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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フィクションとの付き合い方)

フィクションの役割とは?フィクションとの付き合い方を考える

このQ&Aのポイント
  • フィクションの役割は子どもの情緒や好奇心を育むことだと考えられています。知的水準が向上するほどフィクションから遠ざかる傾向があると言われています。
  • 太宰治のようにフィクションを創作して評価されている人の中にも、フィクションの役割を肯定的に考える人は存在します。彼は異端ではなく、フィクションの創作と評価の両方において成功しています。
  • フィクションとの付き合い方は人それぞれですが、子どもの成長においては情緒や好奇心が育まれる重要な要素となります。フィクションを通じて想像力を養い、新しい価値観を得ることができます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kadowaki
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回答No.6

>また、文学賞は極めて政治的な賞であると私は認識しており、興味はありません。 確かに、ノーベル賞に限らず、どんな賞にも、「政治的」とは限らないにせよ、人間の専攻である以上、何らかの「バイアス」が掛かるのは不可避でしょうね。 と、同時に、古来、言葉の芸術に人々が価値を認めてきたからには、その価値とは何だろうか?と考えてみても、決して無意味ではないとも言えますよね。 >そもそも私はあまり言葉に興味がない人間なのかもしれません。 >芸術も、幾何学的錯視を扱った作品にしか興味がありません。 はい、人によって興味・関心の方向が違うのは当然ですが、自分が「言葉に興味がない」のはなぜか?、「幾何学的作詞を扱った作品にしか興味が」ないのはなぜか?について自問自答しても決して無意味ではないでしょうね。 そう、「自分は○○に興味がない・興味がある」と言うだけで事足れりとするのではなく、ご自分のこういう興味・関心の傾向を背後で操っている《黒幕》の正体を暴いてみたくはなりませんか? 要するに、本当の自分自身を知りたくないですか?ということです。 >しかし、現代はいわゆる純文学というカテゴリーのものが、漫画やアニメより高尚だとされているように感じます。 世俗で幅を利かせている流行、風潮、通念等に囚われるのは愚かですよね。 それよりは、本当に「高尚」かどうか?、ご自分が納得できるまで、とことん吟味、検討なさってみればよいのです。 >三島由紀夫を読んだことない=教養がないといったような。 繰り返しますが、何の確たる根拠も裏付けもない、こういう流説に囚われないことです。 なお、私は三島の作品はたくさん読みましたし、確かに鬼才だったとは思いますが、彼がわれわれの想像を絶するようなコンプレックスの固まりで、かつ病的なまでの対人恐怖症だったことに気付かずに英雄視しているファンも少なくないような気がします。 >絵や映像による作品は、確定的な情報が与えられるからという理由で、想像の余地がある小説に優位性を認める風潮が気に食わないのです。 「絵や映像」や「小説」について考えるにしても、一旦は質問者さんの脳裏に棲息している、一切の先入観、偏見、つまりバイアスの原因をチャラにしてみませんか。 すると、「絵や映像」といっても、ただの色彩やその変化があるだけ、「小説」といっても、文字と呼ばれる奇妙な記号、紋様のようなものが並んでいるだけと見えてきますから。 その上で、われわれがこういうモノを見ると、そこに何かの意味や世界が内在しているかのように錯覚するのはなぜだろう?、どういう仕掛けやカラクリにたぶらかされているのだろうか?と、一度は徹底的に考えてみませんか。 すると、自分の思考や嗜好をウラで支配し、操っている《黒幕》の正体、つまり本当の自分の姿が見えてきますから。

bawn
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >その上で、われわれがこういうモノを見ると、そこに何かの意味や世界が内在しているかのように錯覚するのはなぜだろう?、どういう仕掛けやカラクリにたぶらかされているのだろうか?と、一度は徹底的に考えてみませんか。 すると、自分の思考や嗜好をウラで支配し、操っている《黒幕》の正体、つまり本当の自分の姿が見えてきますから。 そうですね。最終的には物理学の問題に行き着きそうですが(笑) もう一度よく考えてみます。

その他の回答 (6)

