)… a(2) = 0.b(2,1)b(2,2)b(2,3)… a(3) = 0.b(3,1)b(3,2)b(3,3)… ・ ・ ・ ここで、b(n,m)はa(n)のm桁目の数字 b = 0.b(1)b(2)b(3)… b(n) = 1 (a(n,n) ≠ 1のとき) b(n) = 2 (a(n,n) = 1のとき) とする。 bは無理数だから、リストアップされたあるa(n)と等しくならなければならない。 でも、bとa(n)はn桁目が必ず異なっている。 bと等しいa(n)は存在しない。 無理数をリストアップし、自然数を割り当てられると仮定したことが間違っている。 無理数の集合は、自然数の集合よりも個数が多い、数学でいうところの濃度が大きい。 というのが、証明の一例です。 対角線の数字を操作する。だから、カントールの対角線論法というわけです。
お礼
ねむりねこさん ご説明をありがとうございます。 例によって小学生質問です。 ★ ~~~~ bは無理数だから、リストアップされたあるa(n)と等しくならなければならない。 でも、bとa(n)はn桁目が必ず異なっている。 bと等しいa(n)は存在しない。 ~~~~~~ ☆ この《 b と a(n) は n 桁目が必ず異なっている》ところの b に対してすでに初めに a(n) または a(n') を対応させてリストアップしたはずなのではないでしょうか? 自然数 a は有限ではないのですから。
- 来生 自然(@k_jinen)
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こちらの方が判りやすいかも知れません。 「中学生でも十分フォローできるような内容」になるようにしたとのことです。 http://kurt.scitec.kobe-u.ac.jp/~fuchino/chubu/infinity-LN.pdf 数学の中の無限— 無限の中の数学*1 渕野昌(Saka´e Fuchino) 2005 年4 月26 日 対角線論法と濃度(アレフ)についてはp.14の定理3以降にあります。
お礼
つづいてです。 考えてみれば ( c ) ここに(0と1の間の)すべての無理数がただ1つの列にリストアップされていると仮定します。 ということで この《(0と1の間の)すべての無理数》というのは いくら無理数と言えども 0と1とのあいだにおさまるとすれば 有限の数になるのでしょうか? でも 0と1のあいだに 限りなく無理数はならぶのでしょうか?
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.4です。 >>> 第11節 対角線論法の裸の姿 http://swansong3478.web.fc2.com/002800taikakusen … ここまでで、一段落しています。第12節は横井直高氏の哲学観(感)について記述があります。 <<< として、紹介を打ち切ってしまいましたが、第13節以降に続きがあります。 続きの部分は「哲学するサラリーマン」 http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164.html での、「3.可能無限と実無限」内の記述に重なります。 >>> 2.神の証明 落合仁司の『〈神〉の証明』(講談社現代新書)という本は、この「人間と神」「有限と無限」という問題を考える際に、極めてユニークな視点を提供してくれます。以下、その内容を要約します。 (中略) カントールの集合論は、無限についていくつかの驚くべき結論を導き出しましたが、ここでの文脈にとって重要なのは次の2つの定理です。1つは無限集合においては部分と全体の濃度が等しいケースがありうること、2つは無限集合にはその大きさの大小があるということです。 (中略、ここでの文章は「落合仁司の『〈神〉の証明』(講談社現代新書)」の範疇であることに注意。したがって、疑問を「哲学するサラリーマン」氏に向けられること自体がおかしいでしょう。。。) 3.可能無限と実無限 (中略) 現に、神の証明に利用されたカントールの集合論にしても、さまざまな問題点が指摘されてきました。例えばすべての集合の集合を考えると、必然的に矛盾が生じてしまうことが、カントール自身によって確認されていますし、その他にも、ラッセルのパラドックスなどの存在も知られています。そしてこのようなパラドックスを回避しようとヒルベルトらによって企てられた公理的集合論の構築の試みが、ゲーデルの不完全性定理によって最終的に達成不可能であることが証明されてしまったことは周知の事実です。この集合論の崩壊は、すべて無限集合を完結した実体としてとらえることによって必然的に引き起こされてしまうものなのです。 (後略) <<<
お礼
つづいてです。 ★ 疑問を「哲学するサラリーマン」氏に向けられること自体がおかしいでしょう。。。) ☆ そのサイトに記述されている文章の内容について 検証してくださいという問いです。著者に疑問を向けたというのは 少し違います。 (そういうかたちで 受け取られてしまいがちだとしたら あくまで表題のようにその主題について問うものだと申し述べておきたいと思います)。 ★ 現に、神の証明に利用されたカントールの集合論にしても、さまざまな問題点が指摘されてきました。 ☆ それでは 《神の証明》という議論は 成り立っていないということでしょうか? つまり カントールの集合論を利用した証明は 無意味ということでしょうか? 無意味なものを この質問の前身の質問において 回答として提出されたのでしょうか?
