- ベストアンサー
カントールの対角線論法とは?
- カントールの対角線論法は無限集合における大きさの比較に関する定理であり、無理数の集合が自然数の集合よりも多くの要素を持つことを示しています。
- 具体的な例を用いて説明すると、無理数の集合と自然数の集合を1対1に対応させることを考えます。しかし、対応させた無理数に対して小数点以下の数字を変更する操作を行うと、新たな無理数が得られます。この新たな無理数は、元の無理数とは異なる要素であり、自然数との対応関係も失われます。
- したがって、無理数の集合は自然数の集合よりも要素が多いことが示されます。これにより、カントールの対角線論法は無限集合には大小が存在することを示す重要な定理となっています。
- みんなの回答 (63)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
#46です。たった一夜で、こんなに番号が増えたんですね(^^)。こういう話題に興味を持つ人は、やっぱり沢山いるんなぁ~(・・・違った、数人か)。でも皆さん熱心ですね。やっぱり皆、現在の集合論はどこか異様だと、感じてるのでは?と、勝手に邪推してしまいます・・・(^^)。 >(1) ★ 今の結論は、「現在の無限集合論は嘘かも知れないが、嘘にしても良く出来た話だ」・・・です。 ☆ 役に立つということのようですね。 それでも わたしの見方からすれば その起源について知っておきたいとは思います。 私の見方からしても、その起源について知っておきたいです。現在の集合論は直観主義の数学などと比較すると、圧倒的に役に立ち、技術として非常に強力です。その「強さ」は、何を受け入れる事によって手に入れたのか?、代償として何を諦めたのか?。役には立たなくても、そのような事をちゃんと知っておきたいと思っています。 >☆ これは 人間の眼から見て《無茶な仮定》なのでしょうが α さんにとっては お茶の子さいさいのわざではないでしょうか? と言うより そういう能力を持った α さんを想定しているのですから。 >実数無限を 実無限と呼ぶ一定のアタイを取るあたかも有限の数として扱うことが出来ると仮定したわけですから。 そういう想定(仮定)はしてないんですよ。 > 実数無限を 実無限と呼ぶ一定のアタイを取るあたかも有限の数として扱うことが出来ると仮定したわけですから。 α さんは可算無限人(我々は有限人)なので、α さんにとって可算無限は有限に見えても、実数無限はやはり彼にとっても我々にとっても無限です。ただしαさんにとって、実数無限は可算無限になります。ポイントはここかな?、と思いました。 自分は、彼の有限(我々の可算無限)とかわかりにくい表現をしましたので誤解が生じたのかな?、とも思いましたが、そうではない気がしました。 実無限を想定したとしても、それは一定の値を取りません。それはあくまで一定の値を取らない無限です。αが有限とみなす可算無限は、我々の有限とは正反対のもので別物です。それは有限の対立概念である、無限に属するものです。 α さんは可算無限の終端が見えるので、そこではα さんも、可算無限と連続無限の比較において、我々が行う有限と可算無限の比較と、同じ「論理」を使うだろうと想定する。その一点に関してしか、数学は言わない。α さんの有限と、我々の有限が同じだなんて、誰が言った?。俺は言ってないぞ、と現在の数学は強弁します(するんですよ)。 以上が、「言葉(概念)の意味において矛盾ではないのか?」と問われれば、そうだと思います。それが現行数学の失ったものだと思います。数え尽くせたと仮定した存在として実無限を指定したのに、一定値を取らないとか・・・。 今回は、論点整理のために、これくらいにします(整理になったのかな・・・(^^;))。 >☆ 経験世界における無限は 無理数のたぐいなのでしょうか。 この経験世界を超えた《非経験の場》という想定 つまりそれとしての無限は むろん想定ですよね。 現実に観測できる無理数は、(それがあったとして)無理数の有限桁数までで、常に有理数です。それでも一つの無理数が「ある」と、論理的に首尾一貫して言うためには(経験的にありそうだから)、全ての議論に先行させて実無限の存在を認める必要がありました。それが無限公理の要請です。 なのでコーシー式の実数論は、(近似規則は与えますが)ある無理数を近似する全ての有理数の集まり(集合)を、その無理数そのものだとみなします。それらの集合達と、無限公理の要請によってあるはずの無理数達の一個一個が、全単射の関係を結ぶからです。この状況を、同一視するという一言で片付けますが、存在論的には、極悪非道かも知れません(^^;)。
その他の回答 (62)
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
