『実体』
『如来の実体』
『如来の実体は、また法体ともいふ。実体とは全体、何物であると云ふにつき古来、種々の学説がある。実体とは実在を意味することあり。或いは事物の形式を抽象して本質のみを表(ひょう)して実体と名(なづ)くる者あり。また普通の属性や偶性を区別して其の本質を実体とするあり。
また実体とは現象の諸々の性質の奥に在る本体にして、万有の原因なりと云ふあり。神学にては実体を以て神性を表わし、人格的差別を超越するものとす。プラトーがイデーを万物の実体原因とし、デカルトが他に依らずして存在するものを実体とす、即ち神であると。スピノーザは自身に依って存在し無限永久必然なる実態即ち神であると。
ライプニッツは実体は活動し得る存在即ち力であると。カントは経験により来らず即ち純粋なる概念である、また実体は存在の最後の主体であると。或いは実体とは雑多の諸々の性質を総合せる基礎であると云ひ、また実体は現象の物の種々に変化するに拘わらず、内性不変動のものであると。
今の実体とは世界性(せかいしょう)と衆生性(しゅじょうしょう)を超越したる実在の第一義諦の如来性(にょらいしょう)を実体とす。実体は世界と衆生とを超越して而も二性(にしょう)の原因であると共に二性の内存である。
実体の本質なる実在につきての諸説は或いは人間の意識の境(きょう)を超越して不可知的であると説く、吾人は自己の意識に現れ来(きた)るもののみを知る実在は不可知的であると。観念的実在論者は、実在は観念的のものにて可知的にて、吾人の観念と実在とは一体であると。また実在以外に現象なく現象即ち実在であるとの説もある。
今は曰くは実在は吾人の観念と同一本質にして、不断の活動は其の属性にして、吾人の意志に比(ひ)すべく、若し吾人の観念と同一本質ならざれば、吾人は如来性と冥合(めいごう)すること能はざるべし。吾人が甚深の観念に入りて冥合して真如と相応するは本質が同一なるが故である。
起信論に真如の性(しょう)は言語道断心行所滅の体なれども唯、証のみ在りて相応するとは是である。
実体論には古来種々の説あり、物心二元論あり、唯物論あり、唯心論あり、また唯理論あり。唯物論者は謂(おもへ)らく宇宙を構造する本質は、物質の原子もしくは電子が在りて、之が永恒不滅にして且つ其の勢力は常恒存在して、其の自然律によりて万物を造る。
人間の精神の如きも脳髄神経を構造する細胞の作用に外ならずと。故に精神などは物質の副産物に外ならぬ。永恒の存在は物質の原子のみと。観念論者の説によれば心、生ずれば一切の法、生じ心滅すれば一切の法滅す。天地万物の色相は唯心の変現に外ならずと主張す。また唯理論者は云はく、物質いかに精妙なるとも物より精神の派生すべしと思はれぬ。また心質より物質の出現すと云うことも考えられぬ。
故に現象の上にては物と心とは異なれども其の実体は物心不二の理体である。之を仏教では真如と名づけてをる。即ち宇宙を包含する処の普遍的概念は変化極まりなき中に不変の法則が存在し之に依りて万物を生成す。其の物質と心質との原因なる統一的存在が即ち真如である。仏教にいはゆる真如とは、物心不二の理体なれども活動の主体なるが故に、心真如と名づけ物心一如の心である。
真如即ち実在は物心不二統一的存在を、物質に重きを置きて観る者が唯物論者にて、心質に傾く観方(みかた)を唯心論者とす。
心真如、即ち実体の本質は物心無礙超時間超空間的にして、而も偏時間偏空間絶体永恒万物内存の大心霊体とす。万物内存の故に内(うち)に非ず外(そと)に非ずして、而も内外(ないげ)に偏在せる絶対である。物心を統(す)ぶる故に大霊態とす。之を華厳に総該万有心(そうがいばんぬしん)と云う。之を宗教的に云わば法身毘盧遮那、即ち弥陀の法体(ほったい)と名づく。一切万法の本体にして一切生起(いっさいしょうき)の一大原因である。』(弁栄聖者著・人生の帰趣P172~175)
☆ だいぶ長くなってしまって、あれこれと心配になってきてしまいましたが、以下に質問です。
サラブレッドの御御脚を持つ“帰依者”としましては、深く理解は出来ないものの、なるほど、なるほどと、心に染み入ってくるのです。
だからこれを現代のお経であると捉えているのですが、この思いは幼稚すぎますでしょうか。
ここ哲学カテの住人の皆様の学ばれた知識を以て、御判断を仰ぎたいのです。
また文章の中の「第一義諦(だいいちぎたい)」の意味がよく分かりません。
辞書を見ても出ていませんでした。
分かる方いらっしゃいますでしょうか。
よろしくお願いいたします。
お礼
誠に有難う御座いました。
補足
この例文は「自己原因である者は自由だが、他者原因である者は違う。」という意味でしょうか。ラテン語は辞書さえ持っておりませんので宜しく御回答下さい。