- NemurinekoNya
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あっ、ごめんなさい。 No2の回答を、訂正。 【誤り】ただ、0.133……を並べ替えてつくった0.245……の小数点1位の数字「2」は1ではない。小数点2位の数字「4」も2ではない。3位は「5」も3ではない。。。。 【訂正】ただ、0.133……を並べ替えてつくった0.245……は、自然数1に対応する無理数とは小数以下1番目の位で違い、自然数2に対応する無理数とは2番目の位で違い。。。。 です。
お礼
ありがとうございます。 ( f )および( g )の前半までの箇所にあたると思います。 了解しました。
- 来生 自然(@k_jinen)
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【Q‐1】 ( c )の《(0と1の間の)すべての無理数》というとき そのすべてがリストアップされうるのでしょうか? それは 無限――つまりこの場合 可能無限――であると見てよいか? ??? 書いてあることを素直に読むことです >>> ( c ) ここに(0と1の間の)すべての無理数がただ1つの列にリストアップされていると仮定します。例えば、 0.17643567…… 0.23482435…… 0.62346286…… <<< 「仮定する」ということは、たとえ不可能であったとしても、そのように「仮定する」わけです。もし、そう「仮定したことで不都合が証明された」なら、「仮定自体が誤っていた」というように結論されるという背理法を用いているに過ぎません。「リストアップされている」と仮定するということは、ここでは「可能無限」はもちいていません。「実無限」を用いるということをも「(ZF公理を用いると)仮定」しているわけです。 (以下、同様です。) 対角線論法と実無限、および選択公理との関係については、下記に詳しい記述があります。 真の哲学体系を求めて Ver.2 横井直高 http://swansong3478.web.fc2.com/index.html の 第3章 真の第一原理を求めて 第6節 自然数より多い実数の集合 http://swansong3478.web.fc2.com/002300mugennsuunohikaku.html 第7節 カントールの実無限という考え方 http://swansong3478.web.fc2.com/002400kanntorunojitumugenn.html 第8節 ペアノの公理とZFの公理の違い http://swansong3478.web.fc2.com/002500jitumugenntokanoumugenn.html 第9節 実数の大きさの誤りやすい証明法 http://swansong3478.web.fc2.com/002600jissuutohananika.html 第10節 対角線論法とは何か http://swansong3478.web.fc2.com/002700taikakusenronnpouhanazekanou.html 第11節 対角線論法の裸の姿 http://swansong3478.web.fc2.com/002800taikakusennnokakusaretaimi.html ここまでで、一段落しています。第12節は横井直高氏の哲学観(感)について記述があります。 また、「無限の濃度」については、ポアンカレの「科学と仮説」(岩波文庫)等参考にされるとよろしいかと存じます。 wikiであれば 「連続体濃度」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E7%B6%9A%E4%BD%93%E6%BF%83%E5%BA%A6 「濃度(数学)」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%BA%A6_(%E6%95%B0%E5%AD%A6) また、上述の横井直高氏の記述中にでてくる「選択公理」についてはwikiにも記述があります。 「選択公理」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E5%85%AC%E7%90%86
お礼
じねんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ ( c ) 「仮定する」ということは、たとえ不可能であったとしても、そのように「仮定する」わけです。もし、そう「仮定したことで不都合が証明された」なら、「仮定自体が誤っていた」というように結論されるという背理法を用いているに過ぎません。 ~~~~ ☆ あぁ。そういうかたちですか。それとして分かりました。 ★ 「リストアップされている」と仮定するということは、ここでは「可能無限」はもちいていません。 ☆ ここは よく分かりません。 無理数の数は けっきょく限りなくあるというその中身は 《可能無限》だと考えるのですが 違いましょうか? ★ 「実無限」を用いるということをも「(ZF公理を用いると)仮定」しているわけです。 ☆ たぶん 経験事象としての数――つまりここでは 無理数――に《実無限》をあてはめるのは いくら何でもおかしいと思うのですが まづはしたがいます。《仮定する》というわけですから。 これで分かったというわけには行きませんが あとの参考資料は 時間をかけてまなびます。 ありがとうございました。
- old_sho
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若干の食い違いがありますね。 Q3、Q4は、リストアップがなされていたとしたときに成立すると、私は見ました。 カントールの対角線論法の核心は、自然数と1対1対応ができたとする仮定は成立しない、というものです。できたと仮定すると、その仮定に反する物があると示す事ができると言う事です。その示し方は、そのサラリーマンは間違っていません。ただもっと厳密な表現が可能ですけれども。 自然数と1対1対応ができたとする仮定するならば、d、e、fの方法でその1対1に対応しない数が作られる、故にその仮定は成立しない。 ということで、作業が延々と続くという事ではありません。原理的にそのように対応しない数は作り得ると言う事ですから。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ Q3、Q4は、リストアップがなされていたとしたときに成立すると、私は見ました。 ☆ リストアップが成されたということは 限りなく列挙されて行くというかたちで 成され得るということではないのですか? ★ カントールの対角線論法の核心は、自然数と1対1対応ができたとする仮定は成立しない、というものです。 ☆ あぁ。そういふうに説明されると わかりやすいと思います。 でもそのように対応が出来ないのは ただ無理数が限りなくつづいて行くからという理由だけではないのでしょうか? 無限に対応させて行くというかたちはあり得るのではないでしょうか? でも ★ ということで、作業が延々と続くという事ではありません。原理的にそのように対応しない数は作り得ると言う事ですから。 ☆ ですか。 ★ できたと仮定すると、その仮定に反する物があると示す事ができると言う事です。その示し方は、そのサラリーマンは間違っていません。ただもっと厳密な表現が可能ですけれども。 ★ 自然数と1対1対応ができたとする仮定するならば、d、e、fの方法でその1対1に対応しない数が作られる、故にその仮定は成立しない。 ☆ その方向において 受け取って留保します。 ありがとうございました。
お礼
いくつかマチガイをただしていただきました。ありがとうございます。 そして ご回答をありがとうございます。 そうですね。 今回は うけたまわりました。というかっこうになると思います。 あるいはそれとも たとえば ★ ~~~~ α さんは可算無限の終端が見えるので、そこではα さんも、可算無限と連続無限の比較において、我々が行う有限と可算無限の比較と、同じ「論理」を使うだろうと想定する。その一点に関してしか、数学は言わない。α さんの有限と、我々の有限が同じだなんて、誰が言った?。俺は言ってないぞ、と現在の数学は強弁します(するんですよ)。 以上が、「言葉(概念)の意味において矛盾ではないのか?」と問われれば、そうだと思います。それが現行数学の失ったものだと思います。数え尽くせたと仮定した存在として実無限を指定したのに、一定値を取らないとか・・・。 ~~~~~~ ☆ ここらあたりのことが 結論になるとおっしゃっていましょうか? もうそのほかにはないのだと。 無限公理のおかれる座標に 対角線論法がそのまま用いられるとするのならば・そして直線論法は同時に用いられなくてよいということでしたら もう問い求めは済んでいると受け取らねばならないと思います。 あらかじめながら――どうなるか分かりませんが―― 感謝を申し上げます。ここまでおしえていただきありがとうございました。