No.63 >>> アインシュタインは愚直なまでの、素朴実在論者 <<< まさにそのとおりでしょうね。物理学者の多くは、そう言った視点を持っておられるようです。 最後の最後まで直感に反するように思える量子力学的な視点に疑問を差し挟み、問題点をあぶり出し、結果的に量子力学を発展させた。。。 量子力学は数学的な記述で出現する無限に対する戦いそのものといえるのではないでしょうか? エヴェレットの多世界解釈の原型は、実無限を人間の認識の「外部」へ追いやった思索方法ともいえるでしょう。ある意味、bragelonneさんの「神的な実無限」を地で行くような思索方法かもしれません。。。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~ No.63 >>> アインシュタインは愚直なまでの、素朴実在論者 <<< まさにそのとおりでしょうね。物理学者の多くは、そう言った視点を持っておられるようです。 最後の最後まで直感に反するように思える量子力学的な視点に疑問を差し挟み、問題点をあぶり出し、結果的に量子力学を発展させた。。。 ~~~~~~~~ ☆ わたしはそのNo.63お礼欄にも書いたとおりに 素朴経験論が数学にどのようにからんでいるのか 素朴経験として分かるようにはまだ分かっていません。ので 残念ながら 色よいご返答を寄せるということがむつかしいかぎりです。あしからずご了承いただければと思います。 ★ ~~~~ 量子力学は数学的な記述で出現する無限に対する戦いそのものといえるのではないでしょうか? エヴェレットの多世界解釈の原型は、実無限を人間の認識の「外部」へ追いやった思索方法ともいえるでしょう。ある意味、bragelonneさんの「神的な実無限」を地で行くような思索方法かもしれません。。。 ~~~~~ ☆ すでに述べましたように この第一文については評言を述べるのがむつかしいです。 ただ 後半については違う考えを持ちます。あるいは うたがいをいだきます。 1. 《実無限》は けっきょく可能無限という経験事象についてどう扱うかのその手段であり一つの策であるのではないかと理解して来ています。 2. 言いかえると 可能無限は 限りなくつづくという事象であることに間違いないのでしょうが けっきょくそれは 大きく広義の有限である。つまり 経験世界における経験事象である。こういうことではないでしょうか? そこから 《実無限》としての取り扱いが 考えられて来るのだと。 3. ★ 「神的な実無限」 ☆ この表現も ミスリードするおそれがありますまいか。必ずしも認めてもらっていませんが 実数などの可能無限を或る有限の一定の数値として捉えるその視点は 非経験の場なる想定としての――真無限としての――神のそれではないか? と見るものですから その表現には 誤解をうむおそれがあると考えます。実無限が 神的なのではありません。仮想において人間にとって経験的で有限的でさえあります。 4. ★ 外部 ☆ この概念については じねんさんにわたしの側からは何度も やはりあいまいな概念であるとお伝えして来ております。 有無や相互の関係あるいは因縁果の関係が見て取れる経験事象については 一定の単位体や主体の存在を前提するなら その《内と外》は そのまま無理なく出来上がります。 ですが 《経験世界(その全体)》にとっては その《内と外》という概念による認識が当てはまるかどうか これは 人間にはついぞ分からないものなのです。 5. すなわち ★ 実無限を人間の認識の「外部」へ追いやった思索方法 ☆ この規定も ひじょうにあいまいだということです。 6. 可能無限を仮りの神なら神という視点から見て実無限として取り扱うという場合 この実無限は 人間にとって仮想の認識であるという事情にあります。神なる視点から見れば その実無限は 神としての認識の《内部》なわけです。 その意味では この《神にとっての内部である実無限》を 人間の認識にとっては外部だと見て見られなくはないのでしょう。 けれども そう言えたとしても 事態は その《実無限として仮想した》という認識もその元の――可能無限という――実態も じつは 大きく経験事象であり 広義の有限世界に属しています。つまり この経験世界の全体〔についての認識〕という意味では 認識の《内部》にとどまっているものなのです。 7. 一般に 経験世界とそして非経験の場とのあいだは 後者が前者を超えていると想定しているからには 《内と外》との関係ではないのです。 後者・非経験の場は それが前者・経験世界を超えているということは その経験世界を覆い包んでいるというかたちも派生して想定されます。(そのほかには ニュートリノのごとく つねにつらぬき通っているとも派生して捉えられます)。 8. 一般には 《非経験の場》は 経験世界にあまねく存在するというように想定されています。つまり 神の――霊としての――遍在です。 9. ですから 内部と外部という規定は 意味を持ちません。神にとっては すべてがみづからの内部です。人間にとって神は 《超越》する存在です。しかも 想定から推理するかぎりでは この超越なる無根拠が いま・ここにつねにあまねく存在しているとまで帰結されるものなのです。なら 外部ではありません。とらえる視点が 違っていましょう。 10. 《多世界》も 神の内部です。
まだ閉じてないんで、また書いちゃいます。 #60さんのリンクを読みました。そこには次のように・・・。でも切り取ってますから・・・。正確には、#60さんのリンクを全てお読み下さい。以下。>>は、リンクの文言です。 >>やはり素朴経験論と素朴唯物論を打ち破るのに、数学ほど良いものはないと思うからなんですね。われわれは常にその素朴経験論と素朴唯物論の、いわば攻撃にさらされているわけですね。 その通りだと思いますよ。でも「数学ほど良いものはない」と、言い切って良いのかい?。その通りだとは思うが、言いすぎじゃないか?。 >>・・・ε-δ論法が正当化できるのは実無限の立場に立つときだけだ。 それは、その通りです。何故なら、一つの無理数は「ある」と、仮定するのだから・・・。 >>大学1年でε-δ論法を習っても、その前に可能無限も実無限も知らないのだから、単なる念仏だったわけだ。