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奈良について

実家が奈良なのですが前から疑問に思ってました。 江戸時代まで大和の中心は大和郡山城を中心とした 大和郡山でした。 明治時代になって行政の中心は現在の奈良市に移った訳ですが、 どういう過程で郡山から奈良になったのか詳しい資料がありません。 以前、大阪の「ピーバップハイヒール」という番組で廃藩置県の話をしていて 奈良県誕生の複雑な過程は説明されてました。(当初は堺県だった!) やはり廃藩置県の過程で行政の中心が郡山から奈良に移ったのでしょうか。 ご存知の方いらっしゃいましたら教えて頂けたら幸いです。

みんなの回答

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.7

ピーバップ 関東なので、上記番組でどのような説明があったか不明ですが 横浜・神戸ともに、それぞれの県の中での税金で開発するために、後背地を合体させた。 神戸の場合、播磨平野での税収を期待して播磨を摂津の一部である神戸にくっつけた 横浜の場合、相模平野での税収を期待して相模を武蔵の一部である横浜にくっつけた

bonky653
質問者

お礼

>横浜・神戸ともに、それぞれの県の中での税金で開発するために、後背地を合体させた。 神戸の場合、播磨平野での税収を期待して播磨を摂津の一部である神戸にくっつけた 大体こういう内容でした。 この番組結構勉強になりますよ。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

1858年郡山城出火 1861年郡山城再建着手 1868年(慶応4年)1月、新政府は添上郡奈良に大和鎮台を設置。 1870年郡山城再建中止 1871年(明治4年)改めて奈良県が設置(廃藩置県) 1873年郡山城破却 1876年(明治9年)堺県に編入されてしまう。 1881年(明治14年)に大阪府に編入され、奈良は「大阪府の大和地域」とされた。しかし、 1887年(明治20年)11月4日には大阪府より分割され、奈良県(第2次)が再設置された。 以上はWikipediaの 奈良県と郡山城(大和国)の部分より抽出。 手短に言うと、「使える建造物に県庁をおいた」そして「大和郡山城は、燃えて存在していないから県庁を置けない」 ということです。 明治政府も金がなくて困窮していたので、使える建物を使っています。 府県統合で、県庁が移動してしまったところでは、「県庁は地元で建設するから、来てください」運動が起こっています。つまり、建造物を提供すれば県庁は移動した。

bonky653
質問者

お礼

一番単純な理由ですね。 他の県庁所在地もそういう理由があったのでしょうか。 「ピーバップ」では兵庫県が拡大して神戸が県庁所在地なった理由は解説されてました。 詳しくは内容覚えてませんが。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 奈良時代の律令制下では「五畿七道」とよばれる行政区分がありましたが、ここに記されている「五畿」は大和・山城・摂津・河内・和泉を指します。それぞれは奈良県の旧国名・京都府の旧国名・大阪府の北西部と兵庫県の東部地域・大阪府南東部・大阪府南部に該当します。  見かけの行政区分とは別にそこにある荘園などの私有地が大きなウェイトを占めます。大和を実質支配していたのは興福寺です。「南都の大衆」などの言葉を聴いたことがあるかと思いますが、これは興福寺の僧兵や神人が春日大社の神輿を押し立てて、京都の朝廷に「嗷訴(または強訴)」と称して実力行動に訴えた際のことを指します。  興福寺はアジールですので幕府も朝廷もそれに逆らうことはできません(もしそれに抗うならば天罰が下るなどと考えられていました)。実際に興福寺は膨大な荘園を有しそこを財政基盤としていましたが、それに対する現地の土豪が在地領主層として実力を蓄え、彼らが大名としての地位を次第に確立していく形になります。その一例が大和郡山を中心とする筒井氏です。他にも室町時代には越智氏などもいます。ですから「大和国」といっても一人の領主が治めていたわけではありません。その領域範囲に注目せねば「○○国=現在の××県である」などの紋切り型の答えなど成り立ちません。  このことは「武蔵の国」と「江戸」の関係と同じです。江戸も「国」の概念でいえば「武蔵の国」の一地域ということになります。  もし大和の国から奈良縣に行政単位の経緯を詳しくお知りになりたければ奈良県の広報室に問い合わせれば詳細な資料を紹介してもらえます。  

bonky653
質問者

お礼

お答え頂いて申し訳ありませんが、お話が難しすぎます。 小生はそこまで歴史の専門家ではありませんので。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.4