回答No.7

当初は自分の職業を自ら見下すなんて人としては、ありえなくて、世の中を皮肉ってると思ってたんです。 太宰のセリフを裏読んで、例えば・・・ 大人が小説を楽しめてしまう現象について、その大人が人として浅い人生を歩んでたからこそ、他人に対して共感力が鈍感になってる。だからこそ、他人の人生が擬似体験できる小説で感動してしまうのである。 小説を楽しむ様な大人は、人としてはまだまだ未熟者である。と、太宰は言いたかったんだと考えました。 だけど、皮肉る程に社会に対して反骨心があったのであれば、社会と戦う理由があり、生きる理由がある筈なので、死をを選択することには合理性が無いと判断して、一回目の様な回答にたどり着きました。

回答No.5

恐らく居ないのではなかろうか。 憶測になりますが・・ 昔は小説を読むのは教育に悪い。馬鹿になるからと言い、大人は小説を読む子供を馬鹿にしてたらしいです。 小説家を目指すという事は全く誇れるもんでもなく、逆に恥ずかしいものだったかもしれません。 もしかしたら風俗産業の様な馬鹿にされる様な位置付けだったのではと。 ただやりたい職業というだけでやってたのだと思う。 作家業としては道楽的なもので努力して成功したというより、才能に恵まれただけじゃないかと。 少なくとも誇れる程には努力して来なかったからこそ、自分の命を軽んじて評価していたのだと思う。 物語が創造性を養うだろう教育的考え方は、戦後の国語教育からですし、その流れを知らない太宰としては、物語を人に勧める行為がこの世にとって価値ある行為だとは微塵にも思えなかったのかもしれません。 戦後の国語教育以降は、作家志望は少なくとも物語の存在意義意識してるだろうから、太宰の様に自分の職業を見下す人は、きっと、おらんと思う。

bawn
質問者

補足

ANO.1でkadowakiさんは、太宰は皮肉を込めてリンク先の文章を書いたという解釈でしたが、sakudrada31さんは、私のように素直に某例の解釈したということでしょうか。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.4

ウソだらけの「フィクション」はノーベル賞を授ける価値があるのに、事実が書かれているノンフィクション(歴史、実録等)はノーベル賞に値しないとしたら、その根本的な理由は何か?と一度徹底的にお考えになってみませんか? また、同じ「フィクション」でも、マンガや映画でもなく、美術や音楽でもなく、言葉のフィクション(詩・小説・戯曲など)だけがノーベル賞の対象になるのはどうしてなのか?と。 私は、文芸が他芸術に比べ、より偉いとか立派だとかとは全く思いませんが、それでも、人間が生きていく上で他芸術よりも重要な価値、つまりより《実利的な価値》を持っているからこそ、古来、より高く評価されてきたのだろうなという程度のことなら、なんとか理解できます。 その点、「芸術には実利的な価値はないが、それ以上に優れた精神的、文化的な価値があって、教養を豊かにし、人間性を陶冶する云々」とかといった類の偽善的な綺麗事をうそぶく人間は大キライです。 人間が快適で幸福な生活を営むために貢献しない、役立たないものは、世の中からことごとく廃棄すべきです。 >フィクションが写実的であるというのが私にはよくわかりません。ご教示ください。 優れたフィクション(芸術)というのは、本物以上に本物らしさを、つまり迫真性、リアリティ(写実性・正確性)を感じさせてくれるはずです。 似たようなことは、優れたマンガ、面白いマンガについても当てはまるのではないでしょうか。 >小説は言語によるフィクションですが、小説家はストーリーを構築する際に、まずは視覚的なイメージから組み立て、それを言語化するという手順をとると思います。 失礼ながら、小説家の制作動機、作業手順、執筆過程等はこんなに大ざっぱな説明ではとてもカバーできないと思いますよ。 たとえば、言葉一つの選び方にしても、詩人は言うまでもなく、小説家でも、われわれ凡人にとっては気が遠くなるほどに厳しい吟味や検討がなされているはず、と。 >読者は、自分たちの脳で再生しうる、断片的な視覚的情報をつなぎ合わせることで、作者の意図したものに近似させようとするのだと思います。 >もちろん読者の想像は千差万別でしょう。 質問者さんが真面目でいらっしゃるのは分かりますが、失礼ながら、ここも実際に読者の脳裏で起こっている、あまりにも複雑怪奇としか言いようのない現象(文字記号を解読すること)について、あまりにも類型的な発想枠に囚われすぎています。 >描きたいことがあるのなら、絵をまじえたほうがより読者に伝わると思うのです。わざわざ言語化するのは二度手間だと思います。 ヒトは生まれてから自分で考えるようになるのは、絵を描けるようになってからか?、それとも言葉を使えるようになってからか?、と自問自答してみませんか。 また、文字の起源が絵画であったことはご存じでしょうか? >またよく漫画より小説を読めといった意見(特に高齢者)がありますが、私は賛同できません。 「高齢者」の言うことを鵜呑みにするのは愚かと思いますよ。 とにかく、質問者さんご自身でとことん考え抜いた末に導き出した「意見」に従えばよろしいのです。 その点、、自分の考えの至らないところ、足らないところをより簡単に見つけられる方がよりお得だと思います。 >kadowakiさんは小説は漫画より高尚という認識をお持ちでしょうか。回答お待ちしております。 私には、「小説は漫画より高尚」かどうかということに対する興味や関心は全くないどころか、こういう発想そのものがきわめて他律的で、自分でも気付かないまま権威主義に依存、迎合、追従することにほかならないと思っています。