困ったものだ。 気持ちが、すごいはわかる。 >>どうしても納得しないんだったら、最後はもうバキッとやるぞと。現代数学は論理的に完璧に表現する概念装置、理論装置を獲得しました。 本当です。集合論と論理学を、完全に有限の手続きによって定義したからです。無限はその中で、「有限の長さの」記号列に与えられた「意味」になります。 >>集合論と論理学によって、いつでも戦うということです。でも論理(原文は倫理)にしても、集合論にしても、最終兵器として完璧かというと、そうでないことはもう証明されています。とりあえずこれを疑ったり、反旗を翻す人はいないという、それがε-δ論法に代表される現代数学の方法です。 その通りですが、認識論的には違います。「最終兵器として完璧なのは、有限個か可算無限までの対象を扱っている間だけ」の話です。そしてε-δ論法は、その領域でしか確認されていません。もっと、向こうにも行けるとは思いますが。 >>「(野家)最終兵器というのは、ε-δ論法のような理詰めの論証法ですね。有無を言わせないというか。」 そこが問題なんですよ。 これは個人的意見ですが、ε-δ論法は、余りにも有限の論理なんです。(誰も見た事ない)無限に対して、その論理は有効なの?、と思う訳ですが、・・・当然、代案は出せません・・・。 最後に、 >>「(長岡)『分かる』と『見る』とは同じだという意見がありますね。あれは完全に誤解で、やっぱり先ほどの例で言えば、素朴唯物論、素朴経験論のレベルの認識論だと思うんです」 素朴唯物論(マルクスの言ってる事じゃありません)、素朴経験論のレベルの認識論のどこが不味いんですかね?。 それが基本でしょう。アインシュタインは愚直なまでの、素朴実在論者だと、自分は思っています。
お礼
ででてx3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ ~~~ >>・・・ε-δ論法が正当化できるのは実無限の立場に立つときだけだ。 それは、その通りです。何故なら、一つの無理数は「ある」と、仮定するのだから・・・。 ~~~~~~ ☆ この考え方については おかげさまで分かったように思っております。 たぶん 実無限の立ち場というとき そこに《非経験の場》なる想定としての神の視点を入り込ませることには ノーと言われるかも知れないようですが。 ★ ~~~~ >>「(長岡)『分かる』と『見る』とは同じだという意見がありますね。あれは完全に誤解で、やっぱり先ほどの例で言えば、素朴唯物論、素朴経験論のレベルの認識論だと思うんです」 素朴唯物論(マルクスの言ってる事じゃありません)、素朴経験論のレベルの認識論のどこが不味いんですかね?。 ~~~~~ ☆ このあたりは もっと実感としてピンと来るようであるといいがと思っています。 ★★ 直観主義数学 ☆ として カルナップをおしえていただきましたが ほかにもブラウエルなる数学者もいたそうですね。 ▼(ヰキぺ:ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%92%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%AF%E3%83%BC (Luitzen Egbertus Jan Brouwer、1881年2月27日 - 1966年12月2日)は オランダの数学者。ブラウエル、ブローウェルなどとも表記される。 トポロジーにおいて不動点定理をはじめとする多大な業績を残し、また数学基礎論においては直観主義数学の創始者として知られる。 ▼(ヰキぺ:数学的直観主義) ~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E7%9A%84%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9 (すうがくてきちょっかんしゅぎ)とは、数学の基礎を数学者の直観におく立場のことを指す。 § 1 来歴と評価 これに類する主張は、カントールの集合論に対抗する形で、クロネッカーやポアンカレによってもなされていたが、最も明確に表明したのは、オランダの位相幾何学者、ブラウワーである。 ブラウワーの立場に対してポアンカレらの立場は前直観主義と言われることがある。 ブラウワーは、数学的概念とは数学者の精神の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合において、背理法によって、非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった。 それ故、無限集合において「排中律」、すなわち、ある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるという推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。 ヒルベルトの形式主義は、直接的にはブラウワーからの批判的主張に対し排中律を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる。 ブラウワーの主張は、哲学的で分かりにくかったが、その後ハイティング等によって整備され、結果的には古典論理から排中律を除いた形で形式化されたものが今日、直観主義論理として受け入れられている。 現代では直観主義論理は、数学の証明は全て構成的に為されなければならないという主張(数学的構成主義)と関連が深いと考えられている。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~ ☆ まぁ すいすいと分かれば万々歳なのですが。・・・ ありがとうございました。 閉じるきっかけをつかみ損ねたようになってしまっています。質問枠がゆるすかぎりで のんびりまいります。