すでに出ていますが、奈良奉行が統括する奈良地域と大和郡山藩の大和郡山を合わせたのが現在の奈良県です。 一時堺に統合、大坂に統合、分離の過程はあるものの、統合される前の奈良府の時点で奈良が県庁です。 これは奈良に大和鎮撫総督府をおいた流れからきており、幕末から明治維新にかけて新政府が奈良市に大和掌握の拠点を置いた流れからきていると思われます。 もっとも大和郡山を奈良の中心とする積極的な理由も見当たりませんが。

noname#188107
noname#188107
回答No.3

奈良県の歴史をつぶさにみていくと、 飛鳥の豪族の勢力を嫌って、平城京に遷都し、 平安遷都後はしばらく奈良県全域は寺社の荘園として 武家勢力は存在しませんでした。 有名な筒井順慶とてその父は興福寺の出で、 寺社の勢力だったのが戦国大名化しているわけです。 大和郡山は日本統一時に豊臣秀吉がその弟秀長に 堺も含めた近畿の奉行として城を築かせていますし、 その後、柳沢氏など徳川の有力大名がこの地を 納めています。 その当時でも寺社の勢力範囲と言うはそれなりのものが あったとは思われます。 明治新政府としては、武家(旧徳川)の支配地域外に 新たに行政の中心を据えてもおかしくないわけで、 もともと都があった地に戻しても不自然ではないわけです。

  • f272
  • ベストアンサー率46% (8477/18146)
回答No.2

> 江戸時代まで大和の中心は大和郡山城を中心とした大和郡山でした。 この認識はどうかと思う。 江戸時代では大和は,幕府領と各藩領に分かれていて大和全体の中心などなかったのではないか。 大和郡山はその中で最も大きな石高を持っていたので中心だったと思うのかもしれないが,それは大和の中心ではなく大和の最大の町であったということであるに過ぎない。 明治になると,幕府領は奈良県,五條県になり,藩領はそのままであった。廃藩置県で藩が県になっても領域はそのままであった。 その後大和全体が奈良県に吸収される,つまり奈良県が大和全体に広がったわけで,郡山県が大和全体に広がったわけではない。 つまり奈良県の起こりは,今の奈良市付近だったのです。

bonky653
質問者

お礼

実際郡山藩は15万石、周囲の藩はせいぜい 2、3万~数万石程度の小藩でしたよね。 大和国で大きかった事は間違いないと思います。 まあ政治自体はそれそれの藩でやってたので 中心と言うのは言い過ぎかも知れませんが。 しかし明治時代になって郡山ではなく奈良市に 県庁が置かれるようになったのはどういう過程だったのでしょうか。

回答No.1

奈良はかつて都があった場所です 平城京です しかし城はありません 大和郡山は城があります つまり城下町として発展した 奈良は都が京都に移ってからは 主に上皇や貴族の別荘地として栄えました 廃藩置県では 奈良がかつて都だったので ここを県庁所在地にしようと決めたわけです

bonky653
質問者

お礼

>奈良はかつて都があった場所です 平城京です しかし城はありません まあ古市城とか多聞城とか小さな城はありましたけどね。 政治の中心地としての城はありません。 それ以上に東大寺や興福寺と言った寺社勢力の方が強かったです。 >廃藩置県では 奈良がかつて都だったので ここを県庁所在地にしようと決めたわけです そんな資料ありましたっけ?地元でも見たこと無いですが。

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