bawn
質問者

補足

調べてみると、文学賞は哲学や歴史の叙述に対しても与えられているようですが。例えばラッセルやベルグソンなどです。 また、文学賞は極めて政治的な賞であると私は認識しており、興味はありません。今回は中国人の方が受賞しましたが、彼は体制側の人間のようで、どうしてもバイアスがかかります。 そもそも私はあまり言葉に興味がない人間なのかもしれません。音楽はインストが好みです。俗にいうJ-POPも聞かないことはありませんが、音楽を聞きながら歌詞の意味を追うことはしませんし、特に共感もしません。言葉の響きには興味がありますが。 芸術も、幾何学的錯視を扱った作品にしか興味がありません。 >私は、文芸が他芸術に比べ、より偉いとか立派だとかとは全く思いませんが >私には、「小説は漫画より高尚」かどうかということに対する興味や関心は全くないどころか、こういう発想そのものがきわめて他律的で、自分でも気付かないまま権威主義に依存、迎合、追従することにほかならないと思っています。 しかし、現代はいわゆる純文学というカテゴリーのものが、漫画やアニメより高尚だとされているように感じます。 三島由紀夫を読んだことない=教養がないといったような。 私からしてみれば切腹したから有名になったんじゃないかと思います。(不快に思われたら申し訳ありません。) 絵や映像による作品は、確定的な情報が与えられるからという理由で、想像の余地がある小説に優位性を認める風潮が気に食わないのです。 少し感情的になってしまいました。回答お待ちしております。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.3

再々回答させていただきます。 >私は答えのない命題(例 正義とは何か)を提起している作品が良い作品だとおもいますし、フィクションとはそうあるべきだと強く思います。 私は、「良い作品」とは、「フィクション」であろうと、シュールレアリスムの作品であろうと、すぐれて《写実的》であると信じて疑いません。 なお、「デスノートという漫画」については全く知りません。 >ただ、ある程度物分りがよくなれば、フィクションを経由せず直接その命題を理解することは可能だと思うのです。 「命題」そのものは《観念》でしかない以上、「直接その命題を理解する」には、何らかの《媒質》によって具象化されることが必須だと思いますよ。 なお、世間では、視覚的《媒質》によって具象化された「フィクション」を美術、聴覚的な「フィクション」を音楽、言語的な「フィクション」を文芸と称してきたわけです。 >私の考えは奇異でしょうか。 「奇異」とは思いませんが、「フィクション」とは何か?について、もう少しお考えになる余地があるような気がします。 たとえば、なぜ、「ノーベル文学賞」が歴史、実録等のノンフィクションにではなく、単なるフィクション(虚構)でしかない文芸(詩、小説、戯曲等)に授けられてきたのか?と考えてみても決して無駄ではないと思います。