- old_sho
- ベストアンサー率38% (20/52)
話としては出尽くしたみたいですが、閉じられていないので、恐らく他の方が既に指摘されたことを繰り返すことになるとは思いますが、感想めいたものを。 ご質問のきっかけでもあり、No.30の補足欄に見られる「暴論」を述べられる大元は、披見されたカントールの論法の説明の仕方にあるのではないか。件のサラリーマン氏にあっては、読者が何となく分った気になってもらわないことには、それ以降の強引な宗教との結びつけをできない。同じことは、何方かが引用された「真の哲学」氏もそうで、数学の知識で煙に捲くのが一つの戦術のようですから、分った気になってもらわないと困る。No.8の説明になると数学的な形式に近づいたのですが、それ以上は「なるべく数式を使わず」という縛りで数学に関連する部分からどんどん離れて行ったのですね。No.19にあるような「ナンバリングできた(過去形で」というような日常語に翻訳したモノだけが独り歩きするのですね。数式と論理式で証明すると一体何処が「対角線」か分らない。bragelonneさんのような疑問も挟むところが無い。 No.30の補足欄は、全称肯定命題は一つの否定例で廃棄されるという、西洋由来の論理学の基本に反します。日本式なれ合いで横に置くなら、No.29の(3)に附記しましたように、ナンバーリングの繕いは無限に続けなければならない。このポイントは、「原理的に抜け落ちが有る」。証明に使われたのは、下記の実数の定義と「全単射が有る」ということだけで、特定の「全単射」になされたのではないですから、「原理的に」穴が有るのです。ナンバーリングの完成は永久に来ない、即ちそのようなものは無い、と帰結しなければならない、と考えます。 私は、当初、問題とするべきは実数の定義の方だと考えていました。尤もそれは、私にとっては実数こそが不可思議な世界であるからなのですネ。bragelonneさんにとっては「無限」の方が関心の種の様ですが。 どなたかが、「無限」ということを数学の独断であるかのように表現されていた気がしますが、勿論そんな事はないでしょう。数が無限にあるということは、誰にとっても前提でしょう。我々の持つ思考様式に由来するのではないか。自然数が無限にあるということに帰結しないような「自然数の公理」など、誰が採用するでしょうか。ペアノの公理があるから「自然数がある」訳ではないように、何らかの公理系があるから数学が有る訳ではないし、無限が生まれる訳でもない。 (a)その自然数が無限に有るという同じ意味の「無限」で、0~9の数字を無限に並べた「無限列」、 (b)それの全てを集めて「実数」と呼ぶ(正確にはいくつか条件が付きますが些細なことですから省きます)。 この実数のもとにおいて、「自然数全体と実数全体の一対一対応=全単射」が存在しないことが示された。それは数学的には単に「一対一対応」なのだけれど、日常の感覚でいえば、実数は並べられない---数直線上に並んでいるのだけれど日常感覚の並ぶではない。リストアップ出来ない、数える対象にならない等は、要するに我々の把握の基本が分離量に有るからで、連続量は感覚を超えているからではないか。という方向になるかと予想していました。はずれましたが。 「一対一対応」ですが、件のサラリーマン氏は、無限集合に於いては、部分が全体に等しいなどということで神秘的なことを説明出来るかの如き話をされています。それは逆に見れば、無限集合に於いては、単なる「一対一対応」は役割が小さいということでしょう。偶数の集合が自然数全体の集合と「一対一対応」されるからといって、さしたる意味はないでしょう。実数の無限が、自然数に於ける「数には限りがない」という無限と根本的に異なるのは、(b)にあります。無限列を「全て集めた」という点です。このような集合の生成の仕方をすると、「一対一対応」という分離量的関係から見るなら、異なる「無限量」が生み出される。それだけのことではないか。実数の面白いところは、そのような単なる定義とか、異なる無限であるなどでは分らないですね。何とか無限などと名づけて片づくような代物ではないと考えていますので、多数なされたその他の論議は感興が湧きませんので、こんなところです。
お礼
いやぁ むつかしい。 ――まづは おうるどしょさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 むつかしい。つまり ★ 分離量 / 連続量 ☆ の話をなさっているのですよね? これを わたしにとっては 例のサラリマン氏のように《神の証明》問題につなげてもらえれば――ただしそれは ここでは焦点とはしていませんが――分かるかも知れないのですが。 あるいはつまり ★ 数式と論理式で証明すると一体何処が「対角線」か分らない。bragelonneさんのような疑問も挟むところが無い。 ☆ こういう事情が 一方では大きく 存在するということのようですね。 ううーん。今回のご見解についてわたしが反応しうるのは ここらあたりまでですね 残念ながら。 あるいはつまり ○ ~~~~ 無限集合には それぞれのあいだで互いに濃度の差があるということ。 これは ひとつには 或る架空の視点をわれわれ人間が想定して捉えているのではないかということ。 もうひとつに そうは言っても けっきょくそのように互いのあいだで濃度の違いがある無限集合というのは まだなお《大きく有限で相対的な経験世界》における出来事であるということ。 ~~~~~~ とも考えています。 このへんまででしょうか わたしの応答しうることは。きちんと対応できているかも 微妙なのでしょうけれど。 振り返ってみてもらって まとめていただいたようなのですが その点についての復唱もうまく出来ずじまいなようですが まづはこのようにお応えすることになります。 どこで締めればよいか分からずに来ましたが もう少し開いています。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
イプシロンデルタ論法、実無限でググっていたら http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4489021038/tnakamr-22/ 数学者の哲学+哲学者の数学―歴史を通じ現代を生きる思索 [単行本] 砂田 利一 (著), 長岡亮介 (著), 野家啓一 (著) が引っかかってきました。 検索で最初に引っかかってきた、書評を記したブログ http://d.hatena.ne.jp/tnakamr/20120304/1330820729 Amazonの書評では、内容的には物足りないとの意見が多いものの、今回のご質問のような問題には、深く関わる書物だと思われます。 やはり、たとえ平行線であったとしても、思索においては複数の視点を並列して持つべきだということではないのでしょうか?
お礼
複数の視点を あなたが持とうとしないだけです。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
夜も更けてきたというのに… むっちゃ 冷えんのに… サブ))))))))))))) (⌒0⌒)/~~~ ならば! 温めてあげようってか??? °+.°( ̄  ̄人)°+.° いいね! キック キック キックのオニだー <(T◇T)>うぉぉぉぉぉ!!! http://www.youtube.com/watch?v=jkqAMy72GmE BGM 「山寺の和尚さん」 http://www.youtube.com/watch?v=Hn9jW-fErRs http://j-lyric.net/artist/a00126c/l013280.html 【思考のかかわること全般】 http://www.yamadera.info/jushoku/science/logic.htm どの口が言うねん!!!フェミニストって?ヽ(  ̄○)ゞ。O○ファァ~~
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
「○○であるはず」とか「○○は、ふつうだと思います」とか。。。 「直観主義」とはそのような見方から脱却できないということをおっしゃっておられるのでしょうか? 私は「直観主義」を軽くは見ていません。 というより >>> No.55 お礼欄 いま多くの人が従っている現行の学問のあり方に従うべきだとしか考えておられない。 これは哲学に反します。根本的に マチガイです。 <<< といった主張をされるとは、一体どうなさったのですか? いつ、私がそのようなことを主張したのでしょうか? 常々、「(広義の)哲学は、数学をはじめ、諸科学を含む」と公言してきています。 その数学が少なくとも「直観主義」を含んでいるわけです。 というより、「直観主義」なる概念で、そういった思索を把握し、数学が自身の内部の問題だと認識しているわけです。 どうして(広義の)哲学を考えているものが、「直観主義」を軽く見たり、「現行の学問のあり方に従うべきだ」と狭い了見を持つ必要があるのでしょうか? 私が述べているのは、二通り以上の考えがある場合には、たとえその内の一つのみが自身の「直感」に照らし出して正しいと思われたとしても、他方の考え方について「知る」必要があるだろうということです。 たとえば「0から1の間に実無限がはいるという【仮定】は到底受け入れられない」としても、そういった思索方法を「前提条件を付記した上で」でも、一端は認識すべきだと言うことを言っています。 「実無限」という概念から発達した微積分という学から、逆に微積分を成立せしめている連続性そのものが成立しない離散系での思索に影響を及ぼしているという事実があります。 ループ量子重力理論では、「時空を無限分割可能(実無限と等価)」という概念を取っ払って基礎的理論から再構築して成立しうるかどうかを見極めようとしているとも聞きます。 >>> No.55 お礼欄 哲学の立ち場は 残念ながら わたしのほうに分があります。と知るべきです。 <<< 哲学とは「分がある」とか、そう言ったレベルでの争いなのでしょうか? 「知るべき」といった「知的レベル」に留まる問題なのでしょうか? 私が述べていることは、複数の思索方法があるのなら、その全ての思索方法について、一端は考えてみるべきではないのか? と言うことです。 たとえそれが対立概念であったり、平行線であったとしてもです。 そういった様々な「知」的視点の向こう側を求めようとする思いに触れることが、哲学的な思索へと結びつくのではないでしょうか? 排除しようとすれば、対立は孤立になり、平行線は一直線になります。 (他を排除して)一つの視点のみにて思索するのではなく、複数の視点から同時に複数の思索を行うことが大切だろうと思っております。 排中律 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E4%B8%AD%E5%BE%8B >>> 一般に、直観主義では有限な集合に関して排中律の適用を許すが、無限集合(例えば、自然数)に対しては許さない。したがって、「無限集合 D に関する全ての命題 P について、P であるかまたは P でないかのどちらかである」(Kleene 1952:48) という言い方は、直観主義では絶対できない。 <<<