bawn
質問者

補足

示唆に富む回答に深く感謝い致します。もうしばらくお付き合いいただきたいのですが宜しいのでしょうか。 >私は、「良い作品」とは、「フィクション」であろうと、シュールレアリスムの作品であろうと、すぐれて《写実的》であると信じて疑いません。 フィクションが写実的であるというのが私にはよくわかりません。ご教示ください。 それともう一つ質問です。小説と漫画についてです。 小説は言語によるフィクションですが、小説家はストーリーを構築する際に、まずは視覚的なイメージから組み立て、それを言語化するという手順をとると思います。 しかし読者はその逆の手順をとります。読者は自分がそれまでに得た、視覚的情報をもとに、文章を視覚的なイメージに変換すると思います。 つまり読者は、自分たちの脳で再生しうる、断片的な視覚的情報をつなぎ合わせることで、作者の意図したものに近似させようとするのだと思います。 もちろん読者の想像は千差万別でしょう。 描きたいことがあるのなら、絵をまじえたほうがより読者に伝わると思うのです。わざわざ言語化するのは二度手間だと思います。 何が言いたいのかというと、私は小説より漫画のほうが、すべてにおいて(特に心理描写)優れていると思うのです。 もともと再現しえない情報を、無理やり自分の体験の切り貼りで代用している感覚を、私は好きになれません。 よく小説は想像力を養うといわれますが、それは受け身の想像だと思います。創造につながりはしないでしょう。 またよく漫画より小説を読めといった意見(特に高齢者)がありますが、私は賛同できません。 長くなりましたがkadowakiさんは小説は漫画より高尚という認識をお持ちでしょうか。回答お待ちしております。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.2

再回答させていただきます。 >なぜそう解釈できるのでしょうか。 もし、大宰がそう考えていなかったとしたら、 >小説と云うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。 >小説と云うものは、そのように情無いもので、実は、婦女子をだませばそれで大成功。 >里見八犬伝の序文に、婦女子のねむけ醒ざましともなれば幸なりと書いてありました。 と、あたかも小説をバカにしたような物言いをしながら、生涯にわたって小説を書き続けた動機や理由について全く説明しようがないからです。

bawn
質問者

補足

調べてみると太宰は資産家の家系に生まれたとありました。確かに金のために小説を書いたわけではなさそうですね。名誉欲はあったかもしれませんが。よく調べてから質問するべきでしたね。 私は現在21歳ですが、小説を全く読みません。歳をとるにつれて、小説以外のフィクションに対しても興味を失って来ています。 私は答えのない命題(例 正義とは何か)を提起している作品が良い作品だとおもいますし、フィクションとはそうあるべきだと強く思います。 デスノートという漫画をご存じでしょうか。この作品は正義とは何かを考えさせられる作品だと思います。(ご存知ないなら申し訳ありません。) 直接この哲学的な命題を提示するより、物語の中で提起することで、命題の敷居を下げる効果があると思います。 ただ、ある程度物分りがよくなれば、フィクションを経由せず直接その命題を理解することは可能だと思うのです。 つまりフィクションからしか得られないものはないと思います。 また私は漫画や映画の内容をすぐに忘れてしまいます。視覚的な情報(漫画キャラの容姿)などは長い間残りますが。 以上のことからフィクションは時間の無駄なのではないかと思うようになったのです。 私の考えは奇異でしょうか。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.1

>小説、映画、漫画などのフィクションの役割は、子どもの情緒や好奇心を育むことだと私は考えています。人間は年齢を重ねるほど、知的水準が向上するほどフィクションから遠ざかっていくものだと思うのです。 私が敬愛してやまない明治時代の小説家、二葉亭四迷は、「写実とは何か?」と問うて、「実相(現実)を仮りて虚相(真実)を写し出すこと」という趣旨のことを述べています。 具体的には、物事の真相・真実をよりリアルに描き出すためにこそ、フィクションが必要不可欠だというわけです。 なお、大宰が彼特有の諧謔的な言い回しで暗示しているのは、世間で幅を利かせている、《フィクションよりノンフィクションの方が写実的だ》という俗説、迷信に対する、いかにも辛らつな皮肉にほかなりません。 >彼は異端なのですか。 私は、姑息にも自虐、自嘲、逆接を自己防衛の武器にしたがった臆病な芥川、大宰、三島は決して心底から尊敬できませんが、彼等の小説観、虚構観となると、「異端」どころか、日本の文学界では最もオーソドックス(正統的)だったはずと自信をもって断言したいところです。

bawn
質問者

補足

>なお、大宰が彼特有の諧謔的な言い回しで暗示しているのは、世間で幅を利かせている、《フィクションよりノンフィクションの方が写実的だ》という俗説、迷信に対する、いかにも辛らつな皮肉にほかなりません。 なぜそう解釈できるのでしょうか。