お礼
だいたい――と言って説教するわけですが―― じねんさんは 学問がこれこれこのように発展してきたなら あれそれの道もあったかも知れないし今もあり得るかも知れないが いま多くの人が従っている現行の学問のあり方に従うべきだとしか考えておられない。 これは哲学に反します。根本的に マチガイです。 ゴータマ・ブッダは詐欺師だとわたしが言ったら 大方の人びとは そうは思っていない。ゆえにそのような山師のようなおまえの物言いはやめなさいと言いかえしました。そういうたぐいのやり取りが 延々と続きすでに持たれました。 と振り返るなら 《平行線》のもんだいは どこにその問題があるか。分かるというものです。 あなたは 定説や権威にしたがえと言っているわけです。 わたしは そんなものは 屁の河童だと言っています。 哲学の立ち場は 残念ながら わたしのほうに分があります。と知るべきです。 ★ 二重らせん ☆ は 少数意見と定説とのあいだに繰り広げられるのですよ。これが 民主制というものです。 どぢゃ? じねんさんよ うんとかすんとか言ってみろってんだ。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
No56は、パラドクスになっていないんじゃあんめーか。 「その箱を全部箱にしまいなさい」が Put all boxes (that you have made) into a box. の意味なら、王女さまは、女王さまの命令を破っていねえでげす。 Put all boxes (that you have made) into one of them. これはあまりに無茶な命令でげす。ぜって~、できっこねぇ~、命令でげす。 前提が間違っているのだから、どんな結論をだされても、違うだろうとケチをつけるのは、筋が通らねぇ~話。世間様はいざ知らず、論理の世界では通用しね~。 P⇒Q :Pが偽ならば、Qの真偽にかかわらず、この命題は恒真命題!! 女王さまの命令が曖昧、もしくは、間違っているんでさ~。 それで、パラドクスに見えるだけでさぁ~。 せめて、 Nothing is better than my wife. One penny is beter than nothing. One penny is better than my wife!! (うちの女房ニャ~、一円の価値もニャ~!!) 完全無欠の三段論法(笑い)。 くらいじゃねぇと、笑えねぇ~。 意味論を抜きに、この論証に反論するのは、大変かも(笑い)。 世間的事実にもあっている??? ちなみに、眠り猫は、フェミニストです。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
アホてなぁー( ̄○ ̄;)ノ うぅぅ…orz パラドクス http://www.sm.u-tokai.ac.jp/~sugita/Classes/Kyouyou/kisomain.pdf 箱を作ることが好きな王女さまがいて, 毎日,綺麗な箱をせっせと作りました。 余り沢山箱ができたので, 女王様が 「その箱を全部箱にしまいなさい」といいました。 王女さまは大きな箱を作って全部の箱を入れました。 次の日に女王様に 「女王様のいう通りにしました」といったところ, 女王様はそこにある箱を指して 「その箱はどうしたの」といいました。 王女さま は仕方がないので,また大きな箱を作って,: : : はたして 王女さまは女王様のいう通りにできるでしょうか。 一匹足りないブーブーブー モシモシ ないわけないじゃん、あんじゃん うーむ、…あまりある もったいなーい (⌒0⌒)/はーい、かしこまり~ 目方でドーン! 毎度あり~♪ かたをつける! 大きな箱があっという間に… なくなった!? ドロロン オドロン デロデロバー ドロロン オドロン デロデロバー (/-\*)ないない\(・o・)/バー 平成23年3月23日 急激な古紙価格の低落ー古紙回収業者の現状報告 http://homepage2.nifty.com/koshi-net/pdf/78b.pdf 日刊資源新報 http://www.shigenshinpou.com/news/bucknumber/2011/5-12.html 資源の買取り価格変動もある(上下する) 前年度の取引格 によって単価を決める? 一般廃棄物処理有料化の手引き - 環境省 http://www.env.go.jp/recycle/waste/tool_gwd3r/ps/ps.pdf 新規参入するにも門戸の狭いのはなぜ? http://www.eic.or.jp/qa/?act=view&serial=31387 一般廃棄物処理有料の価格だれが決めてるんだろう?なぞ???
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
すでに、No.53および、その少し前にddtddtddtさんとのやり取りでbragelonneさん自身内部では解決し終えていると拝察いたしますが、少しだけ、追記しておきたいことがあります。 No.53 お礼欄 >>> その数学の手法で捉えている現実とは何か? こういった漠然とした問い求めであるようには思います。 <<< 数学者ではないのですが、いわゆる純粋数学と応用数学という概念(定義が曖昧=境界自体が曖昧)との関連性を考えてしまいます。 応用数学と呼ばれる方向性は、「その数学の手法で捉えている現実」という概念が当てはまるかも知れませんが、いわゆる純粋数学といった方向性は、「現実とは無関係に、数学的思索の可能性に限界はあるのか?」という問いへの答えを見つけようとしていると思います。その限界の一つとしてゲーデルの不完全性定理があるといえるでしょう。(関連してNo.52にて、ついうっかりと「論理的・無矛盾な設計図があれば、」と書いてしまいましたが、「論理的であれば、無矛盾であるかどうか証明不可能でも」でした。) そういった方向性と関連するのが「実無限」という概念であり、したがって、「現実が先にあって、人間の思索は、そのことに関連して思索するのだ」といった考え方とは合わないということになるのでしょう。 物理学と数学は、数学的な側面からは応用と理論という概念にて捉えられますが、どちらが先というわけではなく、二重螺旋のごとくに相互に影響を及ぼしながら進行してきたとされています。 http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/4621073540.html パリティブックス 物理と数学の2重らせん 薩摩順吉 著 パリティ編集委員会 編 発行元:丸善出版 数学から物理学への影響は、たとえば、数学が思索の可能性の幅を広げ、物理学が現実との対比にて説明可能性の高い思索方法としての数学を選択するといったことになるでしょう。量子力学でのリー群等が、それに相当すると思われます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%BE%A4 たとえば、クォーク関連の理論 http://osksn2.hep.sci.osaka-u.ac.jp/~naga/kogi/konan-class04/ch7-quark.pdf では、多くの数式がでてきますが、基本的にリー群内部での話であり、SU(3)とかSU(6)はリー群の一部です。 物理から数学への逆向きとも思える影響は、ポアンカレ予想を解いたペレルマンの証明方法にも見て取れます。 http://www.rs.kagu.tus.ac.jp/eiji/Poincare.pdf http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E4%BA%88%E6%83%B3 >>> ほとんどの数学者がトポロジーを使ってポアンカレ予想を解こうとしたのに対し、ペレルマンは微分幾何学と物理学の手法を使って解いてみせた。そのため、解の説明を求められてアメリカの壇上に立ったペレルマンの解説を聞いた数学者たちは、「まず、ポアンカレ予想を解かれたことに落胆し、それがトポロジーではなく微分幾何学を使って解かれたことに落胆し、そして、その解の解説がまったく理解できないことに落胆した」という[1]。なお、証明には熱量・エントロピーなどの物理的な用語が登場する。 <<< 現実との紐付けの中心である物理学では、「連続」という概念よりも「離散系」という概念が主体となって、重力理論と量子力学をつなぎ合わせようとする考え方もあります。手っ取り早く言えば、時空間が連続体(無限分割可能)ではなく、最小単位があるという概念です。 ループ量子重力理論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97%E9%87%8F%E5%AD%90%E9%87%8D%E5%8A%9B%E7%90%86%E8%AB%96 現実とは無関係に、可能性だけを追求していたとしても、どこかで現実と繋がり合っていたと再認識されるのが数学なのかもしれないですね。。。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 現実とは無関係に、可能性だけを追求していたとしても、どこかで現実と繋がり合っていたと再認識されるのが数学なのかもしれないですね。。。 ☆ まさにこういうことなのだろうと思います。そして思いますが――どうも じねんさんとは やっぱし平行線なのでしょうか あるいは無限遠点が見えて来ましょうか―― こういう言葉を使っていいかどうか それでも使いますが《見切り発車》する場合が 数学にはある。と思えるのです。そのときの《現実との兼ね合い》をどう捉えるか。どう扱うか。 いえ どう扱うかは 見切り発車というかたちになるわけですが もっとこまかいことを言えば 心の中で その数式や手法やあるいは公理でさえ それはどういう現実かという問いと思いを その発車の時点では――起源においては―― じゅうぶん持つはずだとわたしは思うという意味です。 すでに実行をおこなったあと ★ 現実とは無関係に、可能性だけを追求していたとしても、どこかで現実と繋がり合っていたと再認識される ☆ というとき それでは あの見切り発車における起源の問題は どうなったのか? こういう心を持つのではないかとわたしは思うという意味です。 ★ いわゆる純粋数学といった方向性は、「現実とは無関係に、数学的思索の可能性に限界はあるのか?」という問いへの答えを見つけようとしていると思います。 ☆ このこととの兼ね合いで言えば それでも純粋数学は この《現実との無関係》について出発の時点でじゅうぶんそのこと自体をわきまえているはずなのです。 おれはいま 現実から遊離して数論としてのみその論理を追究しているのだというその意味での《現実との無関係 ないし そういうわきまえとしての現実との関係》が 明らかに誰れの眼にも見て取れると考えられます。 ★ その限界の一つとしてゲーデルの不完全性定理があるといえるでしょう。 ☆ この定理があてはまるのは 一部の現象なのではないですか? もしそうなら この定理が当てはまらないかたちで成立した数論の命題が 結果内容としてもそして出発の時点における内容としても どのように現実と向き合っているのか。これを知ろうとするのは ふつうだと思います。 こう言うと 言ってみれば 自然科学に対して 生命倫理や人間倫理をどう扱うのか。そもそも どう思っているのか。と問うているように聞こえるかも知れませんが 微妙にちがいます。 倫理の前に ひとの自然本性は 自由のもとに先行しています。 (自由意志がそれとして先行しているゆえにこそ 倫理も要請され得ます。自由意志の選択として 倫理が成り立ちます。その説明に神やそして神という名の道徳を持ち出すという・やはりけっきょく倫理規範の先行が しばしば間違って起こるとしてもです)。 ひとりの人間の心は むろん自由のもとにもっと広いはずです。極悪非道を行ない得ましょうし 極悪非道をさらにつつみこむような広い心をも与えられ得ます。 というような《わが心》の風景が 出発の時点にも結果を出した時点でも見られてしかるべきだ。こういう物言いです。たとえ後づけとしてでも そのようにするであろうと見ています。 ですから ☆☆ その数学の手法で捉えている現実とは何か? こういった漠然とした問い求めであるようには思います。 じねんさん じねんさんは ででてx3さんがおしえてくださった《直感主義の数学》があり得るということ このことを軽く見ておられるのではあるまいか。 これが 出発点における現実との関係についての問いであり思いです。起源のもんだいです。 だって ここは哲学カテですよ。数学についてのくわしいことなら そのカテで質問しますよ。 だいたい――と言って説教するわけですが―― じねんさんは 学問がこれこれこのように発展してきたなら あれそれの道もあったかも知れないし今もあり得るかも知れないが いま多くの人が従っている現行の学問のあり方に従うべきだとしか考えておられない。 これは哲学に反します。根本的に マチガイです。 ゴータマ・ブッダは詐欺師だとわたしが言ったら 大方の人びとは そうは思っていない。ゆえにそのような山師のようなおまえの物言いはやめなさいと言いかえしました。そういうたぐいのやり取りが 延々と続きすでに持たれました。 と振り返るなら 《平行線》のもんだいは どこにその問題があるか。分かるというものです。 あなたは 定説や権威にしたがえと言っているわけです。 わたしは そんなものは 屁の河童だと言っています。 哲学の立ち場は 残念ながら わたしのほうに分があります。と知るべきです。 ★ 二重らせん ☆ は 少数意見と定説とのあいだに繰り広げられるのですよ。これが 民主制というものです。 どぢゃ? じねんさんよ うんとかすんとか言ってみろってんだ。 ここで文章をとめたら ただの阿呆の作文になってしまいますが そうことわったあとなら(つまり じねんさんとの間には長年のつきあいがすでにありますから) その阿呆になりましょう。
お礼
いくつかマチガイをただしていただきました。ありがとうございます。 そして ご回答をありがとうございます。 そうですね。 今回は うけたまわりました。というかっこうになると思います。 あるいはそれとも たとえば ★ ~~~~ α さんは可算無限の終端が見えるので、そこではα さんも、可算無限と連続無限の比較において、我々が行う有限と可算無限の比較と、同じ「論理」を使うだろうと想定する。その一点に関してしか、数学は言わない。α さんの有限と、我々の有限が同じだなんて、誰が言った?。俺は言ってないぞ、と現在の数学は強弁します(するんですよ)。 以上が、「言葉(概念)の意味において矛盾ではないのか?」と問われれば、そうだと思います。それが現行数学の失ったものだと思います。数え尽くせたと仮定した存在として実無限を指定したのに、一定値を取らないとか・・・。 ~~~~~~ ☆ ここらあたりのことが 結論になるとおっしゃっていましょうか? もうそのほかにはないのだと。 無限公理のおかれる座標に 対角線論法がそのまま用いられるとするのならば・そして直線論法は同時に用いられなくてよいということでしたら もう問い求めは済んでいると受け取らねばならないと思います。 あらかじめながら――どうなるか分かりませんが―― 感謝を申し上げます。ここまでおしえていただきありがとうございました。